今回の話題は車両ネタではなく、廃線ネタです。よって、車両の写真は1枚もありませんのでご了承願います。
広義で廃線ネタもローカル線の回顧に含まれると思いますが、私はあまり廃線探訪には興味がありません。ところが、貨物専業鉄道となった越後交通長岡線の撮影を重ねる過程で、既に廃止となっていた区間がそのまま放置されており、越後交通は、いずれ復活を目論んでいるとの噂を耳にし、噂が本当かどうかを確かめるため、雪解けを待って、1988年4月に廃線跡を実見しに行きました。今回はその時のレポートです。
なお、越後交通長岡線の廃線跡探訪に関するレポートは、既に多くの方が投稿されており、いまさら投稿するのも正直気が引けますが、1988年と言う中途半端な時期の投稿は意外と少なく、そして撤去作業をほとんど行わずに放置されていた廃線跡は、まだ辛うじて現役時代の名残りを感じることができた、ギリギリの時期だったことから、今回の投稿に至りました。
以前、第274話~第277話で蒲原鉄道の廃線探訪を投稿しましたが、廃線跡の写真だけでは、その場所に行ったことがない方には、何のことだかさっぱりわからな結果となってしまうので、今回は越後交通長岡線の路線イメージと撮影ポイントがわかるように地図を付けてみました。
地図1.引用:国土地理院地形図1/25000「寺泊」
地図1に寺泊近辺の地形図を示しますが、この地図は廃線探訪時に購入したもので、既に長岡線の記載はありません。よって、ピンク色のマーカーで長岡線の路線跡を示し、丸数字は掲載した写真番号、黒い三角マークは撮影向きを示します。また、黒丸印と手書きの地名は、長岡線の駅だった場所と駅名を示します。
越後交通長岡線は、長岡市内の信濃川西岸である西長岡から、寺泊方面と来迎寺方面に行く路線でした。しかし、モーターリゼーションの影響で寺泊側の路線を段階的に廃止し、1975年には同社の栃尾線と共に旅客輸送を廃止しますが、長岡線の方は来迎寺~西長岡~越後関原間を貨物専業鉄道として残し、1995年まで存続しました。ところが、1970年代に生じたオイルショックの教訓で、長岡線の旅客営業をもしかしたら復活するかも・・・との判断で、1975年に廃止された大河津(現JR寺泊)~越後関原間はそのまま放置されました。
写真1.寺泊の市街地俯瞰 (寺泊:1988年4月)
まずはともあれ、当初の起点であった寺泊から廃線探訪をスタートしました。この路線は寺泊(注1)から西長岡まで30km以上もあり、1日では踏破できないので、2日間に分けて初日は寺泊から与板までです。
(注1)「寺泊」と言う駅名について
現在のJR越後線の寺泊駅は、越後線の前身である中越鉄道が1913年に開通した時に開業しました。開業時点の駅名も「寺泊」でしたが、越後交通長岡線の前身である長岡鉄道が1915年に開通するのに合わせて、「大河津」と改称し、長岡鉄道の終点駅に「寺泊」の名称を譲りました。それ以降、1986年に再び「寺泊」に改称され現在に至ります。この廃線探訪当時は、すでにJRの駅は「大河津」から「寺泊」と称した後でしたが、このブログでは長岡線の当初の起点を「寺泊」、JR寺泊駅を「大河津」と呼ぶことにします。また、長岡線の寺泊新道駅は寺泊~寺泊新道間が1966年に廃止された以降、寺泊駅に改称されましたが、このブログでは「寺泊新道」と呼ぶことにします。
この日はバスで寺泊へ直行しました。 寺泊は路線廃止が早かったためか、鉄道の遺構らしきものは何もないばかりか、どこが駅だったのかもわからない状況でした。長岡線は寺泊~寺泊新道間の廃止が一番早く1966年でした。実際の寺泊と寺泊新道との直線距離は1kmもありませんでしたが、この区間は海岸段丘の高低差があるため線路はスイッチバックを介して3kmもありました。廃止が早かったのでこの区間は道路に活用されており、復活の可能性は皆無のようなので探訪はパスして、寺泊の市街地から坂道を短絡して寺泊新道まで向かいました。
写真1は、寺泊新道付近から寺泊の街を俯瞰した写真です。前方にはバスの車庫が写っています。当時はこのバスの車庫がかつての寺泊駅と思っていましたが、そうではなく実際はもっと西側の市街地の外れにあったようです。
写真2.寺泊新道駅跡(寺泊新道:1988年4月)
寺泊市街から海岸段丘を登ると、寺泊新道駅があった場所(写真2)ですが、ここは道路になっていました。この先、大河津方面は途中から廃線敷が道路と別れて並行しますが、1973年に廃止されてから、すでにレールは撤去されていたので、この区間もパスしてバスで大河津へ向かいました。
地図2.引用:国土地理院地形図1/25000「寺泊」
地図2は、寺泊から大河津付近の撮影ポイントを示します。大河津駅近傍の詳細撮影(写真5~9)は、次の第479話で報告します。
写真3.法崎方向を望む廃線跡の築堤(大河津~法崎:1988年4月)
法崎から大河津間の廃線跡は、少し道路から離れて田園地帯を通ります。写真3は、島崎川を越える長岡線の築堤ですが、この付近の廃線跡は、レールや架線柱は全て撤去されていました。
写真4.JR越後線交差付近の廃線跡(法崎~大河津:1988年4月)
長岡線は、大河津駅の西側で越後線と平面交差のため、越後線に一旦合流して大河津駅の自社線ホームに入線していました。写真4は、長岡線が越後線に合流する手前ですが、このあたりには、長岡線のレールや架線柱、信号機などが残っていました。
写真10.大河津分水方向を望む廃線跡(大河津~大河津分水:1988年4月)
大河津駅構内の様子は次回にパスして、写真10は、1975年の廃止区間です。
ここは、大河津から西長岡方面に少し歩いた地点です。この辺りは長岡線のレールと架線柱がほとんど手つかず状態で残っていました。線路敷には家庭菜園が点在し、もはや誰の土地なのか?・・・廃線跡はこんな感じで延々と続いていました。