ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第231話 1986年松本:アルピコじゃなかった頃(その3)

この時、松本で一泊しましたが、翌日も天気が良くありませんでした。

 

1.モハ10形2連 (新村:1986年8月)

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 天気が悪いので、気合が入りませんでした。とりあえず新村車庫で車両の撮影をしましたが、あまりにも気合が入らず、撮影した車両の番号も記録せずの大失態です。

どの車両も皆同じなので、車号が判らなければ写真を撮った意味がありません。

 

2.モハ10形2連 (新村:1986年8月)

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 モハ10形、クハ10形(注1)は車番の付け方が面白く、モハが奇数でクハが偶数です。モハは6両、クハは1両で皆同じ車体ですが、その生い立ちを遡ると様々です。

モハ101,103,105,109は自社発注車の改造名義ですが、これ以外は転入車両の改造名義で、モハ107は、1950年に西武鉄道から譲受した元武蔵野鉄道サハ105を前身とする車両。モハ1011は、1954年に京王帝都から譲受した元玉南電鉄1形モハ6を前身とする車両。クハ102は、1952年に国鉄から譲受した元池田鉄道デハ1を前身とする買収国電でした。

 

3.クハ102+モハ10形 (新村:1986年8月)

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クハ102だけは、唯一のクハであり、パンタが付いていないのですぐにわかります。しかし、後ろのモハは?。

 (注1)モハ10形、クハ10形の車歴

・松本モハ101←松本ホデハ1←筑摩ホデハ1:1923年日本車輌製(鋼体化1962年)

・松本モハ103←松本ホデハ3←筑摩ホデハ3:1923年日本車輌製(鋼体化1959年)

・松本モハ105←松本ホデハ5←筑摩ホデハ5:1923年日本車輌製(鋼体化1958年)

・松本モハ107←松本ホデハ13←西武モハ105←近江モハ105←武蔵野デハ105←武蔵野サハ105:1923年梅鉢鉄工所製(鋼体化1960年)

・松本モハ109←松本ホデハ9←筑摩ホデハ9:1927年汽車会社東京製(鋼体化1961年)

・松本モハ1011←松本ホデハ18←京王デハ2006←京王デハ6←玉南モハ6:1925年日本車輌製(鋼体化1963年)

・松本クハ102←松本クハ16←国鉄クハ29013←国鉄モハ20003←信濃デハ3←池田デハ1:1926年日本車輌製(鋼体化1964年)

 

4.ED301 (新村:1986年8月)

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 松本電鉄には、電気機関車もいました。かつては貨物輸送用に在籍していましたが、貨物輸送がなくなりその後は休車扱いとなっていましたが、状態は良く、いつでも走れる感じでした。

この電気機関車は、ED301(注2)と言い、1960年に西武から譲受した凸型30t機で輸入機です。

(注2)ED301の車歴

・松本ED301←西武A-1←国鉄ED223←信濃デキ3:1926年ウエスチングハウス-ボールドウィン製

 

5.ハニフ1 (新村:1986年8月)

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 そして、新村車庫には鉄道記念物級の"お宝”がいました。

この車両は松本電鉄が1948年頃まで使用していたハニフ1(注3)という客車ですが、元は国鉄中央本線の前身である甲武鉄道の電車で、国電のルーツと言われる車両です。

かなり有名な車両で、その存在も広く知られていましたがこんな倉庫に保管されていました。その後この車両は存在価値が認められて、周知のとおり復元改修の後、現在も鉄道博物館で大切に保存されています。

(注3)ハニフ1の車歴

・筑摩ハニフ1←信濃ロハフ1←客車化←国鉄デ963形968←甲武:1904年

結局、10形の撮影を目的とした松本電鉄への訪問はこれが最後でした。松本電鉄はこの11月にDC1500Vに昇圧を行い、東急5000形を両運化して導入します。この頃、あちこちのローカル私鉄で東急5000形が登場しましたが、どうも撮影する気が起らず、気が付けば東急5000形もいなくなり、代わって京王3000形の時代となりました。そして、いつの間にか松本電鉄はアルピコになってしまいましたが、それでも上高地線は現在も存続しています。

第230話 1986年松本:アルピコじゃなかった頃(その2)

松本電鉄の路線は波田を過ぎると急に過疎地帯に入ります。

民家も少なく輸送需要も極端に減り、上高地の有無には関係なくこの区間は廃止となってもおかしくない感じでした。

 

1.モハ10形2連 (渕東~波田:1986年8月)

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 上高地線は、松本から波田あたりまでは松本盆地の比較的平坦部ですが、波田を過ぎると松林の峠があり、電車は勾配を登り山間部に入ります。

 

2.モハ10形2連 (渕東~波田:1986年8月)

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 波田から先、峠を登ると列車は山間の農村地帯に入り民家もまばらとなります。この辺りから景色も良くなり撮影には最適となりますが、雨ではどうしようもありません。

 

3.モハ10形2連 (波田~渕東:1986年8月)

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 この路線は1986年時点、新島々が終点でしたが、1984年までは新島々のもう一つ先の島々が終点でした。新島々~島々間は1983年に台風の影響で土砂災害に遭い、復旧することなく廃止となりました。

 

4.モハ10形2連 (波田~渕東:1986年8月)

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 この日は雨のため、視界もよくありませんでしたが、渕東付近は山間で障害物もない撮影に最適の場所です。10形電車が走っているうちに、天気の良い日にもう一度撮影に訪れたかったのですが、それは叶いませんでした。

 

5.モハ10形2連 (新村~三溝:1986年8月)

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 この写真は新村付近の田園地帯です。松本は盆地なので天気がよければ背景に山々がそびえますが、この日はガスで山は見えません。

第229話 1986年松本:アルピコじゃなかった頃

1986年8月は甲信地方のローカル私鉄早回りを行いました。

先に第188~190話で富士急行の話題を報告しましたが、今回はその続きとなります。富士急行まではなんとか天気はもちましたが、松本に来ていよいよ雨となりました。

 

1.モハ10形 (新村:1986年8月)

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 当時の松本電鉄はまだ、アルピコでもハイランド・・・でもなく、地味なローカル私鉄でした。私はこの時初めて松本電鉄を訪問しましたが、なかなか出向けなかった理由は、車両が日車の地方私鉄標準車体に統一されていたので、正直つまらないと思っていたからです。しかし、その標準型電車も近々東急の5000形に置き替わるとの情報があり、松本まで足を延ばしました。

 

2.モハ10形2連 (渚:1986年8月)

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松本電鉄の電車は、モハ10形が6両、クハ10形が1両在籍しました。これらの車両は1958年~1964年にかけてそれまで在籍していた雑多な木造電車を鋼体化するために、車体を新製した日本車輌製の地方私鉄標準車体に載せ替えたもので、全車同じ車体だったので、見分けも付きません。新潟交通が導入した日本車輌製の地方私鉄標準車体とも共通しますが、こちらは貫通タイプの両運車でした。

 

3.モハ10形2連 (渚:1986年8月)

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 しかし、在籍する電車がみな同じ車体なので変化に乏しく面白くありません。ただ救いは、均整のとれた車体によくマッチした塗装でした。

 

4.モハ10形2連 (信濃荒井~渚:1986年8月)

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 この路線は上高地線と言う名前がついていました。

これは、この路線が上高地への交通手段であることを意味しています。特に夏場は上高地北アルプスに向かう登山客が新宿や名古屋から夜行列車で夜中に松本に到着するので、その足として早朝に登山客用の列車を走らせていました。また、昭和40年代には、名古屋から来る国鉄気動車急行が、新島々まで乗り入れていた時期があったそうです。

 

5.モハ10形2連 (波田~渕東:1986年8月)

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この頃もまだ、早朝の連絡列車を走らせていましたが、新島々から先はバスに乗り換えとなるので、なにも松本電鉄に乗らなくても、松本から直接バスに乗れば良いわけですが、そこは当時の松本電鉄が電車とバスを運営していたので、ごもっともなやり方だったわけです。 

 

6.モハ10形2連 (波田~渕東:1986年8月)

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 この日はあいにくの雨天になりましたが、幸い車だったので撮影を継続しました。

第228話 1986年福井:惰性の北陸早回り(その3)

1986年の北陸地方ローカル私鉄早回りも、とりあえず福井まで行ってみました。

とは言うものの、更に気合が入らず、さらっと覗いただけでした。しかし、前年にはいなかった元静岡鉄道の300形であるモハ300形が急行専用車として入線しており、車両の動向に変化がありました。

 

1.モハ141-1+モハ141-2 (西武生:1986年10月)

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モハ300形の入線により、恐らく廃車が出るはずです。

モハ300形は急行用なので、モハ200形が各停用に格下げとなり、玉突きで各停用の車両から廃車が出ると思われました。

写真のモハ140形はまだまだ主力なので、これは廃車にはならないはずです。

 

2.モハ121-1+モハ121-2 (西武生:1986年10月)

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よって、この時点で廃車の可能性が高かったのは、モハ120形、モハ21+クハ21、モハ160形でした。

 

3.モハ21+クハ21 (武生新:1986年10月)

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武生新に留置されていたモハ21+クハ21は見た感じ普段は使用されていない様子でした。この車両の廃車が濃厚と思われましたが、想定通り、モハ21+クハ21とモハ120形のモハ121-1+モハ121-2が廃車されました。

しかし、モハ120形のモハ122-1+モハ122-2とモハ160形はしぶとく残りました。

 

4.モハ301-1+モハ301-2 (家久~上鯖江:1986年10月)

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今回の訪問で初めて出会ったのがモハ300形(注1)でした。1986年に入線したばかりの元静岡鉄道の300形で、静岡時代はMT2連でしたが、福井入線に際しM車動台車1組とT車の従台車1組を振り替えてMM2連となり、冷房化およびセミクロスシート化されました。

この車両は、静岡鉄道が自社で製造したカルダン車です。静岡鉄道では新車の1000形が増備され、余剰となった300形3編成を福井鉄道が1986年~1987年に譲受し、モハ200形の後継として急行運用に充当されました。この写真のように、入線当初は静岡鉄道の塗装そのままで使用されましたが、後に塗装変更されます。

また、軌道区間用の折畳み式のドアステップも当初は中央ドア1カ所のみ設置でしたが、それでは軌道区間の電停で乗降に不便なため、後に運転台寄りのドアにも設置されました。

(注1)モハ300形の車歴

・福井モハ301-1+モハ301-2←静岡クモハ301+クハ301:1966年静岡鉄道製

・福井モハ302-1+モハ302-2←静岡クモハ302+クハ302:1967年静岡鉄道製

・福井モハ303-1+モハ303-2←静岡クモハ303+クハ303:1967年静岡鉄道製

 

5.モハ81+クハ81 (家久~上鯖江:1986年10月)

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モハ80形+クハ80形の2編成は、廃車対象ではなく生き残りましたが、この車両は後ほどカルダン化と冷房化が図られます。元を正せば初期の南海電車で木造の卵型流線形だった車両ですが、ここまで使い込まれるとは誰も思ってはいませんでした。

 

6.モハ81+クハ81 (家久~上鯖江:1986年10月)

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1986年の北陸地方ローカル私鉄早回りは富山地鉄北陸鉄道金名線福井鉄道と、搔い摘みながら非常に速足で回りましたが、その後の北陸ツアーは、社会人になった都合もあり、1990年まで足が遠のきました。

第227話 1986年北陸(石川):惰性の北陸早回り(その2)

新西金沢でレアな車両を撮影したあとは、いつ廃止になるのか気になる金名線の存続区間に向かいました。

この日は、朝は晴れましたが、その後は晴れたり曇ったりのはっきりしない天気となりました。秋の北陸地方は天気が変わりやすく、週間予報で計画をたてても、結局は当日にならないとその日の天気が読めません。

 

1.モハ3743 (加賀一の宮~中鶴来:1986年10月)

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金名線の存続区間といっても、鶴来~加賀一の宮間のわずか2.1kmです。

この区間はすでに鉄道輸送の使命を終えた感じで、おまけの様な区間でした。しかし線路がある以上、列車は走り続けました。この日はモハ3743が走っていましたが、この車両もそろそろ引退が近づいていました。

 

2.モハ3752 (加賀一の宮~中鶴来:1986年10月)

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 この頃の金名線はまだ、列車本数もあり、ほとんどの列車は野町まで通し運転されていたので、短時間でしたが複数の車両を撮ることが出来ました。

 

3.モハ3752 (中鶴来~加賀一の宮:1986年10月)

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 金名線は加賀一の宮付近から手取川に沿って走りました。

本来であれば、加賀一の宮の先にある手取川の中島橋梁を渡って更に16.8kmほどの路線があるはずでしたが、1984年に中島橋梁の橋台の基礎部分に崩壊の危険性が確認されて以来、加賀一の宮~白山下間は運行休止状態が続いていました。

 

4.モハ3732 (加賀一の宮~中鶴来:1986年10月)

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 加賀一の宮はちょうど列車交換が可能な駅だったので、とりあえず加賀一の宮までは列車が走っていましたが、いずれ鶴来~加賀一の宮間も含めて、金名線は廃止となる見方が強かったです。

 

5.モハ3732 (中鶴来~加賀一の宮:1986年10月)

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 第53話でも記述しましたが、鶴来~加賀一の宮間の存在は、加賀一の宮にある白山比咩神社の参拝輸送で残っていたような感じでした。

 

6.モハ3741+モハ3742+クハ1721、クハ1722 (鶴来:1986年10月)

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 この日はちょっとだけ鶴来の車庫にも寄りました。

側線にはモハ3740形他が留置されていましたが、かなりくたびれた感じで、ここに留置された元名鉄の車両はそろそろ引退が近い様にも見えましたが、1990年の東急7000系導入まで使用されました。

この後は、惰性で福井に向かいました。

第226話 1986年北陸(石川):惰性の北陸早回り

第191~194話では、北陸地方のローカル私鉄早回りの富山地鉄の話題をご紹介しましたが、今回はその続きの北陸鉄道福井鉄道の話題です。

まずは北陸鉄道ですが、この撮影旅行は前段の立山砂防で燃え尽きた感じだったので、この先は惰性の早回りで、ほとんど気合が入っていません。

 

1.モハ3704+モハ3703 (新西金沢:1986年10月)

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金沢で宿泊し、日の出とともに向かったのが新西金沢でした。前回の訪問は1年前でしたが、なぜかこのモハ3704、3703は撮影しておらず、これを撮るために立ち寄りました。この2両はすでに休車状態で、もう走ることはないと思われ、状態はかなり荒廃していましたが写真が撮れただけでも良かったです。

 

2.モハ3703+モハ3704 (新西金沢:1986年10月)

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モハ3700形(注1)は、名鉄の前身である元名岐鉄道の車両で、1964年に名鉄から譲受したものです。譲受に際し名鉄にて貫通化や乗務員室扉増設などの改造が施されました。 北陸鉄道では石川総線で活躍しましたが、能美線の廃止や金名線の休止で余剰車となり、1986年当時はまだ車籍はありましたが、実質廃車同然の状況でした。

(注1)モハ3700形の車歴

・北陸モハ3703,3704←名鉄モ707,710←名岐デセホ707,710:1927年日本車輌

 

3.モハ3703+モハ3704と駅名標 (新西金沢:1986年10月)

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 この日は、朝まで雨が降っていましたが、日の出から陽が射し、見事な虹が現れました。ちょっと無理のある構図ですが虹を入れて撮ってみました。

 

4.ED201(新西金沢:1986年10月)

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 ED201(注1)は、廃止された能美線の前身である能美電鉄の発注車と言われています。昔の南海電鉄電気機関車にも似た半鋼製の凸形29t機です。この車両はもともと線内の貨物輸送用でしたが、1976年の貨物輸送廃止後は除雪機となり、大きなスノープローを常設していました。

(注1)ED201の車歴

・北陸ED201←金沢電軌デキ1←能美デキ1:1938年木南車輌製

 

5.ED301(新西金沢:1986年10月)

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 ED301(注1)は北陸鉄道発注の唯一の電気機関車で、箱型デッキ付きの30t機です。この車両も貨物輸送廃止後は除雪機となり、大きなスノープローを常設していました。

(注1)ED301の車歴
・北陸ED301:1954年東洋工機製

 

6.モハ3752 (野々市~押野:1986年10月)

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 新西金沢電気機関車を撮影後、鶴来方面に移動しました。

第225話 1987年茨城交通:恥ずかしいCI化(その5)

この日は天気も良く、ケハ601の走行撮影も出来て、すっかり筑波鉄道のことを忘れて湊線の撮影に没頭してしまいました。

 

1.キハ222 (中根:1987年3月)

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非電化私鉄は架線がないので、スッキリした写真が撮れます。

この日、日中の単行運用はケハ601とこのキハ222の2列車でした。夕方になると2連の運用となり、ケハ601の方は先に入庫してしまいましたが、キハ222の方はまだ走っていました。

 

2.キハ223+キハ2005 (金上~中根:1987年3月)

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そろそろ2連がやって来るので、少し離れた位置から風景主体の写真を撮影してみました。 

金上~中根間には湊線を俯瞰できる小高い丘があります。ここも築堤を走る列車を何枚も連写できる場所です。恐らく現在もこの場所で同じような写真を撮ることが出来ると思います。ただし、この頃の車両はもう居ませんが・・・・。

 

3.キハ223+キハ2005 (金上~中根:1987年3月)

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 ところでここは、東日本大震災で甚大な被害を受けた場所でした。ちょうど列車が写っている辺りも築堤が崩れ、この手前にあった溜池も決壊してしまい、この区間の復旧にはかなりの日数を要しました。

 

4.キハ2004+キハ221(金上 ~中根:1987年3月)

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地震や水害で廃止となった鉄道は結構あります。そうした中で湊線は生き残りました。

 

5.キハ2005+キハ223 (中根~金上:1987年3月)

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 この日は日暮れまで湊線で撮影を行いました。とにかくケハ601の走行写真は最高の収穫でした。そして翌日は心機一転、筑波鉄道に戻りました。