ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第483話 1988年越後交通(長岡):復活の可能性を探る(その6)

今回は、上与板から槇原までの廃線跡です。

越後交通長岡線は、与板市街地を過ぎると延々と広大な田園地帯を通ります。新潟交通の灰方付近にも似た雰囲気ですが、こちらは新潟交通よりもっと人気がありませんでした。

 

地図7.引用:国土地理院地形図1/25000「与板」

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 地図7は、与板から越後大津付近の撮影ポイントを示します。与板市街地の南端にあった上与板を過ぎると、廃線跡は田園地帯に入ります。

 

写真28.与板方向を望む廃線跡(上与板~与板:1988年4月)

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 写真28は、上与板付近の廃線跡です。どこまでが越後交通の土地なのか境界がわかりませんが、この写真を見る限り、廃線跡は完全に沿線住民に占拠されている様でした。

 

写真29.槇原側から見た上与板駅跡(上与板:1988年4月)

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 写真29は、与板から1.5km、大河津駅から10.4km地点の上与板駅跡を槇原側から撮影したものです。線路が分岐していますが、右が本線で左は貨物用の行き止まり側線です。この2本の線路に挟まれた部分にホームが残っていました。

与板から上与板までは1.5kmですが、不思議なことに街中には駅がありませんでした。この上与板駅は与板市街地の南端にあり、なんとも不便そうです。長岡線は与板町から疎外されていたのか?

 

写真30.上与板方向を望む廃線跡(槇原~上与板:1988年4月)

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 上与板を過ぎると突然田園地帯に入ります。廃線跡にはレールがしっかり残っており、架線こそありませんでしたが、気動車だったらいつでも走れそうな感じでした。

 

写真31.槇原方向を望む廃線跡(上与板~槇原:1988年4月)

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 写真31の前方は槇原駅跡です。この辺りまでは並行する道路の沿道に民家があり人気を感じます。架線柱には架線こそありませんが、通信線は残っており、廃線と言うより休止線と言ったところです。

 

写真32.越後大津側から見た槇原駅跡(槇原:1988年4月)

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 写真32は、上与板から1.7km、大河津駅から12.1km地点の槇原駅跡を越後大津側から撮影したものです。槇原駅跡にもホームが残っていました。駅の西側は集落となっており、この辺までは人気がありましした。

 

写真33.槇原方向を望む廃線跡(越後大津~槇原:1988年4月)

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 槇原を出ると廃線跡は民家がない田園地帯に入って行きます。写真33は、田園地帯の入り口付近です。稲わらを干す稲架が廃線跡に入り込んでいます。線路を横断する道路は、廃止後に造られたようで、交差部のレールは切り欠かれていました。