ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第1164話 1995年水島臨海:あの苦言の波及効果

水島臨海鉄道の車両の実態については、第715話~第718話でお伝えしましたように、偉い人からボロいと苦言を呈されるほどでしたが、あの苦言の波及効果が、なんと新車導入となって数年後に現実となりました。

 

1.DD501、DD506 (倉敷貨物ターミナル:1995年8月)

まあ、新車やキハ20形のことはどうでも良いのですが、琴電の撮影ついでに、機関車を見に水島へ出向きました。車庫にはDD501とDD506が並んでいました。この2両は兄弟車ですが、DD501の方が新しい車両です。

 

2.DD506 (倉敷貨物ターミナル:1995年8月)

水島臨海の気動車国鉄の中古車ばかりでしたが、さすがに貨物が本業の臨海鉄道なので、機関車はすべて自社発注のオリジナルです。

 

3.DD506 (倉敷貨物ターミナル:1995年8月)

このDD50形シリーズは、DD503から登場しました。以前はDC501とDC502という3軸のL型機関車がいましたが、その追い番としてDD50形は503が初号機となりました。その後DD50形は増備が続き、DD507となる最終増備車が投入される頃にはDC501がいなくなっていたので、空き番を埋めるため最終増備車はDD501となりました。ちなみに、DC501は別府鉄道のDC302として水島臨海を引退後も活躍し、現在は播磨郷土資料館で別府鉄道で活躍した機関車として保存されています。

 

4.DD501 (倉敷貨物ターミナル:1995年8月)

DD501とDD506は共に日立製の産業タイプの50t機ですが、製造年が近いのでほとんど同じ仕様です。

 

5.DD501 (倉敷貨物ターミナル:1995年8月)

この機関車は、500PSのDMF31SBを1基搭載しています。機関室側面の大きなグリルが特徴です。

 

6.DD506 (倉敷貨物ターミナル:1995年8月)

この頃のDD50形は、稼働状態だったのがDD505、506、501の3両でしたが、いずれも水島臨海線内の運用でした。JR西岡山まで直通していたのはDD701のみでしたが、逆にJR機も倉敷貨物ターミナルまで乗り入れ来ました。水島臨海鉄道には、港東線(水島~東水島)、西ふ頭線(三菱自工前~西埠頭)の貨物専用線がありましたが、西ふ頭線は運行されていない様でした。

第1163話 1995年新潟交通:日車標準タイプの牙城(その3)

新潟交通との付き合いは1980年代からです。1987~88年頃は長期出張で新潟に住んでいたので、その頃は最も精力的に新潟交通の撮影をしていましたが、越後らしい風景に拘っていたので撮影は燕側に集中しており、新潟側はほとんど写真がありません。

 

1.モハ12 (東関屋~東青山:1995年9月)

この頃のモハ12は広告電車ではありませんでした。オリジナル塗装なので撮影に気合が入ります。ところで、この場所からの撮影は、この日が初めてでした。厳密に言えば、対岸から夕方に撮影をしたことはありましたが、この場所は初めてです。

 

2.モハ12 (東関屋~東青山:1995年9月)

この場所は見通しが良く、側面も狙えたので、3連を撮らなかったのは不覚でしたが、この場所以上に燕側は魅力的だったわけです。やはりこの電車は、マンションをバックにするよりも、広大な田園地帯の中で撮るのが相応しいです。

 

3.モハ18+モハ11 (東関屋~東青山:1995年9月)

2連のジャスコ電車がやって来ましたが、これは車庫にいた2連ではなく、モハ18+モハ11でした。後部のモハ11はパンタを下げてトレーラー扱いです。

 

4.モハ18+モハ11 (東関屋~東青山:1995年9月)

この写真は連写ではなく、折り返しの列車です。この列車も2連なので、ラッシュはまだ続く様です。以前の新潟交通は、モハ同士の2連は滅多に走りませんでしたが、この頃は当たり前になっていました。

 

5.モハ25+モハ21 (東関屋:1995年9月)

本線運用の列車を一通り撮ったので、再び車庫に戻りました。まだラッシュが終わっていないので、車庫に戻ってきた車両はいません。しかしながら、旧態然としたクハやモハ16が淘汰されて、つまらない路線になってしまいましたが、気が付けば日車標準タイプがいるの唯一の路線になっていました。

 

6.モワ51 (東関屋~東青山:1995年9月)

この後は、電車に乗って白根方面に向かいます。どこで撮影しようか悩みましたが、とりあえず木場へ・・・・。この後の様子は別途お伝えします。

第1162話 1995年新潟交通:日車標準タイプの牙城(その2)

東関屋の車庫を訪問した後に、信濃川の関屋分水でラッシュ時の列車を撮影しました。路線短縮後は、列車を撮影する場所がかなり限定されました。2連をしっかり撮影するとなれば、この関屋分水の橋梁がベストです。

 

1.モハ14+クハ46 (東関屋~東青山:1995年9月)

しかし、ロケーションは決して宜しくありません。大きなマンションをバックにこんな写真しか撮れません。

 

2.モハ14+クハ46 (東関屋~東青山:1995年9月)

少し引いて、撮るとこんな感じです。よく見ると貴重なクハ46を連結した2連です。クハはいつも月潟寄りに連結されるので、朝は逆行で顔が撮れません。そして、順光となる夕方はほとんど走る機会がなく、なかなか顔が拝めません。

 

3.モハ14+クハ46 (東関屋~東青山:1995年9月)

東関屋を折り返して、MT編成が白根に向かいました。逆方向はガラガラですが、まだラッシュは続く様でした。

 

4.モハ12 (東関屋~東青山:1995年9月)

車体広告がないモハ12が来ました。モハはどの電車も車体広告が入っているので、撮影意欲を減退させますが、この電車は気合が入ります。

 

5.モハ12 (東関屋~東青山:1995年9月)

先程のクハ46をこの電車に連結して欲しかったですが、毎度のごとく思うようになりません。

 

6.モハ2230+モハ2229 (東関屋~東青山:1995年9月)

小田急が来ました。かなり混んでいる様です。これだけ混んでいると、東関屋から乗り換えるバスも相当混み合いそうです。せっかくの鉄道ですが、このまま市街地まで乗って行けないことが非常に残念です。

 

7.モハ2230+モハ2229 (東関屋~東青山:1995年9月)

朝の3連がなくなった以降、この電車は新潟交通の最大輸送力となりました。唯一のカルダン車であり、小田急塗装です。元は小田急2200系ですが、写真のモハ2230は前面の貫通扉を埋めてしまったので、オリジナルではありません。かつて、この小田急電車は東関屋~白山前の路面区間を走っていましたが、もう過去の話しです。その様子は第461話をご覧下さい。

第1161話 1995年新潟交通:日車標準タイプの牙城

 

1995年のことです。新潟交通の燕~月潟間が廃止となり2年が経ちました。この間、1994年に一度だけ東関屋の様子を伺いに出向きましたが、その日は時間がなかったので、路線短縮後の在籍車両を確認することが出来ませんでした。その後、新潟へ出張する機会があったので、土曜日に東関屋に向かいました。

 

1.モハ25+モハ21 (東関屋:1995年9月)

ちょうどラッシュ時間帯だったので、東関屋の車庫はガランとしていました。路線短縮後の車両は、クハがかなり減ってしまい、この時点ではクハ46が1両だけになっていましたが、この時は営業に出ていました。

 

2.モワ51 (東関屋:1995年9月)

モワ51は相変わらずの様です。まだ夏姿ですが、そろそろスノープローを付けて冬姿に変身する頃です。

 

3.モハ25+モハ21 (東関屋:1995年9月)

モハ25+モハ21が待機していました。路線短縮したとは言え、残存区間はまだ輸送需要があった様で、ラッシュ時は2連が運行されていましたが、クハが減ってしまったので、モハ同士の2連が定常化していました。

 

4.モハ25+モハ21 (東関屋:1995年9月)

モハは路線短縮時に小田急の旧車体だったモハ16が廃車されましたが、その他は、2両固定のモハ2220形も含めて全て残りました。モハ2220形の姿も見えないので営業に出ている様です。

 

5.モハ12 (東関屋:1995年9月)

月潟行きはモハ12の単行でした。逆方向は閑散としていました。庫内にはモハ24が検査入場しているので、この時2連が3本運用されている様でした。

 

6.モハ12 (東関屋:1995年9月)

日車標準タイプの電車は、もう新潟交通だけになっていました。車体は昭和30年代製ですが、足回りがかなり厳しい状況です。これに代わる1M電車は、大手私鉄から中古改造車を購入するしかありません。しかし、新潟交通は車両の更新は考えていない様子で、それよりも電車をやめる方向に舵を切っていました。

第1160話 1995年能勢:阪急電車をいじる(その2)

今回は前話から5年後の1995年の能勢電です。この5年間で能勢電は大きく変わっていました。すでに吊掛車はいませんでした。そして、謎の「妙見フェスタ」・・・・。

 

1.1000系 (平野:1995年8月)

相変わらず、平野車庫はギュウギュウ詰めでしたが、この電車は一体どういうことなのか?変わり果てた1000系に絶句!!

 

2.1000系 (平野:1995年8月)

あの1000系が悪夢に出て来そうな妖怪の表情です。これは「いじり過ぎ」です。「妙見フェスタ」の一時的なイベント塗装なのか?妙見の山中で、とうとう元阪急の名車は、能勢の謎車になってしまった様です。

 

3.1000系、1550他 (平野:1995年8月)

ゲゲッ、思わず嗚咽が・・・。なんとオレンジのオートカー・・・。私の阪急電車のイメージがみごとに崩れ去りました。

 

4.1753,1555他 (平野:1995年8月)

さらに、こんなのも・・・・。すでに610系はいません。代わりに1700系4連が9編成増備されていました。1700系は元阪急2000系で、見た目は1500系と全く同じです。一気にオートカーが増えてしまい、まさしく阪急能勢線になってしまうところでしたが、能勢電さんはそれを恐れてか、マルーンを排除してしまった様です。

 

5.1704+1784+1734+1754 (山下:1995年8月)

1700系のこの編成は、この年に2分割されて6連に組替えとなり、いよいよ能勢電も6連運転が始まります。もはや能勢電はローカル線ではありません。

 

6.1503+1583+1533+1553 (多田~平野:1995年8月)

やっぱり、この電車はマルーンが一番です。

かつての阪急電車も、ここまでいじられては、プライドも何もあったものではありません。なんだか腹が立ってきたので、この日は撤収しました。

ところが、その後の能勢電は、阪急から何か要請でもあったのか、さもなければ反省されたのか、再びマルーンに戻り、現在に至ります。あの頃のクリームやオレンジの阪急電車は悪夢だったとしか思えません!!。

第1159話 1990年能勢:阪急電車をいじる

いまや梅田へ直通特急も走る能勢電ですが、私が初めて能勢電に乗ったのは、5歳くらいの頃でした。その頃の能勢電は強烈なボロ電車だった様な記憶がありますが、すでに阪急電車姨捨山状態でした。あれから半世紀以上経ち、現在は阪急の一支線の様な存在となり、ローカル線とは言えなくなってしまいましたが、1990年に阪急の吊掛車を求めて、平野へ向かいました。

 

1.328(保存車) (平野:1990年8月)

平野で出迎えてくれたのは、元阪急電車の保存車である320形でした。この電車は阪急から広電に移籍した500系とは兄弟車なので、よく似ており、なんだか馴染みのある車両でした。この車両は阪急の神戸・宝塚線の昇圧で、お払い箱となるはずでしたが、ここぞとばかりに、能勢電がボロ電車淘汰のために一挙12両を引き取りました。阪急では小型車扱いでしたが、能勢電では初の大型車として1965年に導入され、恐らく私が初めて乗った能勢電は、320形だったのかも知れません。

 

2.328(説明板) (平野:1990年8月)

それにしても、唯一の保存車が元阪急電車とは、やはり能勢電は阪急の支線です。しかし、328は1986年に保存されたものの、この2年後にはあっけなく解体されました。ああ残念!!

 

3.667 (平野:1990年8月)

そして、お目当ての610系は車庫で昼寝中でした。それにしても見た感じは、そのまんま阪急610系です。この電車までは、古き良き阪急を彷彿させる能勢電でした。

 

4.665+639+614+654+615 (平野:1990年8月)

ところで、1990年当時の能勢電には、すでに阪急からオートカーの初期車が譲渡されており、吊掛車である非冷房の610系は日中ほとんど走らな状況でした。日中の平野車庫には610系が集結していました。この車庫は非常に狭く、こんな写真しか撮れませんでしたが、この頃の610系は5連で7編成在籍していました。

 

5.106 (平野:1990年8月)

さて、平野車庫にはお宝?が・・・・。これは、保線用に残された電動貨車の106です。ボロボロですが、一応車籍はありました。車籍上は1962年瑞穂工業製と言うことですが、実態は能勢電初のボギー車である大正時代に製造された31形35号を改造したそうです。

 

6.1502+1582+1532+1552 (多田~平野:1990年8月)

帰り道、平野車庫の脇で撮った唯一1枚の元阪急のオートカーです。この1500系は元阪急2100系です。阪急ではレアな車両でしたが、全車24両が能勢電に移籍しました。これまで能勢電は、阪急電車の形式をそのまま踏襲していましたが、この1500系と1700系は違いました。形式も変えて窓回りをクリーム色に塗ったのは、阪急との差別化を図るためだったのか?でもこの電車は、やっぱりマルーン一色が一番似合います。それでも、この時はマルーン一色の阪急電車をいじった能勢電に斬新さを感じました。しかし、その後は何を勘違いされたのか、由緒ある阪急電車を更にいじって大変なことになります。

 

第1158話 1993-94年広島:広電の3100形(その3)

3100形の撮影は、やはり宮島線の阿品あたりが妥当でした。この電車も2000形同様の日車トーションバー台車を履いていました。宮島線では、かん高い吊掛音で力走する様子がとても活き活きとしていました。

 

1.3103編成 (阿品東~地御前:1994年5月)

3103編成は広告電車ではありません。これはこの年に広島で開催されたアジア競技大会のイベント装飾です。一見、下津井のモハ1001を思い出す様な落書き電車かと思ってしまいましたが、ドイツの著名な画家が描いたものだそうです。

 

2.3103編成 (阿品東~地御前:1994年5月)

背景の広島湾はちょうど干潮時で、牡蛎養殖場が現れました。宮島線は海沿いに敷設された路線ですが、広島湾の埋め立てにより、現在は海を入れて撮影できるのはこの場所くらいしかありません。

 

3.3102編成 (阿品東~地御前:1993年12月)

これは、満潮時の様子です。この辺りは宮島線で一番風光明媚な撮影ポイントですが、現在は手前の街路樹が成長しており、同じ様な撮影が難しくなっています。

 

4.3101編成 (阿品東~地御前:1994年2月)

海を入れて3100形のスッキリした走行写真が撮れました。今となっては、2500形のこの様な写真がないことが非常に残念です。

 

5.3101編成 (阿品東~地御前:1994年2月)

数年前に宮島線100周年記念で、3101編成をかつてのピンク色に塗り戻した様ですが、気が付けば、ピンク色の3000形もなくなり、3101編成が唯一のピンク電車になった様です。

 

6.3102編成 (荒手車庫:1994年5月)

LRVが増殖する広電ですが、この3100形には思い入れがある様で、現在も3列車とも健在です。相棒だった2000形が引退してしまった現在、広島の高度経済成長期を支えたこの車両がいつまでも走り続けることを願うばかりです。