ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第859話 1994年宇品四者協定線:もうひとつの宇品線回想(その3)

今回は段原地区を抜けて、広島大学医学部付近と国道2号線を越えた皆実町付近の様子です。段原一帯は再開発で現在は街並みも変わってしまいましたが、広島大学医学部の辺りは、大学の施設こそ変わりましたが、線路跡は道路となり現在も見極めはつきます。

 

地図4.引用:国土地理院地形図1/25000「広島」昭和56年発行

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 今回の探索エリアは、かつて大河(おおこ)と呼ばれた一帯です。沿線には古くは陸軍関係の施設や、戦後は一時期官庁が置かれ、その後は広島大学医学部など学校が多い地域です。

 

写真⑬

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 写真⑬は、旧南段原駅付近から宇品方向を撮影したものです。この付近までが、その後に再開発された一帯です。

 

写真⑭

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 写真⑭は写真⑬の撮影位置から宇品方向に200m程進んだ位置で広島方向を撮影したものです。この辺りから線路跡は道路に活用されて現在も存在しています。

 

写真⑮

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 写真⑮は写真⑭の撮影位置から宇品方向に200m程進んだ位置で宇品方向を撮影したものです。左側が広島大学医学部病院で、ここはその入口でかつて踏切だった場所です。そして、ここは上大河駅跡です。私の記憶では、小学校の4年生の頃(1973年)、ここにはまだホームの後が残っていたような気がします。宇品四者協定線になる以前、この路線は貨物側線でしたが、非公式に上大河まで通勤・通学列車が運行されていました。旅客営業は1972年に廃止されていましたが、この付近は学校があるため特別な処置だったようです。その頃の列車は気動車ではなく、DE10が牽引する客車列車だったそうですが、上大河駅は単線の中間駅だったので、全ての列車が客車の前後に機関車を付けたプッシュ・プル?編成だったそうです。

 

写真⑯

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 写真⑮の撮影位置から、更に200m程宇品方面に進むと、かつて宇品四者協定線が国道2号線と平面交差していた場所に出ます。写真⑯はその交差部を国道2号線を挟んで、宇品側から広島方向を撮影したものです。写真の前方に写る白いワンボックスの右側が線路跡です。ここにはかつては踏切が存在しましたが、すでに痕跡すらありません。

 

 写真⑰

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 写真⑰は写真⑯の撮影位置で振り向いて宇品方面を撮影したものです。この写真では、ここから宇品方面はすでに線路跡が道路化されていることがわかります。この状況だと、国道2号線との元踏切部は、まもなくこの道路の交差点が出来る雰囲気でした。

 

写真⑱

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 写真⑱は写真⑰の撮影位置から200m程宇品方向に進んだ位置で、広島方向を撮影したものです。ここで不可解なのが、この3車線の道路です。道路のど真ん中に縁石とガードレールが存在し、明らかに左側の2車線の方が新しい道路ですが、線路跡が、右側の道路なのか、それとも新しい道路に含まれたのか、はっきりしません。

 

写真⑲

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 写真⑲は写真⑱の撮影位置付近から宇品方向を撮影したものです。この3車線の道路は、この先で左の1車線が2車線に合流します。昭和59年頃の地図を見ると、その頃は左の1車線は存在しなく、右の2車線部分は細い1車線?の道がこの辺(右:県立広島工業高校)までしか記載がなく、この先は200m程道路がなかったことになります。よって、線路跡はこの2車線の中央側に含まれている様です。そして、この先200m程の地点が下大河駅跡ですが、このまま道路化されて跡形もありません。