ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第301話 番外編:趣味の原点(その2)

今回も番外編の続きです。

レールカーに続き、興味を持ったのが炭鉱の小型電機でした。これは、私が中学生時代に入手した、毎日新聞社の「軽便鉄道 郷愁の軌跡」という鉄道誌に掲載された明治鉱業平山坑の記事がきっかけでした。

当ブログ第101話で、TMSのコンペに出展した明治鉱業平山坑のスライスチーズについて若干触れましたが、実はそのスライスチーズより以前にも、全くのフリーで似たような凸電を製作していましたのでご紹介します。

 

1.炭鉱凸電のフリーモデル

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 この作品は、40年ほど前の高校2年生の時に作った作品です。

この凸電を製作した頃私は広島に住んでいましたが、当時広島には、「広島模型」という今は亡き広島では唯一の鉄道模型専門店がありました。そこの在庫処分で購入したLIMAのNゲージ用モーターを、なにげに手持ちの乗工社の運材台車に合体してみたら調子よく走ったので、これは凸電しかないだろうと、発作的に作ってしまった凸電です。ところで、この凸電が広島模型の店員さんにバカうけし、鉄道模型のコンペにでも出展したらどうかという話になり、ちょうど作品を募集していた、鉄模連の第1回作品展に冗談で応募したら佳作に入選してしまったという、いわく有りの車両です。1981年の「とれいん 8月号:No.80」、「TMS 9月号:No.406」にちょっとだけ写真が掲載されています。

 

2.炭鉱凸電のフリーモデル

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 この凸電は車体がプラ板製でゲージは9㎜です。最大車高6㎝程で、正露丸の箱にスッポリ入る大きさです。足回りは先に述べた乗工社の運材台車で、モーターとパンタがLIMAのNゲージ用です。パンタの櫓と折畳み式のフェンダーは真鍮線、メッシュ等を半田で組みました。そして前照灯は進行方向が点灯します。製作当時はまだLEDが入手できず、麦球です。

この凸電を明鉱平山にしなかった理由は、車体を動力装置に合わせて作ったためです。製作後、明鉱平山モドキと思われないようにフェンダーを追加しましたが、やはり黄色に塗ると明鉱平山モドキです。

この凸電に味を占めて、もう1両、運材台車流用の凸電を製作しましたが、そちらは地震で落下事故に遭い現在大破のまま眠っています。

 

3.スケール製作の明鉱平山のスライスチーズ

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ちなみに第101話でご紹介したスケール製作の明鉱平山です。この作品を作った頃はスケールにこだわり始めたころです。今思うと、私の原点である「変わった車輛30題」から志向がズレてきた感じがしますが・・・・。

 

4.三井三池炭鉱三川鉱のL電

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 このL電は半スケール?の作品です。この作品もTMSコンペに出展したものですが、明鉱平山のスライスチーズよりも古い1985年の製作です。

動力装置に乗工社のナロー用パワートラックを流用した関係で9㎜ゲージですが、この作品を製作可能にしたのが小型モーターであるキドマイティーⅢの登場でした。なにしろこの車両のキャブが異常に小さく、まともに搭載できるモーターがそれまで入手できませんでした。それでもキドマイティーⅢがそのまま使用できたわけではなく、かなり削って切り詰め、キャブの位置にあわせてパワートラックも後軸とモーター軸の間にアイドラーを追加するなどの細工を施しています。

 

5.幻のL電用パワートラック

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 その後スケール製作がエスカレートし、太平洋炭鉱の凸電の製作に入りましたが、ここで思い切って全軸駆動パワートラックの自作に踏み切りました。

凸電の方は何とかなりましたが、問題はL電でした。写真のパワートラックを自作しましたが、残念ながらモーターがキャブに収まりません。このパワートラックを活かすにはもっと小さいモーターが必要でしたが、当時はキドマイティーⅢより小さいモーターが入手できず、よって、このパワートラックはボツとなり、現在もこのままです。

結局、L電用にモーター位置を後退させて高さを低くしたパワートラックを新規製作し、とりあえずL電を完成させましたが、不本意ながらやはりオーバースケールになってしまいました。

 

6.オーバースケールの太平洋炭鉱6tL電

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しかし、今ならもっと小さいモーターが入手できるので、このお蔵入りして30年になるパワートラックを改修して何かに着手したいところです。

鉄道模型の製作から遠ざかって20年になりますが、そろそろ再開したい今日この頃です。しかし、20年間のブランクは想像以上に深刻で、自身の老化が一番悩ましい状況です。

第300話 番外編:趣味の原点

当ブログは今回300回の節目を迎えました。ここまで続くとは思いませんでしたが、微力ではありますが、これからも続きますので宜しくお願い致します。
さて、節目だった100回目、200回目は、番外編として通常とは趣の異なる内容を投稿しましたが、今回も番外編として私の趣味の原点について少々お付き合い願います。

以前にも話題に触れましたが、私の趣味はもともと鉄道模型作りでした。その原点は小学生時代にまで遡ります。

ご年配のモデラ―の方ならご存知かと思いますが、機芸出版社の「変わった車輛30題」という鉄道模型誌がすべての始まりでした。

 

1.「変わった車輛30題」の表紙

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その「変わった車輛30題」で特に衝撃を受けたのが、中村福男さんの「岸和田軽便鉄道」の偉大なるゲテモノ車両、高井薫平さんの「なめとこ軽便鉄道」のひょっとこ単端、和久田恵一さんのミニ凸電などでした。

 

2.「変わった車輛30題」の岸和田軽便鉄道の記事

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機芸出版さん申し訳ございませんが、古い書籍なのでお持ちでない方も多いと思いますので、記事を転載させて頂きました。
 この記事に刺激され、岸和田軽便鉄道のM-2号貨物電車(この記事の右上の得体の知れない車両)を中学1年の時に真似て造ったのが、私の鉄道模型デビュー作だったと思いますが、残念ながら当時の作品は現存しません。

それ以来、ワークカーやレールカーにのめり込んでしまい、やがて軽便車両や炭鉱の小型電機へと模型製作のバリエーションが広がりました。

「変わった車輛30題」の時代は、まだスクラッチビルドの時代でした。現在のように軽便模型の既製品はほとんどなく、流用できるパーツもなく、素材や工具すらほとんどなかった時代で、なにより現在のようなネット社会ではなく、参考図書や情報など皆無だったはずです。なにをするにも手間暇かけなければならず、苦労が絶えなかった時代でしたが、その分、スケールにとらわれない発想の自由度や夢がありました。

その頃のモデラ―の方々は趣味の域を超えて、皆さん職人の域に達していらっしゃったのでは・・・。

そんな職人さんに憧れて、作ったのが以下の作品でした。

 

3.プライベート・ワークカー(冬バージョン)

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このワークカーは、今から40数年前の中学1年の時の作品です。
一応想定ではガソリンエンジンを付けた一人乗り!自家用作業車と言ったところです。1/80HOのサイズで、9㎜ゲージですが、全長4㎝足らずです。この車両はプロトタイプはなく全くのフリーです。欲張って着脱式の雪掻き付きですが、実物だったら、この軽トラモドキで果たして除雪の用を成すのかわかりません?

 

4.プライベート・ワークカー(夏バージョン).

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雪掻きを外すとこんな感じです。未熟な造作ですが、ほど良い老朽化ぶりです。車体はペーパーとプラ板のハイブリッド?で、40年以上放置していたので、かなりくたびれています。荷台屋根のキャンバスもボロボロです。

 

5.プライベート・ワークカー(商売道具満載のリア部)

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後部にはアームが旋回する作業灯も付いています。走行中に旋回して建築限界を突破しないよう要注意です。意味不明な機材がいっぱい載っていますが、まともな作業具は何一つ載っていません。ドラムに巻かれた電線?やとぐろを巻いた太いホースは何のためなのか作った本人もわかりません。

昔よく近所に出没した工務店の軽トラ(移動作業車)がモデルです。時の流れか、欠落した部品もありますが、何が付いていたのか記憶もありません。

さすがに中学1年生の作品なので、幼稚っぽい出来で非動力ですが、機会があったら、こいつをしっかりトレースして、金属製で動力化してみようと思います。

 

6.なめとこ風単端

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 これは完全に「なめとこ軽便」のパクリですが、高校1年の時の作品で、サイズは1/80の9㎜ゲージ。車体色は当社標準色、車体はプラ板製です。

側窓はガラスも入っていませんが、なぜか前面窓だけガラス入りの回転窓になっています。台車は「だるまや」のパーツ。モーターは模型界で一世を風靡したキャラメルモーターです。このモーターは急発進・急停車・高速回転の三拍子揃った少々難ありでしたが、当時はこれしかなかったと言うのが本音です。それでも小型で低価格が魅力でした。

 

7.真面目な " ひょっとこ単端 "

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鉄道ファン誌に連載された、湯口徹さんの「レールバスものがたり」に刺激を受けて、大学1年の時にスケールでチャレンジした真面目な " ひょっとこ単端 " です。この作品もサイズは1/80の9㎜ゲージ。プラ板製で、足回りは前作の単端と同じ構成です。この作品のこだわりは、日車製単端の優美な曲線です。前作の「なめとこ風単端」の経験を活かし、野性的感覚でプラ板の曲げ加工や削り出しに専念しましたが、この車両を製作した頃は瞬間接着剤が普及し始めた頃でこの様な工作も楽になりました。Aフォードのボンネットもそれらしくでっち上げました。ドアの手すりと取っ手がまだ付いていません。よって未完成です。

 

8.ラテン系グースモドキ

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 根室拓殖鉄道の銀龍号だったか?何かで見た海外のレールカーだったか?全く記憶がありませんが、何を思ったのか、こんなレールカーの模型も作っていました。造作のせいか塗装のせいか、おもちゃっぽくなってしまいました。

車体はプラ板製ですが、客室の腰板は筋目入りのアルミ箔を貼り付けています。少々塗装が剥げて地金が見えています。たしか根室拓殖のかもめ号はジュラルミン製だったかと思いますが、それを意識したのかも?

キャブの屋根上は荷台です。客室の妻窓から荷物を載せる構想です。

キャブ両サイドの三角形の小窓がいかにも手抜きっぽく、ヒステリックな表情ですが、ここに外開きの開閉窓を付ける予定でした。要は未完成です。

ちなみにこの車両はキャブと客室が独立しており、それぞれ外すことが出来ます。飽きたら載せ替えるつもりでしたが、もう40年近くこのままです。

 

 

 

第299話 1986年日本セメント上磯:突然の工場見学

1986年3月の北海道旅行の最後に、気になっていた上磯の日本セメント専用線に出向きました。そこは、古くから2軸の古典凸型電機がいたことで有名で、これを見るのが目的でした。

この路線は、現在の道南いさりび鉄道(旧津軽海峡線上磯駅の近くにあるセメント工場から、V字に2路線が鉱山に向けて敷設されていました。石灰石鉱山へ向かう峩朗(がろう)本線という6.3kmの路線と、もう一方は粘土鉱山に向かう万太郎沢線という3.7kmの路線で、どちらもDC600Vの電化路線でした。

1986年当時はすでに峩朗本線は石灰石輸送をベルトコンベア化されており、鉄道の使用は副原料のみになっており、列車本数は峩朗本線は5往復程度、万太郎沢線は8往復程度運行されていました。

しかし、車庫はセメント工場内にあるため勝手に入れず、とりあえず正門の守衛さんに車両の撮影許可をお願いしました。大変親切な守衛さんで、工場内のあちこちに電話をかけてもらい、しばらくすると総務関係の方が来られて、突然の訪問にもかかわらず、応接室に通して頂き、せっかく東京から来たのだからと、まずは会社案内のビデオを見せてもらい、お茶までご馳走になり、なんと車で工場見学となりました。

 

1.10号機、9号機 (上磯工場:1986年3月)

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広大な工場のセメントプラントを1時間ほどかけて見せてもらい、一応工学系の学生だった私にとっては大変興味深い接待を受けた感じでしたが、 なんだか、何をしに来たのかわからなくなってきました。そして、見学の終盤?と思えるタイミングで、意を決して、電気機関車を見せてもらえないかお願いしたところ、今日は走っていないとのことで、写真だけ撮らせてもらうことになりました。

 

2.10号機 (上磯工場:1986年3月)

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 車庫には電機が集結していましたが、一部は鉱山に上がっており、不在とのことで、お目当ての凸電5号機も車庫にいませんでした。聞くと5号機はすでにほとんど使用されていないそうで、1両だけ峩朗本線の鉱山側で入換用に待機しているとのことでした。

鉱山は車庫から結構距離があり、しかも積雪があったのでこの日は5号機を見ることができませんでした。

 

3.9号機 (上磯工場:1986年3月)

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 車庫には主力機の9号、10号が休息していました。この車両は東洋電機の電機品を使用して東洋工機で製造された機関車で、デッキ付きの箱型35t機です。電制付きで耐寒仕様車です。

この専用線はいわゆる地方鉄道ではなく、当時の通産省管轄の専用鉄道でしたが、車両は一般鉄道に遜色ない機関車でした。

 

4.7号機 (上磯工場:1986年3月)

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 7号機は日立製の凸型25t機です。戦時設計の簡素なデザインですが、運転台は両方向にそれぞれ設置されていました。当初は鉱石列車を牽引していましたが、9号、10号の増備により国鉄との貨車受け渡しの入換機となりました。しかし、1985年に国鉄の貨物輸送がトラックに変わり、以降は失業状態でした。

 

5.6号機 (上磯工場:1986年3月)

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 6号機は東洋電機の電機品を使用して日本車輌で製造された戦前製の凸型25t機です。

キャブの出入り口が妻面にあるためボンネットが側に寄った形態です。運転台が両方向にそれぞれあり、回生ブレーキ、空気ブレーキを備えた本格的な電機機関車でした。

 

6.6号機 (上磯工場:1986年3月)

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電気機関車の車歴)

・5号機:1923年汽車会社(東洋電機)製

・6号機:1935年日本車輌(東洋電機)製

・7号機:1948年日立製作所

・8号機:1952年日本車輌(東洋電機)製

・9号機:1959年東洋電機製

・10号機:1961年東洋電機製

この日、車庫にいなかったのは、5号機と8号機でした。

5号機は、電磁吸着ブレーキ付きの珍しい車両で、当初同型車が5両在籍していました。しかし、ボギー式の大型電機が入線して入換用に転じ、徐々に廃車となり、1986年時点では5号機のみとなってしまいました。

8号機も凸型25t機で、性能的には6号機同等でしたが、形態は丸味のある7号機と言った感じの車両でした。

 

7.鋼製人車 (上磯工場:1986年3月)

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 そして、車庫の片隅で雪に埋もれた奇妙な倉庫を発見し、近づいてみると客車でした。

この専用線では、かつて鉱山への通勤輸送も行っていたそうで、そのころの客車が放置されていました。この客車は1963年頃まで使用されていたそうで、他にも木造車や大小様々な客車がいたそうです。積雪が多く、そばまで行けなかったので、車号など確認できませんでしたが、おそらく1957年製の201号という鋼製2軸車のようです。

 

8.1号機の模型

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 この日はお目当ての5号機が不在で残念でしたが、何とか専用線の他の電機を撮影することができました。5号機のリベンジをいつかは晴らそうと思っていましたが、この路線は1989年に廃止となってしまい、リベンジできませんでした。

そんなわけで、5号機と同型の1号機の模型写真をご覧いただきます。この模型は安達製作所の1/80HOゲージです。20年以上前に天賞堂でキットを購入して組んだものです。この機関車はボンネット上のベルがチャームポイントです。

 

廃止後、5号機以外の車両はすべて廃車解体されてしまいました。なお、5号機と同型の2号機は、一足先に廃車され生まれ故郷の東洋電機に返還されて、現在も東洋電機の横浜製作所で保存されています。そして、5号機も上磯町で保存されています。

ところで、この訪問のあとで、工場案内をして頂いた方から、機関車に関する資料の青焼きを送って頂きました。突然の訪問者にここまで親切にしていただき感激以外のなにものでもありません。その時は、お礼に7号機の写真を6ツ切に引き伸ばしてお送りしました。突然の訪問にもかかわらず親切に工場案内頂いたことは今でも鮮明に覚えています。もうずいぶん月日が流れてしまいましたが、改めまして、この場をお借りして御礼致します。

第298話 1987年筑波:最後の日々(その7)

話しは前後しますが、常磐線沿線のローカル私鉄早回り3日目の朝は真壁からスタートしました。

真壁には筑波鉄道気動車駐泊設備があり、真壁始発の列車がありました。昨晩は真壁に泊まったので、早朝から気動車の出庫を見届けました。

 

1.キハ503、キハ821 (真壁:1987年3月) 

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 真壁も結構大きい駅でした。駐泊設備があったので、機関区だった真鍋とよく間違えられましたが、真壁には検修設備はありませんでした。

 

2.キハ301+キハ821、キハ503 (真壁:1987年3月) 

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 真壁は筑波鉄道の沿線では比較的大きな街でした。しかし、筑波鉄道の筑波以北は極端に輸送需要が低く、この真壁から岩瀬方面はほとんど利用客がなかった様に思えます。筑波鉄道は路線が長いので、最初に廃止の噂を聞いた時に、恐らく筑波以北のみ廃止かと思いましたが、まさか全線廃止だとは、ずいぶん思い切った決断のように思えました。

 

3.キハ761 (紫尾~常陸桃山:1987年3月)

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 古墳の脇をキハ761が通過します。この辺りは沿道から少し離れており、人家もなく不思議な雰囲気の場所でした。

この古墳は有名なのかわかりませんが、一応公園風に整備されており、小高い中央部は列車の撮影ポイントになっていました。

 

4.キハ761 (紫尾~常陸桃山:1987年3月)

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 古墳を抜けると再び田園地帯に戻ります。この辺りは常総線の下妻あたりに似た単調な景色が続きました。平坦なので気動車は快調に通り過ぎて行きました。

 

5.キハ762 (上大島:1987年3月) 

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 上大島に入線する土浦行のキハ762です。この駅は田圃に囲まれた交換駅で、貨物側線もある結構立派な駅でした。しかし、晩年は交換する列車もない無人駅になっていました。

 

6.キハ504 (酒寄~紫尾:1987年3月) 

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 冬枯れた田園地帯をキハ504がやって来ました。もう1か月もすれば田植えが始まりますが、その頃にはもう列車は来ません。

 

7.キハ462(キハ048)他 (真壁:1987年2月) 

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 最後に、キハ048の写真です。これは誰かの粋な悪戯でしょうか?

この車両、正確には元キハ048です。

さて、3日間の撮影旅行もあっという間でした。なにより筑波鉄道の全線を始めてまともに見ることができました。これで廃止になっても悔いは残りませんが、このあともう1回だけ最後の悪あがきに訪れますが、それはまた改めて報告します。

第297話 1987年筑波:最後の日々(その6)

この撮影では、できるだけ多くの場所で撮影を行いましたが、改めて写真を見ると、どの写真も同じような風景に見えます。それだけ沿線風景に変化がないと言うことです。

 

1.キハ504 (雨引~岩瀬:1987年3月)

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 筑波鉄道北辺の雨引~岩瀬間の写真です。この駅間は4.5kmもあり、とても撮影のために歩く気がしませんでしたが、この日は車だったのでなんてことありませんでした。

 

2.キハ504 (岩瀬~雨引:1987年3月)

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 そして、振り向くと筑波山です。筑波山がよいアクセントになります。やはり筑波山あっての筑波鉄道でした。

 

3.キハ821 (常陸小田~常陸北条:1987年3月)

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 筑波以北の撮影も飽きてしまい、気が付けばいつもの場所に戻ってしまいました。

 

4.キハ821 (常陸北条:1987年3月)

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 常陸北条は貨物側線もある大きな駅でした。

キハ821が写っていますが、なんだか往年の国鉄ローカル線そのものです。

 

5.キハ821 (上大島:1987年3月)

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この日はキハ821とよく遭遇しました。これが国鉄だったらキハ10形の写真など撮るはずありませんが、筑波のキハ821は塗装のせいか私鉄っぽさがあり、抵抗なく撮影できました。

茨城交通にも同型のキハ11形が3両いましたが、やはりこの車両に白装束は似合いません。

こちらの車両は、とても落ち着いて見えました。 

 

6.キハ504 (常陸小田~常陸北条:1987年3月)

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筑波鉄道が廃止になってもキハ500形はどこかで生き延びるだろうと思っていました。

廃止後は一旦常総線に引き取られましたが、再起しませんでした。やはり常総線では18mの2扉車は歓迎されなかったようです。しかし、常総線はダメでも鹿島鉄道あたりは、どうだったのでしょうか?湘南型気動車も結構老朽化していましたし、元国鉄の機械式気動車だったキハ600形などは、調子がよかったとは言え、戦前生まれの車両でしたが・・・・。

 

7.キハ503 (筑波~常陸北条:1987年3月)

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 この時の撮影では、まださよならムードはなく、野次馬もまったくいませんでした。それだけに、本当に廃止になってしまうのか?と言った感じでしたが、落ち着いて日常的な最後の撮影ができたものと思います。

第296話 1987年筑波:最後の日々(その5)

今回の常磐線沿線ローカル私鉄早回りは、3日間かけて行いました。

そのうち、筑波鉄道には初日と3日目の訪問となりました。初日は天気がスッキリしませんでしたが、3日目は何とか晴れました。

 

1.キハ821+キハ301 (東飯田~樺穂:1987年3月)

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 2日目は日立電鉄茨城交通鹿島鉄道をまわり、その晩は真壁の古風な旅館に泊まりました。そして3日目は早朝から筑波~岩瀬間を中心に撮影を行いました。

 

2.キハ301+キハ821 (樺穂~東飯田:1987年3月)

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 この日は、キハ301(注1)とキハ821(注2)がコンビを組んでいました。どちらの車両も元国鉄出身で、キハ821は1974年に国鉄を廃車になり転入してきました。キハ301は1986年7月に転入してきたばかりです。

 

3.キハ301+キハ821 (雨引~岩瀬:1987年3月)

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 もしかして、国鉄時代にもこんな編成があったのかも知れませんが、まさか天下り先でコンビを組むとは、この2両はかなりの腐れ縁です。

(注1)キハ301の車歴

・筑波キハ301←国鉄キハ3016:1964年日本車輌

(注2)キハ821の車歴
・筑波キハ821←国鉄キハ1047:1956年帝国車輌製

 

4.キハ761 (常陸桃山~紫尾:1987年3月)

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 この日は、いままでほとんど撮影したことがなかった筑波以北で撮影を行いました。

筑波以北も、延々と田園地帯が続いていましたが、この時期の沿線風景は見渡す限り荒野の様でした。キハ761は釧路の雄別鉄道からやって来た車両です。雄別時代は広大な釧路湿原を走っていた車両ですが、釧路でもこんな感じだったのでしょうか?

 

5.キハ761 (常陸桃山~紫尾:1987年3月)

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 この日も元雄別の車両は元気に走っていました。

沿線には我々以外に筑波鉄道の撮影する人もおらず、平静そのものでした。本当に半月後に廃止になるとは思えませんでした。

 

6.キハ761 (紫尾~常陸桃山:1987年3月)

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 この一画は、他の場所とは少し雰囲気が異なり、畑の中に小高い丘がありました。ここは古墳があったところです。

 

7.キハ504 (筑波~上大島:1987年3月)

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筑波鉄道の西側は山ひとつ見えない関東平野です。筑波鉄道関東鉄道常総線のように、常磐線水戸線を結ぶ南北の路線は古くから存在していましたが、なぜか東西を短絡する路線は、つくばエクスプレスが開通するまで存在せず、筑波鉄道がなくなったあとは、真壁あたりから都心に出向くには高速バスが主流になっていました。私も仕事の関係で筑波学園都市へ何度か出張しましたが、いつも高速バスでした。

第295話 1987年筑波:最後の日々(その4)

路線廃止まであと半月でしたが、真鍋機関区では現役車両はいつもと変わらず、坦々と整備されていました。

 

1.キハ503 (真鍋:1987年3月)

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 キハ500形は、廃止後もどこかで生き延びるだろうと思っていましたが、結局は他の車両同様に廃車解体されました。

 

2.キハ504 (真鍋:1987年3月)

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この頃、関東鉄道常総線では老朽化した車両の取替に悩んでいた時期で、筑波鉄道の廃止後に筑波のキハ500形を常総線に引き取る動きがありました。しかし、再起しなかった理由は、おそらく通勤路線の常総線では、18m2扉車をもらってもどうしようもなかったからだと思います。実際、廃止後筑波から常総線に転じて再起したのは、通勤車仕様のキハ301だけでした。

 

3.キハ462 (真鍋:1987年3月)

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 キハ462は保存が決まっていました。よって、これ以上朽ちないようにタッチアップ塗装がなされていました。この車両は元国鉄キハ41000形でしたが、筑波のキハ462は比較的原型を留めていたことが保存の決め手になったと思います。一時は全国各地に放出された元国鉄キハ41000形ですが、この時点で車籍があったのは、気動車として残っていた片上鉄道キハ303と、電車化された新潟交通クハ37、蒲原鉄道クハ10くらいでした。いずれも改造により原型を留めていませんでした。

 

4.真鍋機関区全景 キハ462、キハ511、キハ761他 (真鍋:1987年3月)

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出身の異なる強者が集う真鍋機関区でしたが、この光景を見られるのもあと半月でした。

 

5.キハ761 (真鍋:1987年3月)

 

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 改めて、元雄別のキハ760形です。

これら北海道の炭鉱鉄道からやって来た車両は関東鉄道にとっては、まさに救世主だったと思います。車齢も比較的新しく、ベースが国鉄気動車仕様だったので、入線にあたり特に改造も必要なく、なんら問題もなく旧型気動車に置き替わりました。

 

6.キハ762 (真鍋:1987年3月)

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 そういう意味では、見た目はつまらない車両ですが、非電化ローカル私鉄にとって功績の大きい車両ではなかったかと思います。