ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第238話 1988年新潟交通:ああ雪国!!(その2)

この年は意外と雪の少ない冬でした。

これなら雪原で走行撮影も可能だろうと、雪をあなどった私はバカでした。この冬は雪の洗礼をこれでもかというくらい浴びました。

 

1.クハ37前妻面 (東関屋:1988年1月)

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 クハ37は運用されることもなく東関屋の側線で雪を被っていました。

クハ37は貴重な元国鉄キハ41080の成れの果てですが、もうほとんど動かず、こうなると先が見えてしまったようです。この時期全国に残る現役の元国鉄キハ41000形は、お隣の蒲原鉄道クハ10と片上鉄道キハ303だけになっていました。

 

2.クハ37連妻面 (東関屋:1988年1月)

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 クハ37の連結側はオリジナルの4枚窓を維持していました。

雪の帽子を被ったようで寒そうですが、この車両は雪国生まれの新潟鐵工所製で、当時54歳でした。結局この車両は翌年の1989年12月に廃車となりました。

 

3.モハ11 (燕~灰方:1988年1月)

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 ある日、早朝から3連を狙って灰方の田園地帯に踏み込みましたが、突然の猛吹雪に遭い撮影どころではなく、身の危険を感じ引き返そうとしていた時に用水路に転落しました。まさかこんなところに用水路が・・・積雪で全く分かりませんでした。深さ1.5mはあったでしょうか、モロに落ちましたが冬なので水はなく、雪がクッションとなり幸いけがはなし。しかしながら用水路から這い上がった我が身は全身泥と雪まみれで下着までビショ濡れ。こんな惨めな思いをしたことはありませんでしたが、捨てる神あれば拾う神ありです。有難いことに灰方駅で暖を取らせてもらいました。この頃は灰方駅も有人で小さな待合室にはストーブがありました。

 

4.束の間の晴れ間のモハ16 (燕~灰方:1988年1月)

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 用水路に落ちても、寮に居るよりはましです。その後も懲りずに雪原にチャレンジしましたが、いつも天気が悪く、撮影の成功率は20%と言ったところで、ほとんどは撮影が出来ず、意味もなく電車に乗って暇つぶしをするパターンでした。

この頃新潟交通では、土日祝日のみ大人1000円で1日乗車券を販売していたので、結構利用しました。全線を往復すると楽勝で元が取れてしまうので、これを利用しない理由はありませんでした。

 

5.束の間の晴れ間のモハ16 (燕~灰方:1988年1月)

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 このモハ16の撮影は、吹雪が突然やみ、絶妙な撮影タイミングでした。この時期の新潟交通の撮影はイチかバチかの運次第でした。

雪原には、いたるところに予期せぬ落とし穴がいっぱいあります。雪原に立ち入ることは自殺行為です。雪原に入るのはやめましょう!!

 

6.モハ19 (燕~灰方:1988年1月)

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 雪煙を舞い上げ電車がやって来ました。これでは前方も視界ゼロです。しかし、こんな悪天候のなか、電車はダイヤ通りに走っていました。あっぱれです。

第237話 1988年新潟交通:ああ雪国!!

1987年の秋から私は仕事の都合で新潟で暮らすことになり、初めて雪国での冬越しとなりました。

その秋頃の様子は第104~111話でご紹介しましたが、新潟の安定した天候は11月まででした。12月になると天候は豹変し、いよいよ雪国モードに入り、太平洋側で育った私にとっては理解できない世界となりました。とにかく晴れません。常に寒く、湿っぽく、冬の日本海を見ていると空も海も灰色で最低の気分になります。休みの日など、会社の寮では皆布団にくるまり、食事とトイレ以外は部屋に閉じこもって春を待ってる「ミノムシ族」も少なくありませんでした。

 

1.モハ16、モハ24 (白根:1988年1月)

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 そんな最低最悪の環境に耐えきれず、私は新潟交通の電車を追い掛けていました。どんなに天気が悪くても寮に居るよりはましです。しかし、冬の新潟交通は過酷でした。

 

2.クハ37、クハ21 (東関屋:1988年1月)

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 雪が降った週末に、東関屋を訪問しました。

構内は程よく除雪されており、電車も淡々とダイヤ通り走っていました。燕から来た電車には屋根に積もった雪が妻面に垂れ下がり結氷していました。

 

3.雪の東関屋構内全景 (東関屋:1988年1月)

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 車庫内にはいつもと同じように電車が昼寝していました。モハ2220形にとっては、小田急時代はこんな環境じゃなかったので、辛い新潟の冬だったと思います。実際、前面の貫通扉からすきま風が吹き込み寒かったようで、のちに貫通扉を塞いでしまいました。

 

4.クハ36+モワ51 (東関屋:1988年1月)

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 クハ36は、雪帽子を被って鎮座していました。

このクハ36は専ら朝の3連用でしたが、しばらくこの場所に留置されており、先行きが心配でした。

 

5.クハ36+モワ51 (東関屋:1988年1月)

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 恐らく、次に廃車となるのはこのクハ36かクハ37と思われましたが、この2両は仲良く1989年12月に廃車となりました。

 

6.モワ51+クハ36 (東関屋:1988年1月)

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 車庫にはモワ51が大きな雪掻きを装着してスタンバイしていましたが、レールに積もった雪を見るかぎり走った様子もなく、この程度の雪では動じません。

第236話 1988年十和田観光:観光という名のローカル線(その3)

十和田観光電鉄の訪問は、この1988年4月が初めてでしたが、十和田観光電鉄の走行写真をあまり見たことがなく、どこで撮影すればよいか全く情報もないまま七百付近で走行撮影をしました。しかしこの付近は雑木林の中を線路が通る、非常に撮影し辛い場所でした。

 

1.モハ3809+クハ4406+モハ3401 (古里~七百:1988年4月)

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 こんな場所なので、どうしても正面がちの撮影になってしまいますが、こんな時にかぎって3連がやってきました。先頭はつまらないモハ3809の食パン顔ですが、後ろの2両は往年のデラックス車であるクハ4406とモハ3401でした。せっかくの凸凹編成もこれでは面白くありません。

 

2.ED402 (古里~七百:1988年4月)

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 そして続いて突然やってきたのは何とED402の単機回送です。

当然、時刻表にないスジだったので、あわてて撮影となりました。こんなのがやって来るとは思ってもいませんでしたので、この場所での撮影が悔やまれます。

 

3.ED402 (七百~古里:1988年4月)

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 ED402の単機回送は、恐らく列車検査で十和田市から七百車庫に戻る途中だったと思われます。

 

4.ED301 (古里~七百:1988年4月)

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 そして再びあわてて撮影となったのが、ED301の単機回送です。

まったく意表を突く攻撃でしたが、これも突然やって来ました。これは先ほどのED402の交代でED301が十和田市へ駐在に出向いたものと思われます。

 

5.ED301 (七百~古里:1988年4月)

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 結局、この日は予期せぬ電気機関車のレアな走行写真が撮れてしまいました。しかしながら、もっとまともな場所で撮りたかったですが、十和田観光電鉄の路線は意外と列車が撮影できる開けた場所がなかったことを後から知りました。だから鉄道誌にも十和田観光電鉄の走行写真を紹介する記事が少なかったのかも知れません。

この日は、翌日津軽鉄道を訪問するため、このあと五所川原に向かいました。

第235話 1988年十和田観光:観光という名のローカル線(その2)

十和田観光電鉄は、1951年の改軌電化時に自社発注の電車でのスタートしましたが、1988年時点では、その頃の車両は電気機関車のED301を除きすでに存在していませんでした。初代の車両に代わり主力となっていたのが東急電鉄からの譲渡車両でしたが、自社発注の車両が2両だけ存在していました。

 

1.クハ4406+モハ3401 (三沢:1988年4月)

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この頃残っていた自社発注車は、クハ4406(注1)とモハ3401(注2)でした。共に全金属製の両運車で非常に似た形態をしていましたが、モハ3401は1955年製、クハ4406は7年後の1962年製で製造メーカーも異なりました。

製造当時は大変スマートでデラックスな車両として話題を呼び、相当奮発して発注された車両のようでした。たしかにその頃は地方鉄道でこれほどの車両を新製した事例は少なく、特に東北地方ではピカイチの存在でした。まさに観光電鉄に相応しい車両でしたが、景気の良かったのはこの頃までで、その後の新製車はありませんでした。 

 

2.クハ4406+モハ3809 (十和田市:1988年4月)

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 (注1)クハ4406の車歴

・十和田クハ4406:1962年川崎車輌

(注2)モハ3401の車歴

・十和田モハ3401:1955年帝国車輌製

 

3.モハ3809+クハ4406 (十和田市:1988年4月)

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 1988年当時、東急電鉄からやって来た車両が3両いました。

いずれも元東急3800形ですが、3両まとめて1981年に入線しました。モハが2両、クハが1両でモハは入線時に両運化され、クハは片運のままでした。

 

4.クハ3810 (十和田市:1988年4月)

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クハ3810(注3)は元東急クハ3855です。 この車両は東急時代の1973年に車体更新されましたが、他のモハより更新時期が早かったためか、車体にシル・ヘッダーが残るやや古めかしいスタイルです。

(注3)クハ3810の車歴

・十和田クハ3810←東急クハ3855:1952年東急横浜製作所製

 

5.モハ3811 (七百~古里:1988年4月)

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 モハ3800形(注4)の2両は元東急デハ3800形でした。元は共に片運電動車でしたが、モハ3811は東急時代に中間電動車化されていました。十和田移籍時に連妻側に半室運転室を設けたので、前後で表情が異なる顔になりました。

上の写真のモハ3811は元々先頭側の妻面ですが、東急時代に中間車化され運転室を撤去していましたが、再び半室運転室を設けて両運化されました。

 

6.モハ3811 (古里~七百~:1988年4月)

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こちらの妻面は、元連妻側です。切妻なので平凡な顔付です。

 (注4)モハ3800形の車歴
・十和田モハ3809←東急デハ3801:1927年東急横浜製作所製

・十和田モハ3811←東急デハ3802:1927年東急横浜製作所製

第234話 1988年十和田観光:観光という名のローカル線

1988年のGWは、東北地方のローカル私鉄早回りを行いました。

南から栗原電鉄、十和田観光電鉄南部縦貫鉄道弘南鉄道津軽鉄道、小坂鉄道と回りましたが、今回はその道中の十和田観光電鉄です。

ところで、十和田観光電鉄が2012年に廃止され、まだ記憶に新しいですが、せっかく東北新幹線新青森まで延伸されたのに、三沢も十和田市も通らず、期待の接続駅も誘致できなかったことがとどめを刺したのか?やはり鉄道の存続に行き詰まっていたのでしょう。

十和田観光電鉄は、その名の通り十和田湖の観光を目的とした地方鉄道でしたが、路線は東北本線の三沢~十和田市間のみで、肝心な十和田湖まで直通していませんでした。どうやら終点の十和田市からバスに乗り換えるルートになっていたようでしたが、果たして電車に乗って十和田湖へ行く旅行者はどのくらいいたのか?そして、十和田観光電鉄は鉄道会社ですが、実態は兼業するバス事業の方がはるかに大きく、電車は観光と言うより、地元のローカル線と言うのが妥当なようでした。実際、観光用の電車は1両もなく、すべて通勤電車で1988年当時は元東急3800形のお古が主力でした。

 

1.ED301 (七百:1988年4月)

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 さて、いきなり電気機関車ですが、十和田観光電鉄には2両の立派な機関車がいました。かつては貨物輸送に活躍していましたが、貨物輸送なき後も2両は健在でした。

これは、終点の十和田市で救援用に機関車を待機させていたためで、2両の機関車は車籍を有しており、列車検査を行うため3日に1度は必ず七百車庫に戻らねばならず、2両が交番で十和田市に駐在していました。

 

2.ED301 (七百:1988年4月)

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 ED301(注1)は、十和田観光電鉄の前身である十和田鉄道が非電化軽便鉄道から改軌電化を行い、十和田観光電鉄となった際に新製された、凸型30t機です。導入当初から貨物輸送に従事していましたが、釣合梁式台車の都合で速度制限を受けるなど、運用に制約があり、その後ED402が増備されると予備車に転じてしまいました。

(注1)ED301の車歴

・十和田ED301:1951年日立製作所

 

3.ED402 (十和田市:1988年4月)

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1988年当時、 十和田観光電鉄の車庫は七百にありましたが、1985年以前は十和田市にありました。車庫の移転と併せて十和田市駅も三沢寄りに300mほど移転してショッピングセンターと一体化されましたが、その後も旧十和田市駅の構内は残されて車両の留置線として使用されました。写真は、旧十和田市駅の構内に救援用として駐在していたDE402です。

 

4.ED402 (十和田市:1988年4月)

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 ED402(注2)はED301の増備車として導入された凸型35t機で、川崎車輌製の戦後唯一の私鉄向け電気機関車です。DE301に比べて味気ないスタイルをしていますが、ウイングばね台車となり速度制限も受けず、貨物牽引の主力機でしたが、1986年の貨物廃止後はED301共々失業となり、救援用、除雪用として余力をもてあそんでいました。

(注2)ED402の車歴

・ 十和田ED402:1962年川崎車輌

 

5.モハ1207+クハ1208 (七百:1988年4月)

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 十和田観光電鉄には、湘南顔の好ましい車両がいました。それが1200形(注3)です。

この車両は北海道の元定山渓鉄道から1970年にやって来た車両で、モハ+クハの2両編成ですが共に両運車でした。

 

6.クハ1208+モハ1207 (七百:1988年4月)

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 1200形はよく見ると、バス窓で車体側面に2本のリブがあり、右側運転台という一風変わった車両でした。

しかし、他車との連結運転ができず、老朽化も進んでいたため間もなく廃車になってしまい、走行撮影ができませんでした。

(注3)1200形の車歴

・十和田モハ1207+クハ1208←定山渓モハ1201+クハ1211:1954年日本車輌

第233話 1990-91年有田:バブル期の小鉄道(その2)

有田鉄道紀州鉄道同様に、4年ぶりの訪問でした。前回訪問の様子は、第48話をご覧ください。

有田鉄道は、この4年間の車両の出入りは全くないばかりか、車両の改造も全くありませんでした。しかし、乗客は減る一方で、日中の列車は徐々にバスに振り替えられて本数が減っていました。全くバブル期を感じさせない状況でした。

 

1.キハ58001+キハ58002 (下津野~御霊:1990年2月)

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この写真を見ると車両のせいか、国鉄時代のローカル線そのもので、何の感動もありません。この日は休日で乗客もほとんどいませんでしたが、日中に2連がやって来ました。恐らく、両運車のキハ58003が検査入場のため、やむなく2連を運用したものと思います。 

 

2.金屋口駅貨物ホーム (金屋口:1990年2月)

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 有田鉄道は、かつてみかん輸送が盛んで、この金屋口にはご覧のような貨物ホームもありましたが、この当時はすでに貨物輸送は行われておらず、機関車ともども無用の長物と化していました。

この写真は金屋口の駅側から藤並方向を写したものですが、写真の左側の線路が本線です。

 

3.下津野駅 (下津野:1990年2月)

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 走行写真を撮影するため、藤並から下津野までタクシーを利用しました。列車本数が少ないのでやむを得ない出費でしたが、当時の有田鉄道のタクシー初乗り運賃が確か360円か380円でした。東京だと500円だったと記憶しますがこの運賃差はなんだったのか?

ところで、下津野駅は有田鉄道開業時の終点だったそうです。写真の右側は有田川で他に目立ったものは何もありませんでしたが、近くに高校があり、この頃はまだ通学利用が結構あったようです。

 

4.キハ58003 (下津野~御霊:1991年12月)

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 この写真は1991年12月に訪問した時の写真です。

この日、紀州鉄道に続いて有田鉄道を訪問しました。とりあえず、湯浅行の単行がやって来たので撮りましたが、ご覧の通り天気が最悪です。

 

5.キハ58003 (下津野~御霊:1991年12月)

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 この日はキハ58003が運用されていました。

この写真は、先程撮影した湯浅行の折返しを御霊近くの鉄橋で撮影したものです。しかしながら、単行のキハ58形は奇妙です。これに倣って?JR北海道にも末期の国鉄時代に両運化されたキハ53形-500番台が存在しましたが、こちらが元祖です。(なお、有田のキハ58形は元は国鉄車ではなく富士急行の発注車です。)

 

6.キハ58003 (下津野~御霊:1991年12月)

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 乗客がパラパラ乗っていますが、有田鉄道もこの車両では大き過ぎる感じです。しかし、藤並から湯浅まで、わずか1駅だけですが紀勢本線に乗り入れるためには、この車両でなければなりません。本来この車両は急行用のダブルエンジン車ですが、有田鉄道では入線時に1エンジン化しており、これは賢明な対応だったと思います。

写真の車両の床下中央右側に空いたスペースが見えますが、ここにかつてはもう1基のエンジンが付いていました。

有田鉄道は、訪問するたびに列車本数が減っていました。列車代行バスに徐々に切替わっていましたが、実態は並行する自社の路線バスに転換です。このままバス転換が進めば、いずれ列車はなくなってしまいそうな雰囲気でした。

全長わずか5.6kmの路線で、貨物輸送もなく、この程度の輸送需要で鉄道を走らせる理由が見えませんでした。

第232話 1990-91年紀州:バブル期の小鉄道

1990年2月に大阪出張中の休日を利用して紀州鉄道を訪問しました。

前回訪問の1985年12月から4年ぶりとなります。前回訪問の様子は第46,47話をご覧ください。

この頃、世の中はバブル期絶頂でした。地方都市もバブル景気の恩恵で少しは景気が良かったはずですが、紀州鉄道では輸送需要の少なかった西御坊~日高川間を1989年に廃止し、当時は日本一路線が短い、全長2.7kmの地方鉄道になっていました。

 

1.キハ603(御坊:1990年2月)

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 さて、4年ぶりではありますが、車両の出入りはなく、4年前と同じ顔ぶれでしたが、キハ600形の顔に若干変化ありでした。以前は前面窓がHゴム支持でしたが真四角で銀縁の押さえ金具に変更され、鋭い表情となりました。そして前照灯がシールドビーム化されて、左右腰部にも増設されて3灯化されました。

 

2.キハ603(学問~御坊:1990年2月)

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 この日は、キハ603が運用されていました。

僅か2.7kmの区間をピストン運転していましたが、この18m車でも有り余る程の大きさです。しかもDMH17はそうとう燃費が悪かったようです。

 

3.キハ603(学問~御坊:1990年2月)

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 この頃は、第三セクター向けの小型気動車が量産化されて、エンジンも燃費の良い高出力の直噴型が主流になっていましたが、大手不動産会社の紀州鉄道もそこまで手を出すほど、この路線の設備投資は行いませんでした。

 

4.キハ605(紀伊御坊:1991年12月)

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この写真は1991年12月に訪問した時に撮影したものですが、1984年に岡山臨港鉄道からやって来たキハ 1003は、キハ605(注1)に改番されて、車体もかなり改造されていました。

性能的にはトルコン化されましたが、外観的には、前面窓が4枚から3枚化され、中央の窓が大型化されました。そしてドアが片引き戸から折り戸となり、塗装も紀州鉄道の標準?となりました。しかし、この車両はワンマン化までされたものの、まともに使用されたことがなかったようで、いつも紀伊御坊の構内に鎮座していました。紀州鉄道では、キハ600形2両で十分に運用が賄えたようで、キハ605は便宜的な予備車両だったようです。

(注1)キハ605の車歴

紀州キハ605(キハ1003)←岡山臨港キハ1003←常磐炭鉱キハ21:1952年宇都宮車輌製

 

5.キハ604(紀伊御坊:1991年12月)

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 この日はキハ604が運用されていました。

キハ604もキハ603と全く同じ改造を受けていました。

 

6.キハ604(学問~御坊:1991年12月)

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 この後も、キハ600形は大事に使われて、2009年まで活躍します。

 

7.キハ604(学問~御坊:1991年12月)

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1991年の紀州鉄道訪問は年末の西日本早回り撮影の初っ端でした。

この日は天気が悪く、走行写真も気合が入りませんでしたが、このあと有田鉄道、野上電鉄、南海貴志川線を経由して、神戸から夜行のフェリーで高松の琴電に向かいました。