ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第245話 1988年栗原:運ぶものがない!!(その2)

石越に到着したのは早朝でした。栗原電鉄は始発前だったので、まだ電車はいませんでした。時間つぶしに、かつての貨物ヤードでED351などを撮影していると、若柳の車庫から出庫してきた回送が到着しました。この回送が折返し細倉行きの始発電車になります。

 

1.M152 (石越:1988年5月)

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 栗原電鉄の石越駅は1線1面ホームのささやかな終端駅でしたが、JRとの接続駅であり、細倉鉱山の玄関でもあり、立派な駅舎もある風格のある駅でした。

この日の始発電車はM152の単行です。

 

2.M152 (石越:1988年5月)

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 M152の停車する石越駅は、昭和30年代にタイムスリップしたような、なんともローカルな雰囲気でした。

 

3.M152 (石越:1988年5月)

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 まもなく、細倉行きの始発が出発します。

この日はGWの谷間の平日でしたが乗客はゼロ。栗原電鉄は貨物ばかりか乗客までも、運ぶものがなくなってしまった様でした。

 

4.M153 (荒町~石越:1988年5月)

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 石越を出るとすぐに田園地帯に入ります。まだこの辺りは田圃に水を張る前でした。

 

5.M153 (荒町~石越:1988年5月)

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 田植えの終わる頃がベストな撮影時期になるはずですが、GWはちょっと早かったです。しかし、少し山手の方は田植えが始まっていました。

 

6.M152 (鶯沢:1988年5月)

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 秋に訪れた際に、鶯沢近辺の田園地帯に目が止まりました。背景の栗駒山系の山並みも申し分なく、春にはきっと良い写真が撮れるだろうと目を付けていました。そんなわけで鶯沢を目指しました。

第244話 1988年栗原:運ぶものがない!!

1988年のGWは東北地方のローカル私鉄早回り撮影を行いましたが、その一番最初の訪問は栗原電鉄でした。

栗原電鉄には、この前年の秋にも訪問しており、わずか半年後の訪問となりましたが、その理由は、栗原電鉄の春の光景を撮影したかったからです。栗原電鉄の沿線は鶯沢あたりまでは広大な田園地帯です。ちょうどGW頃が田植えの季節で、タイミングが良ければ水田に列車を映して走る光景が撮影できると思ったからです。

半年前の秋の様子は第21~23話をご覧下さい。

 

1.ED351+DB101 (石越:1988年5月)

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 この撮影旅行は、前日の夜に上野から夜行の臨時急行いわて号で出発しました。当時、東北新幹線は盛岡まで開通していましたが、まだまだ夜行列車は健在で、GWなどは臨時列車も多数ありました。ちなみに急行いわて号は12系客車で、冷房は付いていますが、座席は4人掛けのボックスシートで満席でした。

 

2.ED351+DB101 (石越:1988年5月)

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 早朝の石越に着いて、先ず目に入ったのは栗原電鉄の石越構内の外れに止まっていたED351とDB101でした。この機関車が留置されている場所は、かつて貨物輸送を行っていた頃の国鉄との貨物授受線です。

 

3.DB101 (石越:1988年5月)

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 DB101は、まさに貨車の授受を行っていた入換機でしたが、ED351ともども貨物輸送が廃止されたのに、なぜここにいたのが不可解です。

 

4.DB101+ED351 (石越:1988年5月)

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 DB101は小型のディーゼル機関車です。貨車の授受にDB101が必要だったわけは、栗原電鉄がDC750Vだったのに対し、東北本線はAC20000Vなので、電気機関車での貨車の授受ができなかったためです。

 

5.DB101+ED351 (石越:1988年5月)

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 この写真は、石越駅から貨物授受線方向を撮影したものです。線路が左に分岐していますが、左方向が細倉方面への本線で、正面が貨物ヤード、右方向の分岐が授受線です。

写真をよく見ると、機関車の左側にレールが山積されていますが、このレールはかつてヤードに敷設されていたものと思われます。なんだか、店じまい前の身辺整理をしている様です。

 

6.ED351+DB101 (石越:1988年5月)

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 ED351の向こう側がJR東北本線です。

ちょうどコンテナ列車が石越を通過しているところですが、もうJRの貨物列車はここには止まりません。なぜなら、運ぶものがない!!からです。

第243話 1993年高松琴平:雨の琴電そして京急増殖(その3)

この頃の長尾線志度線には、まず京急1000系の導入はあり得ませんでした。その理由は、この両線の線路事情が大型車の入線を拒んでいたからです。しかし、この両線には元京急230形だった30形が大量導入されており、こちらも京急長尾・志度線の様相を呈していました。

 

1.36+35 (西前田~高田:1993年4月)

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平木駅で撮影していても、すぐに飽きてしまいました。仕方なしに雨の中、走行撮影に出向きました。

当然の30形がやって来ました。オリジナルの非貫通車であることが救いです。ちょうど咲いていた菜の花で、雨天に彩を添えてみました。 

 

2.850+65 (平木~白山:1993年4月)

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この日のお目当ては、850+65です。雨で暗く、露出を落としてみましたが、この区間の列車は70km/hの最高速でぶっ飛んで来るのでシャッター速度は下げられません。 

 

3.62+760 (白山~平木:1993年4月)

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運用が変わったのか62+760がやって来ました。これも最高速です。手振れを恐れて標準レンズで撮影です。

 

4.760+62 (西前田~高田:1993年4月)

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晴れていれば良い写真になるのですが・・・・ 

 

5.28+27、850+65 (平木:1993年4月)

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平木駅での列車交換風景です。どちらの列車も瓦町行きとなっていますが、850の方が先発で、28の方は到着したばかりの平木折返しですが、早々と行き先は瓦町になっていました。850が出発したあとに28は転線します。 

 

6.71 (平木:1993年4月)

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 平木駅には以前から71が留置されていました。

この時点でかなり朽ちていました。もうこのまま廃車になる雰囲気ですが、その後、琴電マジックで新車並みに復活します。

この日は天気が悪く、琴電は不発に終わってしまいました。この後、野上電鉄に移動しますが、このGWはずっと天気が悪く、さんざんの撮影旅行となりました。

第242話 1993年高松琴平:雨の琴電そして京急増殖(その2)

琴平線への元京急1000系導入は、1988年には12両(6編成)に達します。

この年のGWに訪問した際には、元京急1000系導入で玉突き廃車となる1020形の一部が早くも編成を解かれて仏生山の留置線に安置されていました。

 

1.1036,1035,1034,1033の安置 (仏生山:1993年4月)

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 犠牲となったのは、1033+1034と1035+1036でした。この2編成の廃車は、1033+1034が5月14日付、1035+1036が8月8日付でした。

 

2.1034 (仏生山:1993年4月)

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 この1034はあと2週間後には正式に廃車されて解体となります。

 

3.81他 (今橋:1993年4月)

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仏生山での撮影を終えて次は今橋車庫に向かいました。

志度線長尾線の車両は変化もなく、天気が良ければ走行写真を撮りたいところですが、雨は止まず気合が入りません。今橋車庫も狭く、留置車両はギュウギュウ詰めなのでまともに写真が撮れませんが、運よく元南武の旧国だった81が先頭に出ていました。

 

4.300他 (今橋:1993年4月)

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長老のトップナンバーである300がいました。そのお隣は元東濃から来た72、後位にいるのは元近鉄の20形、その後ろが元宮城の67です。この頃の今橋車庫はお宝だらけの宝庫でしたが、なにぶんこの状況では撮影になりません。

こういう古い車両を見ていると本線が気になります。 1本くらいは古い車両が走っているかも知れません。

 

5.850+65 (平木:1993年4月)

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結局、雨にもかかわらず、長尾線の平木まで来てしまいました。

天気が悪かったので、落ち着いて形式写真をとるため相対ホームの平木で撮影です。この日は元南部鉄道出身の買収国電だった850が65とコンビを組んで運用されていました。

 

6.28+27(平木:1993年4月)

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 平木は折返し列車もあり、ここに居れば色んな列車が落ち着いて撮影できます。しかし、日中は大半が30形なので面白くありません。

 

7.27+28 (平木:1993年4月)

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 面白くありませんが、とりあえず撮影です。ところでこの30形ですが、京急のオリジナルは非貫通です。琴電移籍時に最初の3編成は非貫通で導入されましたが、第4~7編成が貫通化されました。やはり非貫通に越したことはありませんが、じっくり見ると貫通タイプも結構均整のとれたデザインです。

第241話 1993年高松琴平:雨の琴電そして京急増殖

1993年は年間を通して、撮影の度に雨に降られました。とにかく天気が悪かったです。

正直私は"晴れ男"のつもりでしたが、日頃の行いが悪かったのか、この年の撮影はことごとく雨に降られました。

1993年のGWは琴電、野上電鉄、南海貴志川線立山砂防軌道、富山地鉄を回る大撮影旅行を行いましたが、初っ端の琴電から雨でした。

 

1.1062、950、1016 (仏生山:1993年4月)

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 しかし、雨が降っても琴電はパスできません。なぜならば、この頃琴電では元京急1000系が急激に増殖しており、気が付けば琴平線の1020形が窮地に追い込まれていました。このままの調子で 元京急1000系の増備が進めば、1013形やその他琴平線の雑多形式も危うい状況となります。

 

 

2.1013 (仏生山:1993年4月)

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1013形は1983年に三岐鉄道からやって来た車両ですが、1960年代製造の京急1000系とほぼ同期です。もともとカルダン車であったものを琴電で吊掛車に性能ダウンさせてしまったので、冷房付きでカルダン車の京急1000系には敵いません。よって、先が危ぶまれます。

 

3.950+1017 (仏生山:1993年4月)

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5両導入された1013形は、1013形同士でコンビが組めなかった1017が1両余ってしまい、全く生い立ちの異なる制御車の950とコンビを組みました。この編成は普段ラッシュ時にしか走らない 異色の存在でしたが、この編成が一番廃車となる可能性が高いと思われました。しかし、実態はラッシュ時専属が幸いして1997年まで生き延びました。

ところで、写真の950は元国鉄の客車であるオハ35系の台枠を流用して琴電で製造されたゲテモノ車両でした。前面の下部に露出したアンチクライマ―が全てを物語っていました。

 

4.1016+1015 (仏生山:1993年4月)

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1015+1016は強運な車両です。なぜか吊掛車であったものを1987年に再びカルダン車に戻されました。そして京急1000系が増殖するなか、想定通りこの編成は生き延び、本形式では最後まで生き残りました。

 

5.1063 (仏生山:1993年4月)

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1063も三岐鉄道からやって来た車両ですが、この車両だけは両運車で増結用として使用されました。 この車両の先行きも微妙でしたが、吊掛車にもかかわらず、増結車は結構重宝されて生き延びました。

 

6.1062 (仏生山:1993年4月)

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 元阪神ジェットカー一族も1050形、1060形は琴電にて吊掛車にされてしまい、もうジェットカーとは呼べなくなってしまいました。これも年代的には京急1000系とは同年代の車両ですが、先行きが微妙でした。しかし、元阪神車は京急1000系の影響は受けず生き延びました。

 

7.1029+1030 (仏生山:1993年4月)

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 そして、危うかったのが元名鉄3700形だった1020形です。年代的には京急1000系とさほど変わりませんが、この車両は名鉄が旧型車の機器を寄せ集めて応急的に増備したニセ新車グループで、琴電もそれを承知で購入したいきさつがあります。

琴電では旧型車の老朽化が問題となり、一見新しそうで実は古い名鉄の3700形を1969年~1972年にかけて、やむなく16両(8編成)も購入しましたが、やっぱり時期をみて何とかしたかったようでした。

ところで、この1020形は1985年に1029+1030及び1986年に1031+1032がカルダン化されました。琴電はその頃から既存車のカルダン化を始めたようですが、その頃はカルダン車である元京急600系の増備が進められており、1020形のカルダン化はこの2編成だけに留まりました。結局、1020形はカルダン化された2編成のみが生き残りました。

第240話 1988年新潟交通:ああ雪国!!(その4)

新潟の冬もあと1ヵ月の辛抱と言ったところですが、この日は、この冬初めて雪晴れの撮影が叶いました。

 

1.モハ19 (灰方~燕:1988年2月)

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 3連は行ってしまいましたが、しばらく同じ場所で撮影を続けました。

この日はモハ19が燕側の区間運用に入っていました。

 

2.モハ19 (灰方~燕:1988年2月)

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写真を見て頂くと上空は晴天なのに下の方は薄い雲が垂れ込んで弥彦山も霞んで見えますが 、これは雪雲です。写真では白い粒子に見えますが雪が降っていました。不思議な天気です。

 

3.モハ24 (灰方~燕:1988年2月)

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 モハ24は燕~白山前間のロングラン運用に入っていました。やはり車体広告がないと落ち着いた写真になります。

 

4.モハ19 (燕~灰方:1988年2月)

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 同じような写真を何枚も撮っていましたが、へたに移動するとまた落とし穴に落ちてしまう恐れがあるのでやむを得ません。

 

5.モハ19 (燕~灰方:1988年2月)

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 昼頃になると天気が怪しくなってきました。冬の新潟の天気はコロコロ変わります。

 

6.モハ16 (燕~灰方:1988年2月)

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 完全に曇ってしまった頃にモハ16がやって来ました。もう天気の回復は見込めそうになかったので、この日はこれで引き上げました。

この日は待望だった雪晴れの3連が撮影でき、満足な日となりましたが、その後はもうチャンスはなく、3月になると気温が上がり雪も解けてしまいました。

第239話 1988年新潟交通:ああ雪国!!(その3)

新潟の冬は、いつも悪天候で撮影を断念して帰る日もしばしばありましたが、3月が近づくと意表をついて晴れる日もありました。

そして、時には待望の雪晴れ写真が撮れました。

 

1.モハ24 (灰方~燕:1988年2月)

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 天気予報では珍しく朝から晴れとのことで、この日も半信半疑、越後線に乗って朝から3連を狙いに行きました。

予報通り快晴となりました。こんな日は一冬に数えるほどしかありません。

 

2.モハ19 (燕~灰方:1988年2月)

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 秋に撮影した写真と全く同じ場所ですが、雪が積もると別世界です。広告電車なのが残念ですが、せっかくの雪晴れなので無駄にはできません。

「大通りニュータウン」しっかり撮影しました。

 

3.モハ14+クハ36+クハ46 (灰方~燕:1988年2月)

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 雪晴れの弥彦山をバックに待望の3連がやって来ました。

この1枚で苦難の新潟生活も帳消しです。しかし、この様な写真が撮れたのは一冬でこの日だけでした。なかなか現実は厳しかったです。

 

4.モハ14+クハ36+クハ46 (灰方~燕:1988年2月)

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 200mmのズームレンズを付け、息を止めて気合のハンド・ドライブで連写です。この3連は戻りの燕行きです。実質クハの回送みたいな列車でガラガラです。

 

5.クハ46+クハ36+・・・ (燕~灰方:1988年2月)

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 この日は土曜日でしたので、3連とは言うものの乗客は少なく、先頭のクハ46の1両だけに乗客を乗せていました。燕に到着後、クハ2両は月曜日の朝までお休みです。

 

6.クハ46+クハ36+モハ14 (燕~灰方:1988年2月)

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 3連の中間にはクハ36が連結されていました。何とか現役で頑張っていましたが、その後新潟交通は、乗客の減少に伴い余剰車となった、このクハ36とクハ37を1989年12月に廃車にしました。その頃から新潟交通には暗雲が漂って来た感じがし、やがて部分廃止へと向かいます。