ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第1161話 1995年新潟交通:日車標準タイプの牙城

 

1995年のことです。新潟交通の燕~月潟間が廃止となり2年が経ちました。この間、1994年に一度だけ東関屋の様子を伺いに出向きましたが、その日は時間がなかったので、路線短縮後の在籍車両を確認することが出来ませんでした。その後、新潟へ出張する機会があったので、土曜日に東関屋に向かいました。

 

1.モハ25+モハ21 (東関屋:1995年9月)

ちょうどラッシュ時間帯だったので、東関屋の車庫はガランとしていました。路線短縮後の車両は、クハがかなり減ってしまい、この時点ではクハ46が1両だけになっていましたが、この時は営業に出ていました。

 

2.モワ51 (東関屋:1995年9月)

モワ51は相変わらずの様です。まだ夏姿ですが、そろそろスノープローを付けて冬姿に変身する頃です。

 

3.モハ25+モハ21 (東関屋:1995年9月)

モハ25+モハ21が待機していました。路線短縮したとは言え、残存区間はまだ輸送需要があった様で、ラッシュ時は2連が運行されていましたが、クハが減ってしまったので、モハ同士の2連が定常化していました。

 

4.モハ25+モハ21 (東関屋:1995年9月)

モハは路線短縮時に小田急の旧車体だったモハ16が廃車されましたが、その他は、2両固定のモハ2220形も含めて全て残りました。モハ2220形の姿も見えないので営業に出ている様です。

 

5.モハ12 (東関屋:1995年9月)

月潟行きはモハ12の単行でした。逆方向は閑散としていました。庫内にはモハ24が検査入場しているので、この時2連が3本運用されている様でした。

 

6.モハ12 (東関屋:1995年9月)

日車標準タイプの電車は、もう新潟交通だけになっていました。車体は昭和30年代製ですが、足回りがかなり厳しい状況です。これに代わる1M電車は、大手私鉄から中古改造車を購入するしかありません。しかし、新潟交通は車両の更新は考えていない様子で、それよりも電車をやめる方向に舵を切っていました。

第1160話 1995年能勢:阪急電車をいじる(その2)

今回は前話から5年後の1995年の能勢電です。この5年間で能勢電は大きく変わっていました。すでに吊掛車はいませんでした。そして、謎の「妙見フェスタ」・・・・。

 

1.1000系 (平野:1995年8月)

相変わらず、平野車庫はギュウギュウ詰めでしたが、この電車は一体どういうことなのか?変わり果てた1000系に絶句!!

 

2.1000系 (平野:1995年8月)

あの1000系が悪夢に出て来そうな妖怪の表情です。これは「いじり過ぎ」です。「妙見フェスタ」の一時的なイベント塗装なのか?妙見の山中で、とうとう元阪急の名車は、能勢の謎車になってしまった様です。

 

3.1000系、1550他 (平野:1995年8月)

ゲゲッ、思わず嗚咽が・・・。なんとオレンジのオートカー・・・。私の阪急電車のイメージがみごとに崩れ去りました。

 

4.1753,1555他 (平野:1995年8月)

さらに、こんなのも・・・・。すでに610系はいません。代わりに1700系4連が9編成増備されていました。1700系は元阪急2000系で、見た目は1500系と全く同じです。一気にオートカーが増えてしまい、まさしく阪急能勢線になってしまうところでしたが、能勢電さんはそれを恐れてか、マルーンを排除してしまった様です。

 

5.1704+1784+1734+1754 (山下:1995年8月)

1700系のこの編成は、この年に2分割されて6連に組替えとなり、いよいよ能勢電も6連運転が始まります。もはや能勢電はローカル線ではありません。

 

6.1503+1583+1533+1553 (多田~平野:1995年8月)

やっぱり、この電車はマルーンが一番です。

かつての阪急電車も、ここまでいじられては、プライドも何もあったものではありません。なんだか腹が立ってきたので、この日は撤収しました。

ところが、その後の能勢電は、阪急から何か要請でもあったのか、さもなければ反省されたのか、再びマルーンに戻り、現在に至ります。あの頃のクリームやオレンジの阪急電車は悪夢だったとしか思えません!!。

第1159話 1990年能勢:阪急電車をいじる

いまや梅田へ直通特急も走る能勢電ですが、私が初めて能勢電に乗ったのは、5歳くらいの頃でした。その頃の能勢電は強烈なボロ電車だった様な記憶がありますが、すでに阪急電車姨捨山状態でした。あれから半世紀以上経ち、現在は阪急の一支線の様な存在となり、ローカル線とは言えなくなってしまいましたが、1990年に阪急の吊掛車を求めて、平野へ向かいました。

 

1.328(保存車) (平野:1990年8月)

平野で出迎えてくれたのは、元阪急電車の保存車である320形でした。この電車は阪急から広電に移籍した500系とは兄弟車なので、よく似ており、なんだか馴染みのある車両でした。この車両は阪急の神戸・宝塚線の昇圧で、お払い箱となるはずでしたが、ここぞとばかりに、能勢電がボロ電車淘汰のために一挙12両を引き取りました。阪急では小型車扱いでしたが、能勢電では初の大型車として1965年に導入され、恐らく私が初めて乗った能勢電は、320形だったのかも知れません。

 

2.328(説明板) (平野:1990年8月)

それにしても、唯一の保存車が元阪急電車とは、やはり能勢電は阪急の支線です。しかし、328は1986年に保存されたものの、この2年後にはあっけなく解体されました。ああ残念!!

 

3.667 (平野:1990年8月)

そして、お目当ての610系は車庫で昼寝中でした。それにしても見た感じは、そのまんま阪急610系です。この電車までは、古き良き阪急を彷彿させる能勢電でした。

 

4.665+639+614+654+615 (平野:1990年8月)

ところで、1990年当時の能勢電には、すでに阪急からオートカーの初期車が譲渡されており、吊掛車である非冷房の610系は日中ほとんど走らな状況でした。日中の平野車庫には610系が集結していました。この車庫は非常に狭く、こんな写真しか撮れませんでしたが、この頃の610系は5連で7編成在籍していました。

 

5.106 (平野:1990年8月)

さて、平野車庫にはお宝?が・・・・。これは、保線用に残された電動貨車の106です。ボロボロですが、一応車籍はありました。車籍上は1962年瑞穂工業製と言うことですが、実態は能勢電初のボギー車である大正時代に製造された31形35号を改造したそうです。

 

6.1502+1582+1532+1552 (多田~平野:1990年8月)

帰り道、平野車庫の脇で撮った唯一1枚の元阪急のオートカーです。この1500系は元阪急2100系です。阪急ではレアな車両でしたが、全車24両が能勢電に移籍しました。これまで能勢電は、阪急電車の形式をそのまま踏襲していましたが、この1500系と1700系は違いました。形式も変えて窓回りをクリーム色に塗ったのは、阪急との差別化を図るためだったのか?でもこの電車は、やっぱりマルーン一色が一番似合います。それでも、この時はマルーン一色の阪急電車をいじった能勢電に斬新さを感じました。しかし、その後は何を勘違いされたのか、由緒ある阪急電車を更にいじって大変なことになります。

 

第1158話 1993-94年広島:広電の3100形(その3)

3100形の撮影は、やはり宮島線の阿品あたりが妥当でした。この電車も2000形同様の日車トーションバー台車を履いていました。宮島線では、かん高い吊掛音で力走する様子がとても活き活きとしていました。

 

1.3103編成 (阿品東~地御前:1994年5月)

3103編成は広告電車ではありません。これはこの年に広島で開催されたアジア競技大会のイベント装飾です。一見、下津井のモハ1001を思い出す様な落書き電車かと思ってしまいましたが、ドイツの著名な画家が描いたものだそうです。

 

2.3103編成 (阿品東~地御前:1994年5月)

背景の広島湾はちょうど干潮時で、牡蛎養殖場が現れました。宮島線は海沿いに敷設された路線ですが、広島湾の埋め立てにより、現在は海を入れて撮影できるのはこの場所くらいしかありません。

 

3.3102編成 (阿品東~地御前:1993年12月)

これは、満潮時の様子です。この辺りは宮島線で一番風光明媚な撮影ポイントですが、現在は手前の街路樹が成長しており、同じ様な撮影が難しくなっています。

 

4.3101編成 (阿品東~地御前:1994年2月)

海を入れて3100形のスッキリした走行写真が撮れました。今となっては、2500形のこの様な写真がないことが非常に残念です。

 

5.3101編成 (阿品東~地御前:1994年2月)

数年前に宮島線100周年記念で、3101編成をかつてのピンク色に塗り戻した様ですが、気が付けば、ピンク色の3000形もなくなり、3101編成が唯一のピンク電車になった様です。

 

6.3102編成 (荒手車庫:1994年5月)

LRVが増殖する広電ですが、この3100形には思い入れがある様で、現在も3列車とも健在です。相棒だった2000形が引退してしまった現在、広島の高度経済成長期を支えたこの車両がいつまでも走り続けることを願うばかりです。

第1157話 1993-94年広島:広電の3100形(その2)

今回は、3100形の走行撮影です。この頃はすでに新系列の軽快電車がかなり増えていたので、3連接の先輩である3000形がそろそろ主力から退き始めていましたが、3100形は全車ともバリバリ働いていました。

 

1.3102編成 (高須~東高須:1993年2月)

私は2500形の印象が強かったためか、3100形はどうも馴染めません。この塗装もそうですが、初めて3100形を見た時は、2500形とは全く別の車両に見えました。

 

2.3102編成 (高須~東高須:1994年3月)

しかし、走行音を聞けば懐かしい音がしました。特に宮島線内は全力走行となるので、例のかん高い吊掛音が聞けました。

 

3.3102編成 (原爆ドーム前本川町:1994年3月)

3100形の運用は宮島線直通に充当されていたので、市内線では2系統の路線で撮影できました。2系統は、落ち着いて形式撮影できる場所が少なく、交通量も多いので、沿道から側面を入れた写真がなかなか撮れません。狙い目は交通量の少ない早朝ですが、東西に走る2系統は朝も夕方も列車の正面に陽が差し、これも難ありです。

 

4.3101編成 (原爆ドーム前本川町:1994年3月)

これは、朝の撮影です。タイミング良く赤信号で3100形が停車しました。もう少し側面に陽が当たると良いのですが・・・。

 

5.3103編成 (十日市町:1994年3月)

当時3103編成は、イベントの塗装を施していました。ベースのグリーンライナー塗装はそのままなので、非常にごちゃごちゃした塗装です。

 

6.3102編成 (本川町~原爆ドーム前:1994年3月)

これは夕方の撮影です。この時間帯は交通量が多いので撮影は一瞬の勝負です。余談ですが、背景には懐かしい広島市民球場が写っています。1994年の夏に、広島ではアジア大会が開催され、この球場は野球の会場となりました。また、アストラムラインが開業したのも1994年でした。

 

7.3101編成 (稲荷町~銀山町:1994年5月)

ここは稲荷町の交差点です。計画では、この交差点を右方向に曲がって、広島駅へ直進する短絡ルートが2025年に開通するそうです。その頃には恐らく3100形はいなくなっているかも知れません。

第1156話 1993-94年広島:広電の3100形

以前より、1993年~1994年頃に活躍していた広電の電車を、形式ごとに話題に上げていますが、今回は3100形です。3100形は元々市内線と宮島線の直通用に製造された2連接の2500形でした。輸送需要の急激な増加で単車だった2000形が2連化された後、2500形は1986年に3連接化されて3100形となりました。

 

1.3101編成 (立町:1993年12月)

3100形については、第383話でもお伝えしましたが、5編成あった2連接の2500形1,2次車を組み替えて、3連接の3100形を3編成仕立てたもので、余った1車体の2506は廃車となりました。

  

2.3102編成 (荒手車庫:1994年5月)

3100形は製造にあたり、お金を掛けない様に極力2500形の臓物をそのまま流用し、車体も必要以上の改造を行わないように節約と言うのかケチ仕様で仕立てられました。その結果、連接台車に1台ずつモーターが搭載されて、編成で6台モーターとなりましたが、主制御装置は元の2台としたため、主制御装置の容量的に電制時はモーター4台の使用となりました。常時空制併用だったのでしょうか?

 

3.3101編成 (荒手車庫:1994年5月)

なお、3000形の建前、3100形も冷房化や前妻の行き先表示大型化及び前照灯の位置変更などが実施されました。登場当初は元々のピンク塗装を踏襲しましたが、その後グリーンライナー塗装に変更されました。

 

4.2506+2505 (天満町~小網町:1979年2月)

3100形を語る上で2500形を外すことはできませんので、ご参考までに2500形の画像もご覧下さい。この写真と見比べると3100形の前妻の変更点がよくわかります。

 

5.3102編成 (荒手車庫:1994年5月)

2500形は3連化により、定員が130人(座席64人)となりなりました。ちなみに2500形時代は定員が130人(座席56人)なので、定員が増えていませんが、これは認可時点の法令に準拠した定員計算上の数値なので、実質の輸送力は何とか3000形並となり、新系列の軽快電車が登場するまで、輸送力向上に貢献しましたが、その後も同年代の3000形共々生き延びます。

 

6.3101編成 (荒手車庫:1994年5月)

3100系は2500形と異なり、前面中央窓が開き窓ではなく固定化されました。しかし、3101編成の前面中央窓は、2500形の窓枠を流用していたので、他の3100形に比べてより2500形の面影が濃い車両です。

 

7.2001、3101編成 (荒手車庫:1994年5月)

2000形唯一オリジナルで残っていた2001とのツーショットです。2000形と2500形の妻形状はやや異なり、2500形は妻面が少し傾斜して、前面両脇の窓が2段サッシになっています。3100系は2500形の妻面そのものなので2000形との違いが改めてわかります。

第1155話 1994年京福(越前):田んぼでブラブラ(その4)

この日も日没ギリギリまで越前本線の撮影を行いました。3日間かけて越前本線と永平寺線の撮影を行ないましたが、撮影枚数が多かったので、5回のシリーズにわけてご覧頂きましたが、今回のシリーズでようやく終わりです。

 

1.モハ2011 (光明寺~轟:1994年5月)

撮影の最後は光明寺付近でした。里山風景に元阪神電車がなんともミスマッチでしたが、なんとか日射しが回復し、ローカル線らしい写真が撮れました。

 

2.モハ2204 (光明寺:1994年5月)

撮影の締めは光明寺にて、これから乗車するモハ2204です。これに乗って撤収ですが、この日は米原まわりで東京に戻りました。

 

3.モハ3006+モハ3005 (下志比~東古市:1994年10月)

さて、ここから話題が変わります。この年の10月に京福越前本線を撮影した写真が少々ありましたので、ついでにご紹介します。この日は秋の北陸地方ローカル線早回りの途中でした。毎度、福井は早回りの最後の方でしたが、この時は福井鉄道が主体だったので、京福越前本線は朝ラッシュを覗いただけでした。

 

4.モハ2108+モハ2107 (下志比~東古市:1994年10月)

すでに稲刈りが終わっており、荒涼とした田んぼが5月とは対照的です。しかも気温差で少し靄が出ていましたが、とりあえず2連の撮影はできました。元南海の湘南型も撮れたのでまずまずでした。

 

5.モハ2110+モハ2109 (下志比~東古市:1994年10月)

朝の2連は3列車運転され、その締めは急行です。この日の急行はモハ2101形でした。

 

6.モハ2116 (下志比~東古市:1994年10月)

急行が行ってしまうと、あとは単行ばかりで、もう面白くありません。この頃の京福越前本線は、元阪神電車による旧型車の淘汰が終わり、しばらくは車両の変化もなく、つまらない状況が続きますが、その後もしばらくは、モハ251形の追っ掛けを続けることになりました。

 

7.モハ2112 (下志比~東古市:1994年10月)

この日は、これで撤収して福井鉄道の撮影に向かいました。福井鉄道では、モハ161形の試運転に遭遇するサプライズがあり、すでにお伝え済の第947話~、第1039話~に続きます。