ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第446話 1992年立山砂防:予防保全的処置

1992年はどういうわけか、立山砂防に3度も出向きました。今考えると、何かに取り憑かれたとしか思えませんが・・・。

その初回は6月の梅雨の合間でした。天気予報を見ていて、富山は梅雨晴れであることを知り、金曜日だったので、就業後にカメラだけ持って発作的に出掛けました。

上野から夜行の急行能登号に乗り、辿り着いたのは立山砂防の天鳥オーバーハングでした。

 

1.ルート変更された軌道 (天鳥砂防ダム付近:1992年6月)

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しかし、この写真をご覧ください。天鳥オーバーハングを過ぎたあたりの風景が別世界のように変わっていました。そして、軌道もルート変更されていました。

実は、この写真の右端に少し写っていますが、土砂崩れで軌道が埋まっています。このため予防保全的にルート変更したというわけです。

この場所は立山砂防のルート変更の変遷を物語る縮図を見ている様でした。

 

2.ルート変更前の軌道 (天鳥砂防ダム付近:1990年5月)

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 この写真は、1990年に撮影した同地点です。写真1と見比べて頂くと一目瞭然です。このように路線も周りの風景もどんどんと変化して行きます。常に自然との闘いです。

 

3.ルート変更された軌道 (天鳥砂防ダム付近:1992年6月)

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 この場所は、まだ工事中のようでしたが、一応、線路はつながっており、すでに新ルートで運行されていました。そして、新設された退避線には、保線資材を積んだトロッコが1台置かれていました。

 

4.新ルートを走行する人車列車 (天鳥砂防ダム付近:1992年6月)

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 一番列車がやって来ました。 旧ルートに比べて新ルートはなんとも単調です。

 

5.新ルートを走行する人車列車 (天鳥砂防ダム付近:1992年6月)

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しかし、この新ルートを敷くためには膨大な埋め立て土砂が必要だったと思いますが、かなり思い切った処置です。この土砂はどこから持ってきたのでしょうか?まさか土砂崩れの土砂を転用したのか?

 

6.人車列車 (天鳥橋:1992年6月)

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 新ルートは、土砂崩れの少し先の天鳥橋の手前で旧ルートに合流していました。

 

7.人車列車 (天鳥橋:1992年6月)

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 この角度で撮影するといつもと変わりありませんが、後方の土砂崩れは前回訪問した1990年GWの時よりもかなり大きくなっています。このままではさらに崩壊が進みそうで、新ルートもいつまでもつか?

第445話 1991年名鉄(揖斐):朝の旧型3連を見に行く

1991年9月は、連休を利用して関西方面のローカル私鉄早回りを行いました。

東京から夜行の大垣行き鈍行に乗り、朝一で名鉄揖斐線に寄り道しました。

名鉄揖斐線の朝と言えば、かつてはモ510形、モ520形の3連が有名でしたが、モ520形が引退し、モ510形も主力から退くと、元瀬戸線OBが3連を組んで活躍していました。

 

1.モ751+モ702+ク2323 (旦ノ島~尻毛:1991年9月)

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しかしながら、この瀬戸線OBも、年齢的にはモ510形とほとんど変わらぬ老体です。ここでこの3連が残ったのは、輸送力確保のためと思われます。この当時、揖斐線にはモ770形という新型の2連接車が導入されており、モ510形に代わる岐阜市内線直通車として運用されていましたが、この老体3連の輸送力には敵いませんでした。

 

2.モ752+モ703+ク2325 (旦ノ島~尻毛:1991年9月)

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そんなわけで、この瀬戸線OBはまだまだこの先も主力の座に君臨し続けます。

 

3.モ751+モ702+ク2323 (旦ノ島~尻毛:1991年9月)

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もうお彼岸の頃でしたが、朝から岐阜は蒸し暑く、非冷房のこの車両は、側窓全開でした。この列車は黒野行なので、ラッシュとは逆方向ですが、結構混んでしました。

 

4.モ751+モ702+ク2323 (旦ノ島~尻毛:1991年9月)

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 忠節行の3連は満員御礼状態です。押し込まれた乗客は、運転席の横にまで入り込んでいるのが見えます。

 

5.モ754+ク2326 (旦ノ島~尻毛:1991年9月)

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 現在この路線は存在しません。名鉄の大英断により、2005年に揖斐線美濃町線岐阜市内線が一挙に廃止され、あっという間に15年が経ちましたが、これほどの輸送需要にもかかわらず、バブル期を過ぎると大手私鉄はお情け無用の時代になりました。

 

6.キハ8203+キハ8202+キハ8201+キハ8205+キハ8204 (日比野:1991年9月)

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この写真はおまけです。偶然、日比野で見かけたキハ8000系です。そして、これらの車両は最後まで残った、ロングボディーのキハ8200形5両でした。

ちょうど、北アルプス号を引退した後だったと思われ、ここに留置されていたようです。国鉄キハ82形と名鉄パノラマカーをたして割ったような車両です。かつては高山本線から富山を経由して富山地鉄立山宇奈月温泉まで乗り入れていた異色の特急車です。ここで逢うのも何かの縁。この写真が遺影となりました。

第444話 1990年富山地鉄:高度経済成長期のカルダン車

富山地鉄は地方私鉄では珍しく、早い時期から自社発注のカルダン車が導入されていました。ちょうど高度経済成長期にあたり、立山黒部アルペンルートの開通など、観光需要も追い風になった、羽振りの良い時代だったのでしょう。

ところで、カルダン車とは言え、当時一番初期の車両はもう製造から35年を経過し、そろそろ引退が近づいていました。しかし、まだまだ廃車はもったいない!! この頃から延命処置が始まりました。そして、車体更新されて少々スタイルが変わってしまった車両もありました。

 

1.モハ14791 (稲荷町:1990年5月)

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 モハ14790形(注1)は、1955年製の富山地鉄で一番古いカルダン車です。地鉄のカルダン車では、特異な正面3枚窓で、導入時は両運車同士のMT編成でした。この車両はその後増備されず、異端車となりましたが、他の車両との併結が可能だったので、運用上の支障はありませんでした。

このモハ14791は、1985年に側窓が2段サッシ化されましたが、正面3枚窓は辛うじて原型を維持しました。一方、相棒のモハ14792は、この時姿が見えず、どうしたものかと思っていたら延命更新を受けている最中で、今回は写真がありませんが、前面窓の2枚化など原型を損ねてしまい、ドア配置の変更など、全く違う車両になってしまいました。

(注1)モハ14790形の車歴

富山地鉄モハ14791←富山地鉄モハ14771:1995年日本車輌

富山地鉄モハ14792←富山地鉄モハ14772←富山地鉄クハ171Ⅰ:1995年日本車輌

モハ14790形は、当初モハ14770形と称していましたが、モハ14760形が増備されて70番台が生じ、番号の重複をさけるため、1981年にモハ14790形に改番されました。また、モハ14792は、製造当初は両運のクハでしたが、1958年にモハ化され、以降モハ14790形は2両体制となり、両運車の機動性を発揮して単行から波動輸送時の増結用まで幅広く活躍しました。しかし、延命処置を行ったにもかかわらず、非冷房であったことなどから、モハ14791は1995年、モハ14792は1997年に廃車されました。

 

2.クハ173 (稲荷町:1990年5月)

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 富山地鉄は、形式番号の付け方が独特でした。電動車が5桁で上3桁が主電動機の出力(PS)を表し、下2桁が形式と車号を表しています。また、制御車は吊り掛け車が2桁、カルダン車が3桁でした。

カルダン車の制御車は、モハ14780形とユニットを組むクハ180形と、増結用またはモハ14720形とユニットを組むクハ170形に大別されましたが、クハ170形は改造車と新車が混在していました。ちなみに写真のクハ173は元モハ10020形の中間車だったサハ220形からの改造車でした。後にクハ170形は、形式が細分化されて、クハ170形(171Ⅱ,172)、クハ173形(173,174)、クハ175形(175)となりました。

 

3.クハ173の連妻面 (稲荷町:1990年5月)

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この写真は、クハ173の連結面です。増結用のクハは連妻がこのように非貫通でした。

<クハ170形の混成内訳> 

・クハ171Ⅱ(モハ14721と2連化)←サハ221(元10020形第1編成の中間車)

・クハ172(モハ14722と2連化)←サハ222(元14720形の中間車)

・クハ173(増結用)←サハ223(元10020形第2編成の中間車)

・クハ174(増結用)←サハ224(元10020形第3編成の中間車)

・クハ175(増結用)・・・この車両は新製車で、モハ14760形と同一スタイル

なお、富山地鉄オリジナルのカルダン車はほぼ18.5m車でしたが、クハ171Ⅱと172は、モハ10020形の運転室を切り取った車体設計だったので、車体長が短く17m級でした。

 

4.クハ182+モハ14782 (稲荷町:1990年5月)

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 クハ180形は製造当初からモハ14780形とコンビを組んでいました。この編成は、モハ14770形に続く、2番目のカルダン車となりましたが、正面2枚窓の永久連結車となり、3編成投入されました。

 

5.モハ14782+クハ182 (稲荷町:1990年5月)

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 当初は、側窓も1段窓でしたが、車体更新時に2段サッシ化され、安っぽくなりました。

 

6.モハ10023+モハ10024 (稲荷町:1990年5月)

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 モハ10020形は、3番目のカルダン車として、中間車にサハ220形を連結した初のユニット編成となり、MTMの3連3編成が投入されました。

このシリーズから側窓が2連2段のユニットサッシとなり、この窓割りはモハ14760形まで続きました。

 

7.モハ10024+モハ10023 (稲荷町:1990年5月)

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 しかし、運用の見直しにより、1969年にモハ14720形共々中間車を外して2連化されてしまいました。

写真のモハ10023+モハ10024は、車体更新時に車体裾のRがストレート化されました。この時点ではまだ非冷房ですが、1992年には冷房化されました。

この後、富山地鉄には1992年に訪問しますが、いよいよ京阪3000系の導入が始まり、吊掛車の淘汰や、新塗装への塗り替えが行われます。

第443話 1990年富山地鉄:運輸省規格型のパラダイス(その2)

富山地鉄ではカルダン車に交じって、運輸省規格型の吊掛車が富山平野を駆け回っていました。以前から走行撮影の機会を狙っていましたが、ようやくその機会が来ました。しかし、雨です。

 

1.クハ13+モハ14713 (越中三郷~越中舟橋:1990年5月)

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 この日は、1990年GWの北陸地方ローカル私鉄早回りの途中で、午前中は晴天で、立山砂防の撮影に出向いていましたが、午後は富山地鉄の撮影と同時に、この通りの雨になってしまいました。やはり、ついでの撮影にバチが当たってしまったようです。

 

2.モハ14711+クハ11 (越中舟橋越中三郷:1990年5月)

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 この日は富山に宿泊予定だったので、雨が降っても予定通り富山地鉄の撮影です。

GWなので臨時列車も多数走っていましたが、この天気では気合が入りません。

 

3.モハ14751+モハ14753 (越中舟橋越中三郷:1990年5月)

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 モハ14750形も2連を組んで立山線の急行運用に充当されていました。このての両運車もずいぶん減ってきましたが、富山地鉄では波動輸送用の増結車として重宝されていたようです。

 

4.モハ14715+クハ15 (越中舟橋越中三郷:1990年5月)

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 モハ14710形+クハ10形は元名鉄3800形+ク2800形ですが、富山地鉄以外に、豊橋鉄道大井川鉄道に転じました。1990年時点、他車に転じた車両も健在でしたが、本家の名鉄に残っていた同型車は、1989年に全廃されてしまい、そういう意味では貴重な存在です。

なお、豊橋に転じた車両は主要機器を国鉄の中古品に交換され、1991年まで活躍しました。大井川の方は、納涼展望車に改造された車両もありましたが、一般車の方は1998年まで活躍しました。

名鉄3800形+ク2800形の譲渡履歴>

名鉄モ3805+ク2805→大井川モハ310+クハ510(クハ510→クハ861)

名鉄モ3807+ク2807→富山地鉄モハ14711+クハ11ロングシート車)

名鉄モ3808+ク2808→富山地鉄モハ14712+クハ12ロングシート車)

名鉄モ3809+ク2809→富山地鉄モハ14713+クハ13クロスシート車)

名鉄モ3811+ク2811→富山地鉄モハ14715+クハ15クロスシート車)

名鉄モ3812+ク2812→富山地鉄モハ14716+クハ16クロスシート車)

名鉄モ3813+ク2813→豊橋モ1721+モ1771

名鉄モ3814+ク2814→富山地鉄モハ14717+クハ17クロスシート車)

名鉄モ3815+ク2815→富山地鉄モハ14718+クハ18ロングシート車)

名鉄モ3822+ク2822→大井川モハ3822+クハ2822

名鉄モ3829+ク2829→大井川モハ3829+クハ2829

 

5.モハ14718+クハ18 (越中舟橋越中三郷:1990年5月)

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 しかし、運輸省規格型電車も、観光路線で立派なカルダン車が多い富山地鉄ではそろそろ肩身が狭くなってきた感じでした。富山地鉄では、モハ14760形の増備がストップしていましたが、近い将来、次の新車が導入されれば、先ずはこの元名鉄グループが淘汰される運命でした。

 

6.クハ18+モハ14718 (越中三郷~越中舟橋:1990年5月)

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 結局、富山地鉄は次期新車の発注はなく、京阪電鉄から3000系特急車を譲受することになりましたが、予想通り古老の運輸省規格型は1993年までに淘汰されてしまいました。

この日は天気が悪く、思うような撮影も出来ませんでしたが、このリベンジは1992年となります。

号外2020.09.21:敬老の日に想うこと

つい先日地下鉄の車内で、隣に座っていたお二人のご老人の会話が衝撃的でした。

ちょうど「敬老の日」でもあり、これからの高齢化社会に向けて、ぜひ皆さんにも考えていただきたいと思い、今回は通常のブログから脱線しますが、「号外」と言うことでご了承下さい。

 

以下、ご老人の会話です。

老人A:このまえ泉岳寺に行ってきましたが、近くに新しい駅が出来たので大変便利になりましたよ。

老人B:あれは確か、「高輪なんとか」とうい駅でしたよねェ。

老人A:えーっと、「高輪ゲーなんとか」と言ってましたが・・・。

老人B:ああ、「高輪ゲーバー」でしょ。

老人A:そうそう、ゲーバー、ゲーバー・・・。

私:エッ!

 

あれだけ話題になったあの駅名が、いつのまにか「ゲーバー」になってしまいました。

このご老人は、お二人とも70~80代とお見受けしました。結構かくしゃくとされており、真面目に大きな声で「ゲーバー」を連呼されていました。他の乗客の反応は微妙。なぜか隣に座っていた私が恥ずかしい思いをしました。

ここで気づいたことは、このご老人たちにとって、「ゲートウェイ」も「ゲーバー」も意味はなく一緒なのです。歳をとるということは、こういうことなんですね。

だから、私個人的には 「高輪ゲーバー」を認めてあげたい。しかし、単なるご高齢者の会話では済まされない気がします。

「高輪ゲートウェイ駅」は新しく、バリアフリーも徹底された素晴らしい駅ですが、残念ながら駅名だけはバリアフリーではなさそうです。

 

画像:ある日の高輪ゲー・・・駅。

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人生100年と言われますが、いくら長生きしても、それなりに老いぼれてしまいます。決して他人事ではありません。高齢化社会には、わかり易さが必要です。わかり易さこそがバリアフリーの原点なのかも。

話しは変わりますが、「アーバンパークライン」なども然りです。先日京浜東北線の車内放送で、「東武野田線は運転見合わせ中です。」と車掌さんが言ってましたが、もう「アーバンパークライン」ではなくなってしまったのか?

しかし、「アーバンパークライン」と言ったところで高齢者には通じなかったかもしれません。「東武野田線」と言ってしまった車掌さんは、口が滑ったのではなく、きっと賢明な判断をされたのでしょう。

やはり、「アーバンパークライン」は高齢者には難しいと思います。せめて、アーバンライン、パークライン程度か?しかしそれではどこの路線なのか見当もつきません。

そうなると、やっぱり野田線です。どうせなら、路線名を「やっぱり野田線」にしてみてはどうでしょう。このくらい単純明快でインパクトのある名称なら、一度聴けば一生忘れることはないと思いますが・・・くだらない話で済みません!!

第442話 1990年富山地鉄:運輸省規格型のパラダイス

いつしか吊掛車を追い掛けるようになりました。しかし、1990年代になると吊掛車も急激に減少します。その吊掛車を求めて琴電や一畑、名鉄揖斐・谷汲線によく出向きましたが、意外にも富山地鉄には吊掛車が結構残っており、特に戦後の車両不足を補うため登場した運輸省規格型のパラダイスでした。

今回は、まだ京阪3000系が導入される前の、1990年の富山地鉄の話題です。

 

1.モハ14718+クハ18 (稲荷町:1990年5月)

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 富山地鉄には立派なカルダン車が多数存在していましたが、戦後に自社発注されたモハ14750形や、雑多な旧型車を淘汰するために名鉄から譲受したモハ14710形+クハ10形などがまだまだ活躍していました。

 

2.クハ13+モハ14713 (電鉄富山:1990年5月)

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 モハ14710形+クハ10形は元名鉄3800形+ク2800形です。1948年製の運輸省規格型電車で、飾り気のない画一化されたスタイルです。1968年~1969年に2連7編成が名鉄から導入され、一挙に雑多な旧型車が淘汰されました。当初は特急運用にも使用されたことから、7編成中4編成はクロスシート車でした。

 

3.クハ13+モハ14713 (稲荷町:1990年5月)

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また、この車両は名鉄時代は貫通扉付きでしたが、富山地鉄入線後の1983年に非貫通化され、その際に前照灯の2灯化など、名鉄にはない顔つきになりました。

 

4.モハ14713+クハ13 (稲荷町:1990年5月)

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 モハ14713+クハ13はクロスシート車でした。

この当時、高速運転をする2扉クロスシートの吊掛車は、富山地鉄以外に一畑電鉄名古屋鉄道福井鉄道北陸鉄道大井川鉄道東武鉄道くらいだったでしょうか。

 

5.クハ12+モハ14712 (越中三郷:1990年5月)

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 クハ12+モハ14712 はロングシート車でした。富山地鉄は観光路線なので、クロスシートの割合が高く、意外にもオール・ロングシートは吊掛車だけでした。

 

6.モハ14751+モハ14753 (稲荷町:1990年5月)

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 モハ14750形もロングシートの吊掛車ですが、こちらは富山地鉄オリジナルの両運車です。この車両も1948年製の運輸省規格型電車で、当初はモハ1500形、クハ1050形でしたが、クハを電装化した時に改番を行い、4両のモハ14750形になりました。

 

7.モハ14753+モハ14751 (稲荷町:1990年5月)

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 また、この車両は元々ドア間クロスシート車でしたがロングシート化され、クハ160形と編成を組んだ時期には片妻を貫通化し、その後再度非貫通化(モハ14753を除く)されるなど、めまぐるしく改造を受けています。

第441話 1989年南部縦貫:赤字が創るメルヘンの世界(その5)

営農大学前~森田牧場前間は、絵になる景色が濃縮されており、この日の午後の撮影は、この区間をウロウロしながら行いました。しかし、列車本数が少ないので、暇つぶしが大変です。営農大学前~森田牧場前間を何度往復したことか。

 

1.キハ102 (営農大学前~森田牧場前:1989年5月)

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列車の運行回数が少ないと撮影を無駄にすることもできません。絵になる景色は多くても陽の向きの制約など、なかなか思い通りの撮影ができませんでした。

 

2.キハ102 (営農大学前~森田牧場前:1989年5月)

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夕方になると、築堤に陽が当たり、赤いレールバスが映えます。
この築堤では、何枚も連写できました。調子に乗ってフィルムの大量消費をしてしまいました。

 

3.キハ102 (営農大学前~森田牧場前:1989年5月)

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連写の末、 レールバスは夕陽を受けながら森の中に消えて行きました。さて、午後の2往復目が行ってしまいました。ここで撤収するつもりでしたが・・・・。

 

4.キハ102 (営農大学前~森田牧場前:1989年5月)

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 この日、最後の撮影は野辺地行の最終列車でした。

本当はこの列車に乗る予定でしたが、まだ日没まで時間があり、十分に撮影できたので、撮影に踏み切りました。

 

5.キハ102 (営農大学前~森田牧場前:1989年5月)

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 レールバスにほんのり夕陽が当たり、まずは期待通りとなりました。GWなので、マニアらしき人達も乗っており、この列車でお帰りの様です。

 

6.キハ102 (森田牧場前~営農大学前:1989年5月)

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 そして去り行く最終列車の後追い撮影です。

1日5本の最終列車が行ってしまいました。さて、どうやって帰るか?

ご安心下さい。「禁断の路線バス」がいっぱい走っています。結局この日も、レールバスには一度も乗らず仕舞いでした。

この日は営農大学前からバスに乗り、一旦青森まで戻って、夜行急行の八甲田号で明日の目的地である栗原電鉄に向かいました。