ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第1125話 1995-96年京阪(京津):80形がいた頃

その昔、母の実家が山科にありました。そして、その頃の京津線には、まだ辛うじて「びわこ号」だった60形がいたはずですが、当時幼少だった私には、真新しいスマートな80形がとても印象的で、なぜか60形の記憶がありません。その頃の80形は、まだポール電車だったと思います。非冷房で屋根上がスッキリしており、前面の中央窓も大く、80形が一番スマートだった頃でした。

 

1.91+92 (山科~四宮:1995年9月)

その後京津線は輸送力増強で80形も2連化されパンタ化、冷房化などなど、スタイルも少し変わってしまいましたが、四宮の主として君臨していました。ところが、その80形が軌道線と共に消えてしまうことになり、幼少の頃を思い出して久々に山科へ出向きました。

 

2.87+88 (四宮:1995年9月)

まずは、四宮界隈です。ここは、四宮の東寄りにある引き上げ線です。ちょうど87+88が入線していました。電車の後方にそびえるのは逢坂山です。京津線はこの山を越えて浜大津へ抜けますが、80形の運用は京津三条~四宮間の各停専用でした。写真を見ると引き上げ線を挟む本線は逢坂山に向かって登り勾配であることがわかります。この先はかなり線形の厳しい路線です。

 

3.91+92 (山科~四宮:1995年9月)

ここは、少し山科寄りの平坦区間です。ご存知の通り、この京津線は1997年10月に京津三条~御陵(みささぎ)間を新規開業の京都市東西線に譲り廃止されました。現在は全列車が東西線に直通しています。そして車両も地下鉄直通用の800系となり、80形は廃止区間と共に消え去りました。

 

4.83+84 (山科~四宮:1996年12月)

しかし、この写真の区間は健在です。現在も四宮には車庫がありますが、この区間には地下鉄直通用の800形しか走っていません。

 

5.90+89 (山科~御陵:1996年12月)

ここは廃止となった御陵です。京津線は併用軌道と専用軌道が混在する路線でした。御陵の三条側は次駅の日ノ岡の少し先まで一駅間併用軌道でした。そして、その先は九条山を越えて蹴上(けあげ)の手前まで専用軌道となり、蹴上から京津三条までは併用軌道となります。その併用軌道区間にあった電停はホームが低く、鉄道線車両を使用した準急は通過扱いとなるため、ステップ付きの80形が各停として準急が通過する電停をフォローしていました。

 

6.122 (四宮:1996年12月)

四宮の側線には、不思議な格好をした電動貨車がいました。この車両は保線用の車両ですが、貨100形貨122(注1)という車籍を有する車両でした。なんともグロテスクな車両です。

(注1)貨122の車歴

・京阪 貨122←京阪 貨3022←京阪 貨2002(or2004):1934年自社守口工場製(1955年改造)

 

7.122 (四宮:1996年12月)

貨122は、有蓋電動貨車2002(or2004)の臓物と無蓋電動貨車3012の台枠流用で1955年に改造されてこのスタイルとなりました。(諸説によると、元々臓物を供出した車両は2002or2004とのことです。)改造当初は2002を継承していましたが、その後の改番で2002→3022→122となりました。122は京津線がDC600Vだったので生き延びていましたが、京都市東西線直通時の昇圧により廃車となりました。