ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第858話 1994年宇品四者協定線:もうひとつの宇品線回想(その2)

宇品四者協定線は、大洲口駅跡を過ぎると、猿猴川を渡り段原地区に入ります。この猿猴川は広島デルタの一番東側を流れる太田川の支流です。

今回は、猿猴川橋梁跡から南段原までの線路跡の様子です。段原地区は、戦前の街並みを残す一帯でした。広島は原爆の投下によって市街地の大部分が焼失しましたが、この段原地区は比治山の陰になり焼失を免れたそうです。

 

地図3.引用:国土地理院地形図1/25000「広島」昭和56年発行

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 しかし、この一帯は1990年代の再開発により、広島市街地では最も激変した地域です。私は最近の様子を知りませんが、地図を見比べただけでも道路や区画が変わっており、恐らく今回投稿した写真を照合することもできないほど、現在は変わってしまったと思われます。

 

写真⑥

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 写真⑥は猿猴川の宇品側から広島方向の猿猴川橋梁跡を撮影したものです。既に橋脚は撤去されていますが、手前と対岸の橋台が残っていました。対岸の橋台のすぐ先が大洲口駅跡です。そして、写真の左側の華奢な橋は、かつての鉄道橋の橋脚を利用した人道橋(平和橋)です。この場所も現在は立派な道路橋が出来て、廃線の遺構は跡形もありません。

 

写真⑦

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 写真⑦は、写真⑥の撮影位置から振り向いて宇品方向の線路跡を撮影したものです。この辺りは、ちょうど再開発が始まっており、このあとどうなったか不明です。恐らく写真の左側の住宅地も含めて一掃されてしまった様です。

 

写真⑧

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 写真⑧は写真⑦の撮影位置から宇品方向に300m程進んだところで広島方向を撮影したものです。この辺りの線路跡はレールは撤去されていましたが、その後は手つかずで子供の遊び場になっていました。

 

写真⑨

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 写真⑨は、写真⑧の撮影位置から宇品方向の線路跡を撮影したものです。この先の線路跡は南段原までこんな感じでしたが、現在のこの辺りは再開発によって、区画まで見直されてしまい、全く別の場所になってしまいました。現在の地図をみると、線路跡は宅地化された様です。

 

写真⑩

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 そして更に進み、写真⑩は写真⑨の撮影位置から宇品方向に200m程進んだ南段原付近の宇品方向の線路跡です。

 

写真⑪

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 写真⑪は写真⑩の撮影位置から宇品方向に100m程進んだところで広島方向を撮影したものですが、この辺が南段原駅があった場所の様です。正確な駅の位置がはっきりしませんが沿道脇の公園には、南段原駅跡を示すモニュメントの車輪が置かれていました。その車輪はギヤ付きのスポーク車輪で、電気機関車の車輪の様ですが、非電化だったこの路線とは無縁の様です。

 

写真⑫

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 写真⑫はその公園に設置された南段原駅の駅標です。これは遺構ではありません。この公園は南段原第5公園として現存します。

今回のブログは1994年の様子です。もう28年も前の画像であり、特にこの段原地区はその後の再開発で激変しており、今回投稿した画像とは全く違った街になっています。今回の報告は廃線の記録と言うより、見方によっては再開発前の街並みの記録になってしまった感じです。