ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第861話 1994年宇品四者協定線:もうひとつの宇品線回想(その5)

ここから先は、東洋工業マツダ)の工場に囲まれた一帯を進みます。徐々に臨海工業地帯の雰囲気になってきました。

 

地図6.引用:国土地理院地形図1/25000「広島」昭和56年発行

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 地図を見ると、宇品四者協定線の両側はマツダの工場ですが、元々右側の一帯は海でした。海を埋め立ててマツダの工場ができました。マツダの工場は非常に大きく、地図の右側には延々と巨大な工場施設が続きます。しかし、宇品四者協定線はマツダの工場には入らず、宇品へ直行していました。

 

写真㉘

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 写真㉘は、マツダの専用陸橋下から宇品方向に線路跡を撮影したものです。空き地を利用して、土砂やら資材やらの置き場になっていました。

 

写真㉙

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 写真㉙は少し進んで、こんどは広島方向を写したものです。ここは宇品線時代に下丹那という駅があった場所の様ですが、この駅は戦中の1943年に休止されました。この辺りまで花が咲いていましたが、線路跡は空き地の様になってきました。写真の右側の樹木は、並行する道路(海岸通り)の街路樹です。

 

写真㉚

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 広島大学医学部病院辺りからほぼ直線だった線路跡は、写真㉚のボート免許センターなる建物の前で右にカーブします。写真㉚はカーブの始まる地点から宇品方向を撮影したものです。写真の右前方に写る大きな建物は、宇品港にあった農協の飼料工場です。もうすぐ終点の宇品ですが、この先は線路跡が草むらに埋もれており、更にその先は溜池で進めません。

 

写真㉛

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 写真㉛は、草むらを迂回して更に100m程進んだ場所ですが、溜池があり、石積の橋脚が現れました。かつてここには、この溜池を渡る宇品四者協定線の橋梁がありました。いつの時代のものか分かりませんが、かなり年季が入っています。ようやくまともな遺構を発見できました。

 

写真㉜

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 写真㉜は溜池の宇品側から広島方向の橋脚を撮影したものですが、前方の建物は、写真㉚に写っているボート免許センターの建物の反対側です。ところで、この溜池は、明治時代に宇品港の埋め立て時に埋め残された海に通じる水路の名残りですが、徐々に埋め立てられて、この時はほんの一画だけが、溜池の様に残されていました。しかし、現在は完全に埋め立てられて存在しません。

 

写真㉝

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 写真㉜の宇品側は整地されて駐車場になっていました。写真㉝はその駐車場を宇品側から撮影したもので、前方に聳える山は黄金山です。この駐車場の辺りから旧宇品駅の構内となります。かつては、この辺から海側に側線が分岐していましたが、すでに跡形もありませんでした。