ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第658話 1994年一畑:黄砂舞う春の日(その3)

この日はもう旧型車は走らないと諦めていましたが、デハ23の運行を確認できたので、ずいぶんモチベーションが回復しました。そして、園~布崎間では、どうでも良い80系を何本か見送ってデハ23を待ちました。

 

1.デハ23+クハ101 (布崎~園:1994年4月)

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 夕方になると黄砂もなくなり、視界がはっきりしてきました。望遠レンズを覗いていると、ようやくお目当ての列車が戻って来ました。やはり、安っぽい造りの80系とは違い、昭和初期の重厚な雰囲気が漂ってきます。しかもフルノッチで全速力です。80km/hは出ているでしょうか。吊掛音も豪快です。

 

2.デハ23+クハ101 (布崎~園:1994年4月)

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幸い、この電車の塗装は綺麗でした。光線状態も良く、これが赤電だったら・・・。

この日は赤電の撮影は出来ませんでしたが、この電車も同年代の、誇り高き手動ドア車です。 やはり一畑はこれです!!この当時、ドアが自動で閉まらない電車は他にはなかったと思います。本来、一畑電鉄では手動ドアの車両は赤塗装のはずでしたが、どういうわけか、この旧型コンビは違いました。どうせなら赤色に塗って欲しかったです。

 

3.デハ81+クハ181 (一畑口~伊野灘:1994年4月)

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 陽もだいぶ傾いて来ました。この日の最後は一畑口での撮影ですが、また80系です。一畑口はスイッチバックの駅なので、全ての列車がここで方向転換します。列車が駅に停車中に撮影位置を少し移動すれば、両方の先頭車を撮影できますが、この列車は向きが変わっても同じ顔なので、無駄な撮影はやめました。

 

4.一畑口駅標識 (一畑口:1994年4月)

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 ここは、いわく有りのスイッチバック駅ですが、意味の無いスイッチバック駅です。今さら線形を改修するのも面倒なのでしょうが、この駅を通る電車の乗務員さんはもっと面倒そうです。

 

5.デハ82+クハ182 (一畑口~伊野灘:1994年4月)

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 ほとんどの列車がここで交換しますが、タイミング悪く80系同士の交換だったので、先程の80系とは違う列車ですが同じ列車を連写した様に見えます。

 

6.デハ72+クハ172、クハ101+デハ23 (一畑口:1994年4月)

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 日没間際まで粘り、70系とデハ23+クハ101の交換を撮影し、この日は終了です。

この日は出雲市に1泊して、翌日も一畑電鉄の撮影が続きますが、その様子は別途お伝えします。

第657話 1994年一畑:黄砂舞う春の日(その2)

一畑電鉄大社線は同じ車両のピストン運行なので2列車程度撮影すればもう十分です。その後は再び本線に戻って撮影ですが、こちらも車両がつまらないのでどうしようもありません。とりあえず、70系を撮影するため園(その)へ向かいました。

 

1.デハ23+クハ101 (園:1994年4月)

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 ところが、川跡から乗った列車はデハ23+クハ101の旧型コンビでした。70系以外は80系しか走っていないと思っていたので、これはラッキーです。園で下車し、デハ23を見送りました。この車両はいずれ戻ってくると思います。気合を入れて撮影ポイントへ向かいました。

 

2.クハ172+デハ72 (布崎~園:1994年4月)

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園~布崎間は、宍道湖畔の田園地帯です。障害物は何もなく、何枚でも連写できる場所です。まずは70系です。まだ黄砂の影響でスッキリしませんが、いい感じに順光となりました。しかし、視界が良くなってくると電車の汚れが目立ちます。景色は綺麗ですが電車が汚い!。

 

3.クハ172+デハ72 (布崎~園:1994年4月)

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 70系は正月輸送では4連となり特急運用に就いていましたが、普段は2連のローカル運用が主体です。しかし、この頃はボロい電車ばかりだったので、クロスシートの70系が来ると得をした気分になりました。

 

4.クハ172+デハ72 (布崎~園:1994年4月)

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 ところで、非冷房の吊掛車ばかりの一畑電鉄でしたが、とうとうこの年に冷房付きのカルダン車が導入されることになりました。関東の大手私鉄から中古車を購入するとの噂があり、恐らく、西武から401系でもやって来るのかと思っていました。そうなると、旧型車は一掃されてしまうのか?

 

5.クハ183+デハ83 (布崎~園:1994年4月)

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 70系が行ってしまうと、しばらく80系しか来ません。この電車も元西武電車ですが、これとて西武から401系が来たら、恐らく先はありません。

 

6.クハ182+デハ82 (布崎~園:1994年4月)

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 一畑電鉄はすでに西武化していましたが、もし西武401系がやって来て、オリジナルの旧型車を一掃してしまうと、完全に西武一畑線になってしまいます。

第656話 1994年一畑:黄砂舞う春の日

1994年は仕事の関係で広島に滞在していたため休日を利用して西日本のローカル私鉄を彷徨していました。この年、3月末で野上電鉄がなくなると、琴電一畑電鉄に出向く回数が増えました。今回は4月のある土曜日に広島からバスに乗り一畑電鉄を訪問した話題です。

 広島から出雲市までは高速バスの「みこと号」で3時間ほどです。これがJRだと、岡山経由の新幹線と伯備線乗り換えで約4時間で料金も高く、芸備線木次線利用では接続も悪く移動だけで1日終わってしまいます。やはり陰陽連絡はバスが優位と言うか、逆に芸備線木次線は勝ち目もなく全くやる気なしです。

よって、広島バスセンターを朝出発して出雲市には昼前に到着しました。本当は前日の夜に移動したかったのですが、仕事の都合で朝移動となり、その結果、朝のデハニを含む旧型3連が撮影できませんでした。 

 

1.クハ172+デハ72 (大津町~武志:1994年4月)

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一畑電鉄は、1993年の正月に訪問して以来、1年3ヵ月ぶりでしたが、今回は初めて正月輸送ではなく普段の素顔の一畑電鉄です。やはり正月輸送は特別で、普段の一畑電鉄はおとなしい鉄道でした。

 

2.クハ182+デハ82 (大津町~武志:1994年4月)

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まずは、出雲市から川跡まで歩いて撮影です。

最初の撮影は70系でしたが、普段の日はラッシュ時を外すと80系ばかりでなんとも味気ない状況でした。

 

3.デハ3 (高浜~川跡:1994年4月)

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 続いて、確実に旧型車が撮影できる大社線に出向きました。正月の大社線は本線からの直通車で賑わいますが、普段の日はデハ1形の単行が線内をピストン運行となります。

 

4.デハ3 (高浜~川跡:1994年4月)

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 この日の大社線はデハ3が充当されていました。大社線の沿線は一面広大な田園地帯ですが、まだ田植えの準備が始まったばかりです。

 

5.デハ3 (高浜~川跡:1994年4月)

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大社線の沿線には、立派な屋敷森が点在しています。 古風な車両と屋敷森がよくマッチします。 

 

6.デハ3 (高浜~川跡:1994年4月)

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 ところで、どうも画像が鮮明ではありません。最初は春霞かと思っていましたが、これは黄砂の様です。黄砂は関東地方ではあまり馴染みがありませんが、偏西風に乗って中国の黄河流域から飛んでくる微粒の砂です。最近では砂ばかりではなくPM2.5に代表される有害物質まで飛んで来る厄介なヤツですが、こんな日に黄砂とは、日頃の行いが悪かったのか・・・。

第655話 1992年京福(越前):元気だった頃(その6)

今回は京福電鉄福井支社の盲腸線だった永平寺線です。

永平寺線は元々永平寺鉄道と言う、北陸本線の金津から永平寺までの私鉄でしたが、合併により京福電鉄の一員となりました。しかし、モーターリゼーションの影響で金津~東古市間が1969年の廃止され、なぜか東古市~永平寺間の盲腸線6.2kmが残りました。

 

1.モハ2116 (諏訪間~東古市:1992年11月)

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 御存知の通り、永平寺線はあの永平寺への参拝客輸送に開通した経緯があり、京福電鉄としてもこの盲腸線は観光路線として手放すわけにはいかなかったものと思います。しかし、永平寺線の実態は超ローカル線でした。もっとも福井から永平寺に行くのに普通はバスでしょう。電車を利用する人がどのくらいいたのか?

 

2.モハ2116 (諏訪間~東古市:1992年11月)

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 永平寺線の運用は通常1両の電車が1時間おきに東古市~永平寺間をピストン運行していました。多客期には福井から永平寺に直通する列車も走っていましたが、あまり印象がありません。

 

3.京善駅全景 (京善:1992年11月)

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 さて、この日は昼頃から永平寺線に入りました。ここは永平寺線のほぼ中間にあった京善駅です。この路線は短い盲腸線ですが、中間駅は京善の他に諏訪間と市野々がありました。いずれも単線の無人駅ですが、この路線はかなり急勾配です。

 

4.モハ2116 (諏訪間~東古市:1992年11月)

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 最初の撮影は、諏訪間の周辺で行いましたが、車両はモハ2116です。この日の永平寺線はモハ2116しか走りません。

 

5.モハ2116 (京善~諏訪間:1992年11月)

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 諏訪間~京善間は道路から離れた田圃の中を走ります。すでに田圃は稲が刈られて冬支度も終わっていますが、線路の周りは除草もされずススキが鬱蒼と茂っています。

 

6.モハ2116 (京善~諏訪間:1992年11月)

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 この日は、このあと福井鉄道を訪問するため永平寺線はここで撤収です。

初めて越前本線と永平寺線のまともな撮影を行いましたが、やはり2日間では足りません。なにより車両がイマイチでした。本当はモハ251形も走っているはずですが、この2日間は見ることも出来ませんでした。おそらく三国芦原線の方で走っていたのかも知れません。次回はモハ251形を求めて1994年のGWに再訪問します。

第654話 1992年京福(越前):元気だった頃(その5)

京福越前本線の2日目も秋晴れの穏やかな日でした。これまでほとんど足が向かなかった京福電鉄福井支社ですが、2日間の撮影を計画したのは路線が長かったからです。予定では、初日は勝間方面、2日目は三国方面のはずでしたが、初日の勝山方面は疲労と時間切れで回り切れず、結局2日目も勝山方面の撮影となりました。

 

1.モハ3006+モハ3005 (轟:1992年11月)

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 初日は阪神電車しか撮れませんでした。まあこんなものかと諦めていたら、意表を突いて南海電車がやって来ました。この日は休日でラッシュ時でもないのに2連が来るとは思いませんでした。全く撮影態勢でなかったので、あわててレンズを交換して、とりあえず轟(どめき)駅での停車中の様子です。

 

2.モハ2204 (轟~越前中野:1992年11月)

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 「どめき」とは、変わった地名です。何か由緒でもある地名なのか気になります。しかし、ご覧の通り何もない平凡な農村地帯です。

 

3.モハ2201 (轟~越前中野:1992年11月)

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 南海電車の後は、再び阪神電車の連発です。どうせなら、2連がしっかり撮れるこの辺りで南海電車を撮りたいです。

 

4.モハ2201 (轟~越前中野:1992年11月)

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 先程、勝山に向かった南海電車は、そろそろ戻って来るはずです。今度はこの辺りで南海電車を待ちます。

 

5.モハ3005+モハ3006 (越前中野~轟:1992年11月)

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 やはり南海電車は戻ってきましたが、大きな雲が発生し、列車は日陰と競争です。手前の日陰を避けるためこんな中途半端な写真になってしまいました。

 

6.モハ2202 (轟~越前中野:1992年11月)

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 結局南海電車は満足に撮影できませんでしたが、阪神電車はもういいと言うほど撮影が出来ました。この後は永平寺線に移動です。

第653話 1992年京福(越前):元気だった頃(その4)

京福電鉄福井支社は、路線短縮されたとは言え全線を撮影するのは1日では厳しいです。特に沿線を歩いてロケハンしながらの撮影では、4,5日かかります。

この日は勝山~東古市間で撮影を行いましたが、この翌日も撮影が続きます。

 

1.モハ2202 (光明寺~下志比:1992年11月)

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今度は光明寺から東古市(現:永平寺口)に向けて歩きます。

この辺りは「明るい農村」ですが、結構立派な民家が建て込んでいます。当然のごとくどの家庭にも自動車があり、この電車を利用する人はあまりいない様です。

 

2.モハ2116 (東古市~下志比:1992年11月)

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 下志比を過ぎると再び田園地帯が広がります。この写真の左側はもうすぐ東古市です。

東古市からは永平寺線が分岐していました。

 

3.モハ1102 (諏訪間~東古市:1992年11月)

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 この写真は、東古市から分岐してすぐの永平寺線です。普段の永平寺線は線内の折返し列車がピストン運行されており、この日はモハ1102が走っていました。

この日は朝から結構歩いたのでいい加減疲れていました。よって、永平寺線は翌日のお楽しみとして、このあとは福井口の車庫に向かいました。車庫の様子は第541話~第543話をご覧下さい。

 

4.モハ1102 (東古市:1992年11月)

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 ここからは、翌日の撮影となります。

永平寺線の列車は車両運用の都合で毎日入れ替ります。前日から運用されていたモハ1102は任務を終えて福井に戻るところでしたが、この戻りの列車も東古市から福井までは、しっかり営業運転を行いました。

 

5.モハ2116 (東古市:1992年11月)

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 そして、モハ1102に代る本日の永平寺線車両は、前日越前本線で元気に走っていたモハ2116でした。この日は永平寺線の撮影も予定していましたが、モハ2116は前日にさんざん撮っています。またこの車両なのか!!それにしても、代り映えしない面々です。

 

6.モハ2202 (轟~明光寺:1992年11月)

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 2日目は永平寺線撮影の前に、前日に撮り残していた轟(どめき)近辺に出向きました。

この日も天気は申し分ありませんでしたが、初っ端の列車は、これも昨日さんざん撮影したモハ2202でした。何か刺激が欲しいところです。

第652話 1992年京福(越前):元気だった頃(その3)

京福電鉄福井支社はかつては95kmにもおよぶ路線長がありました。しかし、モーターリゼーションにより、昭和40年代までに路線短縮を行い、その後も厳しい業況が続きました。何度も路線廃止や非電化などが模索されていましたが、結局は度重なる事故の末、2001年5月に運行停止を余儀なくされ廃止届が出されました。これで京福電鉄福井鉄道部(旧福井支社)の路線は消滅しましたが、その後鉄道設備は、新生の「えちぜん鉄道」に引き継がれて2003年に完全復活します。(永平寺線は廃止)

 京福電鉄福井鉄道部としては最悪の幕引きとなりましたが、この1992年頃は「一番元気だった頃」ではなかったかと思います。

 

1.モハ2204 (保田~発坂:1992年11月)

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 モハ2201形(注1)の種車となった元阪神モハ3301形は、元々本線の特急運用にも充当された両運の赤胴車でしたが、ここではノンビリしたものです。この車両は2扉化されず、ほぼオリジナルの外観で使用されました。

(注1)モハ2201形の車歴

京福モハ2201~2204←阪神モハ3303,3303,3301,3304:1958年川崎車輌

 

2.モハ2116 (保田~発坂:1992年11月)

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 この日は元ジェットカーの吊掛車であるモハ2116が元気に走っていました。当時、この類の元阪神電車琴電にもいました。いずれもジェットカーモドキの吊掛車でしたが、導入された頃はまだカルダン車をカルダン車として運用できなかった地方鉄道の事情がいろいろあったようです。

 

3.モハ2116 (保田~発坂:1992年11月)

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 このモハ2101形の種車になったのは元阪神モハ5231形とモハ5251形でしたが、いずれも片運車だったので、両運化された車両は連妻側に非貫通の運転台を新設しました。このモハ2116もそのうちの1両ですが、この時点では非貫通面が貫通化されていました。

 

4.モハ2116 (保田~発坂:1992年11月)

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 こちら側が元連妻で再び貫通化された妻面です。ちょっと変な顔をしています。

モハ2101形は誰が見ても元阪神電車ですが、京福電鉄福井支社導入後の認可上の名義はかなり複雑というか非現実的です。 モハ2101形の車歴については、第541話をご覧下さい。

 

5.モハ2114 (轟~光明寺:1992年11月)

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 続いて撮影場所を光明寺に移動しました。この場所は轟~光明寺間ですが、この辺りは民家が少なく、九頭竜川河岸段丘を山際に沿って線路が敷設されています。
 

6.モハ2202 (光明寺~下志比:1992年11月)

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 この場所は光明寺~下志比間です。この辺りも河岸段丘地帯で、民家と農地が混在しています。ロケーション的には春の田植えの時期が良いと思います。