ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第1139話 1995年筑豊界隈:残っていたセメント輸送

かつて九州の筑豊一帯には多くの炭鉱が存在し、その大半が石炭を鉄道で輸送していたため、筑豊には網の目の様に鉄道路線が敷設されていました。しかし、石炭産業の斜陽化により、昭和の晩年には炭鉱が次々と閉山され、残ったのが空気を運ぶ国鉄赤字ローカル線でした。

 

1.かつての筑豊周辺の路線図(JTB時刻表1976年8月号から引用)

上図は、まだ筑豊が賑やかだった頃のJTB時刻表の路線図です。この路線図に記載された国鉄路線は、炭鉱の閉山後も旅客営業を行っていました。この路線図だけでは、列車の運行経路が全く理解できない程錯綜しています。しかし、いずれの路線も赤字路線であり廃止対象でした。そして、当時の北海道も同様でしたが、これらの赤字路線の転機が国鉄の分割民営化でした。

 

2.その後の筑豊周辺の路線図(JTB時刻表2014年1月号から引用)

この路線図はその後の路線図ですが、国鉄がJRとなり、盲腸線が廃止され、第三セクター化された路線もあり、かなり整理されました。私が筑豊に炭鉱の面影を求めた1995年時点では、すでに炭鉱は一つもなく、残された路線をただ乗り回すだけでしたが、筑豊には石炭が消えた後にも石灰石という資源が残っており、石炭輸送はセメント輸送に代わって存在していました。

 

3.No4 (田川事業所:1995年8月)

前置きが長くなりましたが、1995年当時、筑豊に出向いたついでに、残っていたセメント輸送の専用線巡りを行いました。その一つが平成ちくほう鉄道(旧国鉄伊田線金田駅から分岐していた三井鉱山田川事業所の通称金見専用鉄道でした。この路線は1964年開通の石灰石鉱山にあるセメント工場と金田駅までの5.2kmを結ぶ専用線で、当初からセメント輸送専業でした。

 

4.田川事業所ヤードとNo6牽引のセメント列車 (田川事業所:1995年8月)

車庫は終点の田川事業所にあるとの情報でしたが、行き方や交通手段がわからず、地図を片手に最寄りと思われるJR後藤寺線船尾駅から歩きました。船尾にもかつてはセメント専用線が存在しましたが、すでに廃止されていました。この辺りは四方八方が石灰石の鉱山で、いたるところで大規模に採掘されていました。

 

5.金見専用鉄道周辺図(引用:国土地理院1/25000地形図「田川」1971年発行)

船尾から田川事業所まで直線で1.5km程ですが、上図のごとく、当時は直行できる道がありませんでした。何を勘違いしたのか道を間違えてしまいました。かなり迂回して、炎天下のなか1時間以上彷徨して辿り着いた時には、ぶっ倒れそうなほど脱水状態となり、車庫の水道をがぶ飲みさせて頂きました。

 

6.No4 (田川事業所:1995年8月)

しばらく日陰で休憩し、なんとか復活したので撮影です。最初に目に入ったのは、No4でした。日立製のいかにも産業用機関車です。少し前までは主力機としてセメント輸送に携わっていましたが、この頃は構内の入換に専念していました。

 

7.No6 (田川事業所:1995年8月)

No6は一番新しい機関車でしたが、元をただせば国鉄で余剰となったDE10です。この元DE10はNo5とNo6の2両が存在し、本線のセメント輸送用に充当されていました。

 

8.No6 (田川事業所:1995年8月)

No6は特に改造もなく使用されていましたが、車端のプレートにはDE10と標記されており、強力機であることをアピールしている様でした。確かにこの機関車は、この専用線では最大出力の65t機でした。以前は50t機によるプッシュ・プル運転でしたが、この機関車の導入後は単機運転になっていました。