ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第375話 1989年三井三池:三川坑のナロー(その4)

三川坑の土場に続いて、三池鉱業所の構内にある三川坑の拠点を訪問しました。

 

1.三川坑斜坑列車 (三池鉱業所三川坑:1989年9月)

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 ここは三川坑の斜坑列車の乗降場のようです。側線に列車が1本留置されていました。

斜坑列車はいわゆるケーブルカーです。先頭車には恐ろしく頑丈な鎖が写っていますが、これをウインチのケーブルにつないで斜坑を昇降します。

 

2.三川坑斜坑列車 (三池鉱業所三川坑1989年9月)

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 斜坑列車の先頭車はもしもの時のブレーキ車で救急車と呼ばれていました。

万一、ワイヤーが切れた時は、この救急車に装備された強靭な爪が軌道の枕木に引っ掛かり、列車を止めます。実際に作動したことがあるのか?

パンタグラフが乗っていますが、坑道内には架線があったようで、この列車の照明などの制御電源用と思われます。ちなみにケーブルカーなので動力はありません。

 

3.三川坑斜坑列車 (三池鉱業所三川坑1989年9月)

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 斜坑列車の最後部というか、こちらが入坑時の先頭となる前方監視用の車掌車です。

連結されている車両は坑内作業員用のいわゆる人車ですが、斜坑用の車両なので、坑道の勾配に併せて座席も傾いています。

 

4.三川坑斜坑用タンク車 (三池鉱業所三川坑1989年9月)

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 構内で見かけたタンク車です。これも斜坑に併せて傾いています。

 

5.三川坑斜坑用人車 (三池鉱業所三川坑1989年9月)

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 軌道の外に放置されていた人車です。後ろの緑色の車両はとりあえず人車の形態をしていますが、手前の台車風の車両?は向い合わせに乗るオープンタイプの様です。

 

6.三川坑坑外運搬軌道のノッポ電機のHO模型

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 さて、今回はノッポ機関車を見ることができませんでしたが、どんな車両だったのか模型でご紹介します。このL型の奇妙な模型車両が、かつて三川坑の坑外資材運搬軌道にいたノッポ機関車です。こんなのが走っていました。

今回ご紹介した黄色い北陸重機のDLが全てこのノッポ機関車だったわけです。

 

7.三川坑坑外運搬軌道のノッポ電機のHO模型

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 ところでこの模型は、第301話でもご紹介しましたが、TMS№473,482に製作記事等をご紹介させて頂いたものです。

35年ほど前に、現物を見ることができない欲求から模型化してしまいました。

一応写真から寸法を割り出した1/80のスケールモデルのつもりですが、動力ユニットが当時の乗工社パワートラックを流用(アイドラーギヤを追加)したためゲージは9㎜です。実物の色は赤い部分がオレンジ色でした。

 

その後、三池炭鉱には1993年にも訪問しています。その際の様子は別途報告しますが、1993年時点では三川坑の坑外運搬軌道は、三池鉱業所構内から外側が廃止されてしまい、諏訪川から先の車庫や土場は整地されて跡形もなくなっていました。しかも、三池鉱業所内は立入禁止となっており、北陸重機のDLすら撮影できませんでした。

 

第374話 1989年三井三池:三川坑のナロー(その3)

三川坑の土場を少し散策してみました。

散策と言っても、この土場は広く、はるか有明海の埋め立て地の先まで続いているようでしたが、迷子になりそうなので車庫の周辺のみです。

 

1.北陸重機製6tDL No.5 (三川坑土場:1989年9月)

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 機関車の向こう側が有明海の埋め立て地です。この埋め立て地はズリ捨て場が広がったものです。埋め立てなのでボタ山が見当たりません。写真には黒い山の様なものが写っていますが、貯炭場の様です。

 

2.坑外運搬軌道諏訪川鉄橋 (三川坑土場:1989年9月)

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 諏訪川に架かる鉄橋です。通称ガタガタ橋と呼ばれていたそうで、左側が人道橋になっていました。この橋の前方は三池鉱業所三川坑で軌道はその構内に続いていました。

 

3.坑外運搬軌道埋め立て地方向に続く線路 (三川坑土場:1989年9月)

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この線路はズリ捨てに使用されていたのか、 埋め立て地に続く線路です。架線柱が残っており、ここもかつては電化されていました。この先がどうなっていたのか興味深々ですが、とりあえずここまでです。

 

4.貯木場 (三川坑土場:1989年9月)

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 貯木場の風景です。坑木が山積さておりまだ活気が伺えました。

前方に見えるのは、諏訪川の対岸に位置する三池鉱業所の選炭場です。その先には九州電力の火力発電所の煙突も見えます。

 

5.貯木場 (三川坑土場:1989年9月)

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 貯木場には坑木の他に多数の鉱車も留置されていました。

 

6.坑外運搬軌道土場 (三川坑土場:1989年9月)

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再び土場の事務所と車庫です。右側のテントの様な建物が検修庫の様です。No.8号機がピットインしていました。

 

7.坑外運搬軌道土場 (三川坑土場:1989年9月)

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 車庫線の先端にはDLの廃車体が留置されていました。DLの廃車体以外にも、なんだかわけのわからない機材や廃材が転がっており、この雑然とした雰囲気がいかにも炭鉱の端っこを物語っています。

 

8.三池炭鉱地形図(引用:国土地理院1/25000地形図「大牟田」昭和53年編発行)

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ここで、今回ご紹介した三川坑の土場の場所について、当時の地図で説明します。この地図は、大牟田市の三池港周辺です。地図の右上が大牟田駅で、地図の左半分が三池炭鉱の中核となる三池港です。地図の中央付近に小川町の標記がありますが、その上側が広大な埋立地になっており、そこに細線で軌道が標記されています。軌道は3本分岐していますがこの分岐あたりが土場の車庫です。実際はもっと複雑な線路配置ですが、この地図ではかなり簡略化されています。そしてこの軌道は諏訪川を渡って左側の西港町へ続いていますが、この西港町が三池炭鉱の構内となっており、三池鉄道三池港駅もこのエリアに記載されています。なお、現在土場の辺りは公園になっているそうです。

 

第373話 1989年三井三池:三川坑のナロー(その2)

三池炭鉱三川坑の坑外運搬軌道の存在を知ったのは、私のバイブルである「知られざるナローたち(丸善出版)」に掲載された記事でした。

1981年だったと思いますが、その頃の坑外運搬軌道にはまだノッポ電機が活躍していました。

 

1.北陸重機製6tDL No.5 (三川坑土場:1989年9月)

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 当時私は高校生でしたが、その記事のノッポ電機に衝撃を受け、一度は現物を見たいと思いつつ、8年も歳月が流れてしまい、とうとう現物を見ることが出来ないまま、今回の訪問となりました。

 

2.北陸重機製6tDL No.5 (三川坑土場:1989年9月)

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 しかし、ノッポ電機はいませんでしたが、土場の光景は「知られざるナローたち」で見たままで、初めてなのになつかしさすら感じました。

 

3.北陸重機製6tDL No.6 (三川坑土場:1989年9月)

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 北陸重機のDLは、大変洗練されたスタイルをしていました。

窓枠にアルミサッシを使用するなど、時期的に立山砂防の機関車にも通じる設計ですが、バッファー付きのピン・リンク式連結器が炭鉱の車両であることを感じさせます。

この機関車の特徴は、ボンネット上に露出した排気管とマフラーでしょうか。

いかにも建設機械のようですが、炭鉱の車両はこのくらい建設機械ぽい方が様になります。

 

4.北陸重機製6tDL No.6 (三川坑土場:1989年9月)

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ここは、土場の詰所脇の線路です。

炭鉱とは思えない、なんとなく民家の軒先の様で、ジオラマにしたい情景が展開していました。

 

5.北陸重機製6tDL No.6、No.7(三川坑土場:1989年9月)

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 以前はここにノッポ電機が止まっていました。

「知られざるナローたち」にはその光景が掲載されています。

 

6.土場の詰所と車庫全景 (三川坑土場:1989年9月)

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 「知られざるナローたち」に掲載された写真と同じカットで撮影してみました。

右側の線路は、まるで乗降場のようです。架線を外された架線柱がむなしく林立していました。

 

7.「知られざるナローたち(丸善出版)」より引用

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せっかくなので、私のバイブルである「知られざるナローたち」の該当ページを転載させて頂きました。丸善出版さん申し訳ありませんが、ご了承お願い致します。

本当は、この時代に訪問したかったのですが・・・・。

 

第372話 1989年三井三池:三川坑のナロー

つい最近の話題ですが、かつて九州の大牟田にあった三池鉄道の支線で、三池鉄道亡き後も生き残っていた三井化学専用線が廃止されました。これによって、三池炭鉱に関係した大牟田市の鉄道は、初代三池炭鉱専用鉄道開業から130年もの歴史に幕を閉じました。

私が三池炭鉱を最後に訪問したのは1993年でした。その時点で炭鉱はかなり縮小されており、1997年3月の閉山と共に旧三池鉄道も廃止されました。それから23年間も一部の車両は三井化学専用線で活躍し続けていました。令和の時代にこれらの車両が現役であったことは、全く軌跡的です。しかし、生き続けた車両が活躍する姿を、私は見ることが出来ず大変残念です。

 

さて、第259話~第261話で1989年当時の三池炭鉱専用鉄道の様子を報告しましたが、その時に三川坑にあったナローゲージの坑外資材運搬軌道も撮影していましたので、今回お伝えします。

この坑外軌道は、1984年頃までは電化されておりL型の奇妙なノッポ電機が活躍していましたが、私が訪問した時には既に非電化となっており、お目当てのノッポ電機を見ることはできませんでした。

そして、三池炭鉱自体も縮小ムードで、この坑外軌道も末期状況でした。

 

1.坑外軌道の廃車DL群 (三川坑土場:1989年9月)

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 この坑外軌道は、三川坑の資材運搬のために敷設された路線です。軌間は610㎜のナローゲージで、当然三川坑の坑道にもつながっていました。路線は三池鉱業所の三川坑から一旦三池鉱業所の構内を出て、諏訪川を越えたところにあった広大な土場まで続いており、土場にはささやかな機関車のねぐらもありました。

 

2.北陸重機製6tDL No.5 (三川坑土場:1989年9月)

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1989年当時の主力機関車は、1985年~1986年に導入された北陸重機製の6tDL(注1)でした。

この時点、北陸重機製のDLは4両在籍していましたが、その後これと同型車が三池鉱の資材運搬軌道にも3両増備されました。

 

3.土場の車庫に集う北陸重機製6tDL No.5他 (三川坑土場:1989年9月)

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 (注1)北陸重機製6tDLの車歴

・三池三川No.5:1985年北陸重機製

・三池三川No.6~8:1986年北陸重機製

 

4.廃車DL No.1 (三川坑土場:1989年9月)

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 土場の外れに、3両の見慣れない機関車が留置されていました。これらは、この軌道が非電化になった直後に導入された機関車で、北陸重機製の新車が導入されて廃車になったものでした。

これらの機関車は、素性がイマイチはっきりしませんが、文献によると、山口県宇部興産山陽無煙鉱業所(宇部炭鉱)で使用されていた中古車の様です。

No.1(注2)は、1973年ニチユ製とのことですが、この古風な機関車が1973年製とも思えません。岡本憲之さんの「ニチユ機関車図鑑(イカロス出版)」によれば、元々得体の知れない機関車の様で、これをニチユが1973年に整備して自社製番を付けたとのことです。

規模の大きな炭鉱では、お抱えの地元鉄工所や自社の機械整備工場などで、この程度の機関車なら作ってしまったり、原型を留めないほど改造してしまうケースもあるので、実態がなかなか把握できません。

 

5.廃車DL No.4 (三川坑土場:1989年9月)

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 No.4(注2)もニチユ製ですが、こちらは1961年製造で素性がはっきりしています。

 

6.廃車DLNo.2  (三川坑土場:1989年9月)

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 No.2 (注2)は、これもニチユ製?とのことですが、メーカー製番の記録がないようで、実態が不明です。

(注2)宇部炭鉱から転入した機関車の車歴

・ 三池三川No.1←宇部 車号?:1973年ニチユ製(種車の製造年、製造元は不明)

・ 三池三川No.2←宇部 車号?:?年ニチユ製?(車歴不明)

・ 三池三川No.4←宇部 車号?:1961年ニチユ

 

7.北陸重機製6tDL No.7 (三川坑土場:1989年9月)

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 土場にはまだ、架線柱が残っていました。しかし、ノッポ機関車は既に跡形もなく大変残念でした。

 

第371話 1989年大井川:SLではなく電車!

つい先日、コロナウイルス感染拡大の影響で、大井川鉄道が9割減の列車運行に追い込まれたというニュースを見ました。SLが走らなければ成り立たない程、本来の地域輸送がなくなってしまったとは、悲しい現実です。

さて、第262話~第266話では、アプト化される直前の大井川鉄道井川線の様子を報告しましたが、その時に大井川本線の電車も少々撮影していたので、今回ご覧いただきます。

毎度のことですが、今回もSLの写真は1枚もありません。

 

1.モハ311+クハ511 (崎平~千頭:1989年12月)

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 この写真は、1989年の大晦日に井川へ向かう途中に撮影したものです。

天気が良かったので、千頭から歩いて戻り、大井川第4橋梁で撮影しました。やって来たのは元西武361系のモハ311+クハ511です。古風な車体ですが車内は初代西武特急レッドアロー号の座席を転用し、なんとか観光にも兼用されていました。

 

 

2.モハ311+クハ511 (崎平~千頭:1989年12月)

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 せっかくなので連写しました。この日は大晦日ですが、観光シーズンも終わったこんな山奥に来る人はほとんどいません。しかし、SLは走るみたいでしたが私には関係はなく、とっとと井川線を目指しました。

 

3.E102ほか (新金谷:1989年12月)

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 この日の朝、新金谷で留置車両を少し撮影しました。車庫内にはSL牽引用の旧客と補機の電気機関車が待機していました。煤けた黒と焦げ茶色。これが蒸気時代の鉄道の色です。ここはカラーよりも白黒の方が伝わるものがある様な気がします。

焦げ茶色の電気機関車と旧客の組合せも結構渋いですが、つい最近、故障したSLの代走でEL列車が実現したとのことで、ようやくSLの黒子も陽の目を見るチャンスがやって来たようです。

 

4.モハ6011+クハ6061 (千頭:1990年1月)

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 ここからは井川線からの帰り道で、年が明けて1990年です。

千頭駅には田舎のゴージャス電車である、元北陸鉄道出身のモハ6011+クハ6061が客待ちをしていました。西陽を浴びてギラギラ光っていました。この車両は後年に補助灯が2灯追加されますが、改造前の原型の綺麗な姿を撮影できました。

 

5.保存車モハ301 (千頭:1990年1月)

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 これまた、記念物級の車両が構内にいました。

すでに運用を離脱して久しく、実態は元院電にまで遡る車両で、1972年に名義をモハ3829に譲ったモハ301(注1)の成れの果てです。この時点では一応、大井川鉄道の鉄道記念物として保存されていました。

しかし、その後はJR東海に引き取られて現在はリニア・鉄道館で保存されています。

(注1)モハ301の車歴

大井川モハ301←国鉄クデハ307←三信デ307←国鉄モハ1035←国鉄デハ33509:1922年汽車会社製

 

6.3000系5連 (千頭:1990年1月)

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 千頭の構内には、哀れな小田急SSE車がいました。

まだ廃車にはなっていませんでしたが、もう営業に出ることはなく、ご覧のように朽ち始めていました。結局、1993年3月に廃車となりましたが、本当に哀れです!!

 この時、大井川鉄道の電車も、そろそろ新しいネタが欲しいところでしたが、まさか東急7000形など導入しないか心配でした。結局、東急7000形は導入されませんでしたが、24年後の2014年に廃止となった十和田電鉄から元東急7200形を2両購入し、間接的ではありましたが、東急の車両が大井川にも導入されました。

 

 

第370話 1988年弘南(大鰐):花より電車!!(その5)

五月晴れの津軽平野は爽やかでした。午後はモハ側の先頭を撮影するため、松木平~津軽大沢間に移動しました。

この区間は平坦な農村地帯で、水田の他にりんご畑が点在しています。障害物は一切なく、いつ4連が来ても十分に撮影できる場所でした。

 

1.モハ2252+クハ1266 (松木平~津軽大沢:1988年5月)

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 元富士身延の買収国電だったモハ2252がやって来ました。私は個人的にこの電車が好みでした。オリジナルは2扉車でしたが、外観はほぼ原型を維持していました。

後ろの川造タイプのクハ1266は、お隣の津軽鉄道に同形車であるナハフ1200形がいましたが、そちらとは違って大活躍です。

 

2.モハ2252+クハ1266 (松木平~津軽大沢:1988年5月)

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 津軽平野は何もなく大変のどかです。これは30年以上も前の写真なので、現在はどうなっているのかわかりません。

あまりののどかさに、思わず連写してしまいましたが、このあたりは水田なので、田植えの時期が良さそうです。しかし、弘前は遠く、その時期に撮影に来ることは難しい現実でした。

 

3.モハ1121+クハ1610 (松木平~津軽大沢:1988年5月)

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 少し雲が出てきました。花曇りというやつでしょうか。

元旧国コンビのモハ1121+クハ1610がやって来ました。この車両を見ていると、かつて広島に住んでいた頃の可部線17m車とダブります。残念ながら可部線の17m車は、" 灯台下暗し " で撮影を逃してしまいましたが、それから12年も経った1988年の弘前でリベンジを果たした気がします。

 

4.クハ2251+モハ1120 (津軽大沢~松木平:1988年5月)

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 ここは、津軽大沢近くの跨線橋です。岩木山も望める絶景の撮影ポイントですが、列車の正面に陽が当たらず、イマイチです。

 

5.モハ1120+クハ2251 (松木平~津軽大沢:1988年5月)

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 コンクリート架線柱がやたら立派な大鰐線ですが、旧国やリンゴの大木には似合いません。しかし設備更新は着実に進んでおり、次はいよいよ電車の置き換えです。

 

6.モハ1121+クハ1610 (松木平~津軽大沢:1988年5月)

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時代は昭和の最晩年となり、旧国たちも肩身が狭くなってきました。

大鰐線は、この年の10月に元東急6000形、7000形が導入されます。この路線はすでにDC1500Vだったので、一挙に置き換えとはならなかったのが救いでしたが、みちのくの旧国博物館もそろそろ見納めでした。

 

第369話 1988年弘南(大鰐):花より電車!!(その4)

大鰐線の石川付近には、小高い丘の上に公園があり、そこから大鰐線を俯瞰撮影できました。今回はその俯瞰写真をまとめてみました。

 

1.クハ2251+モハ1120 (津軽大沢~石川:1988年5月)

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 昼頃になりようやく雄大岩木山が姿を現しました。

この写真は岩木山の写真ではなく、一応大鰐線の列車の写真です。写真の中央付近に奥羽本線をオーバーパスする大鰐線の2連が写っています。

 

2.クハ1610+モハ1121 (鯖石~石川:1988年5月)

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 この公園のすぐ下に、大鰐線石川駅があります。

先ほどまで4連だったはずのクハ1610+モハ1121が石川駅に進入するところです。

 

3.モハ1121+クハ1610 (石川~鯖石:1988年5月)

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 この公園からは、平川橋梁も望めました。列車の正面に陽が当たっていませんが、この場所でこの方向の撮影は午後からが順光となります。

 

4.モハ1120+クハ2251 (石川~鯖石:1988年5月)

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 桜が咲いていたので、強引に桜をいれて撮ってみました。まだ五分咲きといったところです。弘前は桜で有名ですが、意外と大鰐線の沿線には桜がありません。

 

5.クハ2251+モハ1120 (鯖石~石川:1988年5月)

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 石川駅に進入するクハ2251+モハ1120です。この列車も先程まで4連でしたが、花見客も落ち着いてきたのか、4連は来なくなりました。

 

6.クハ1610+モハ1121 (津軽大沢~石川:1988年5月)

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 再度、岩木山のアップです。列車も写っています。写真には奥羽本線の線路だけ写っていますが、大鰐線がオーバーパスする場所の向こう側がJR石川駅です。

この当時はまだ奥羽本線の列車本数は少なく、大鰐線の方が圧倒的に便利でしたが、そもそもこの辺にJRの他に私鉄が存在することが不思議でした。しかも大鰐線は戦後の開業で比較的新しい路線ですが、起点の中央弘前は街外れであり、沿線を見る限り輸送需要はしれており、何を見込んで建設されたものか?