ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第382話 1993年広島:ボロ電激変そして再会!!(その2)

今回もボロ電激変の話題です。
前回からローカル線のジャンルを外れてしまい申し訳ございませんが、もうちょっとお付き合いください。

 

1.801 (宇品:1993年8月)

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1980年代初頭の広電は新車導入とは言え、軽快電車のニセやモドキばかりでしたが、1983年にはいよいよ本物の軽快電車が増備されました。

それが、2代目800形(注1)です。こんどは3500形の課題を踏まえた市内線用のチョッパ車で、先ずは半信半疑の2両が導入されました。さすがに抵抗制御の700形とは別形式となりましたが、外観は700形の構体をそのまま採用したのか、パッと見は700形と区別がつきません。唯一前照灯と尾灯が700形の横並びから縦並びになったくらいでしょうか。

 

2.803 (十日市~本川町:1993年7月)

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しかし、広電は3500形導入後の経緯を鑑みたのか、800形の更なる増備は、さらに石橋を叩いてお預けとなります。その後も700形の増備が進みました。

そして、もう大丈夫と踏ん切りがついたのは3年以上も後の1987年でした。このあと、800形は断続的に1997年まで増備が続き、最終的に14両製造されましたが、この間、宮島線直通の3連接車はチョッパではなくVVVFで新製されました。

800形2次車となった803~804は同時期に製造された3連接の3800形と同様の前面デザインが採用されました。

 

3.805 (十日市~本川町:1993年7月)

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そして、800形3次車の増備はさらに3年飛んで1990年に805~808が導入されました。

1990年には、宮島線直通の3連接車はさらに進化して、VVVF車の3900形が製造されました。しかし、800形3次車は、今回もチョッパ車でスタイルも2次車同様です。なお、800形は3次車以降、3800形の増備車に合わせて前、尾灯が角形となり、カバーが付きました。その後も、800形は同形態、同仕様で増備されます。

ところで、なぜ市内線車両には、VVVF車ではなく、チョッパ車を導入し続けたのか?

それにしても、パラパラと14両くらいの増備では、主制御装置のメーカーさんも、元が取れたとは思えませんが、最終増備となった1997年製造の814以降、市内線用の新車はありません。もっとも、両運の単車では輸送力が追い付かず、市内線専用として3連接を投入するほどになっていました。

ちなみに国内の路面電車でチョッパを採用したのは、広電以外にあの長崎の軽快電車だけです。

 

4.811 (原爆ドーム前~紙屋町:1993年7月)

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 1993年時点、800形は4次車の812まで在籍していました。このあと最終増備となる5次車の813,814は1997まで間が空きますが、その間は専ら3連接車の増備が続きました。

(注1)2代目800形の車歴

・広電801,802:1983年アルナ工機製(1次車)

・広電803,804:1987年アルナ工機製(2次車)

・広電805~808:1990年アルナ工機製(3次車)

・広電809~812:1992年アルナ工機製(4次車)

・広電813,814:1997年アルナ工機製(5次車)

 

5.3801編成 (原爆ドーム前~紙屋町:1993年7月)

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さて、広電軽快電車導入の最大の目標であった、宮島線直通3連接車の新性能車量産化は、1987年に導入されたVVVF車の3800形(注2)でようやく実現しました。3500形導入からすでに7年が経っていました。

この年、抵抗制御の3700形も2編成並行生産されたのが気になるところですが、軽快電車の量産はチョッパではなくVVVFとなりました。路面電車VVVF車は1982年に熊本市交が導入した8200形が国内最初で、1987年時点では既に実用化の域に達していたことが、広電の軽快電車にも波及したものと思われます。

 

6.3804編成 (十日市~本川町:1993年7月)

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VVVFはモーターのメンテナンスフリー化や回生効率もチョッパよりは良く、電車から直流モーターを排除してしまった優れものです。3500形をはじめ、苦労の賜物であった各地のチョッパ車達のその後の衰退が偲ばれます。

結局、広電では試作もなかったVVVF車を1987年にいきなり3編成導入しました。(実際は、第1編成のみ半年ほど先行生産されました。)

その後3800形は1989年までのわずか3年間に、一挙に9編成の大所帯となりました。これが広電軽快電車の決定版となったわけです。

しかし、3500形から継承されたのはマスコンパンタグラフ程度でしょうか?斬新なインサイド軸受けの台車やメタリック幌などどこへ行ってしまったのか?

 

7.3805編成 (紙屋町~立町:1993年7月)

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3800形は2次車の3804編成から、前、尾灯が角形となり、カバーが付き、若干精悍な顔立ちになりました。

(注2)3800形の車歴

・広電3801~3803編成(A+C+B):1987年アルナ工機製(1次車)

・広電3804,3805編成(A+C+B):1988年アルナ工機製(2次車)

・広電3806~3809編成(A+C+B):1989年アルナ工機製(3次車)

いきなり大所帯となった3800形ですが、9編成で打ち止めでした。その後は次期新車となる3900形に移行して、3連接車の増備はまだまだ続きます。

 

第381話 1993年広島:ボロ電激変そして再会!!

1993年は仕事で広島の案件を担当することになりました。

広島は私がかつて住んでいた所ですが、広島を離れてからすでに11年が経過しており、仕事で再び広島に関わることになるとは、奇遇なのか腐れ縁だったのか?

まあ、そんなことはどうでも良いことですが、11年ぶりの広電は激変していました。

10年ひと昔と言いますが、この10年間の変貌は " 玉手箱を開けた浦島太郎 ” 的感覚でした。なにしろ、あのボロ電にVVVFの軽快電車がウジャウジャ走っていました。これには面を食らいました。

 

1.3903編成 (紙屋町~立町:1993年7月)

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久々の広島で最初に出迎えてくれたのは、宮島線直通用の3900形でした。

3900形は当時広電の最新車両で、VVVF車としては既に2代目の軽快電車でした。広電の軽快電車と言えば、第93話で報告しましたが、あの3500形を思い出します。とんでもない厄介物で増備を見送られていたどころか、その存在も危ぶまれていたはずですが、これも時代の流れなのでしょうか。もっとも、あれから11年も経ち、技術的な進歩や車両自体の改良もあったことは確かです。

 

2.3903編成 (紙屋町~立町:1993年7月)

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当時の広電は、既に宮島線専用の高床車を排除し、全ての車両が低床化されて、いわゆるLRT化されていました。もう私が対象とするローカル線じゃありません!!

しかし、久々の広島です。今回は私が広島から離れた1982年3月以降に導入された新車も交えて、1993年当時の車両を考察したいと思います。

 

3.704 (紙屋町~立町:1993年7月)

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700形(注1)は1982年~1985年にかけて11両導入された市内線用の両運車です。

広電の700形と言えば、ボロ電時代にも京王電軌から譲受した初代700形というのがいましたが、この新車は、現役の650形に続けて空番号となっていた2代目700形を襲名しました。

前面は都電7000形更新車(現都電7700形)を太らせたようなデザインですが、メーカーは同じアルナ工機でした。1980年代になると全国の中古路面電車も枯渇してしまい、さすがの広電も老朽車対策として、新車を導入せざるを得ませんでした。市内線用の新車としては、1958年製の350形以来実に24年ぶりの新車で、初代軽快電車である3500形で試用された両手連動式ワンハンドルマスコンが正式採用となりますが、なんと残念なことに700形の1,2次車である701~707は抵抗制御の吊掛車です。

吊掛車となった真相は、在来車の主電動機を流用したことも理由に挙げられますが、700形が最初に導入された1982年時点では、まだ3500形の課題が解決していなかったのか、新性能車の導入が間に合わなかったものと思われます。そんなわけでニセ軽快電車700形の登場となりましたが、一般乗客にしてみれば3500形以来ようやく新車の導入です。吊掛だろうが関係ありません。立派な新車です。ボロ電だった広電は、この電車をきっかけにボロ電を脱しました。

 

4.714(紙屋町~立町:1993年7月)

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700形の3次車は、1,2次車の連番とはならず、710番台の711~714となりました。

導入は1985年で、この3次車は抵抗制御のカルダン車になりました。外観は、1,2次車とほぼ同じですが、走れば音の違いでわかります。

この3次車が導入された前年に、宮島線直通の3連接車にも3700形という新車が登場しましたが、その3700形が抵抗制御のカルダン車であったことから、700形3次車もカルダン車になったものと思われます。

 

5.701(十日市~本川町:1993年7月)

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(注1)2代目700形の車歴

・広電701~404(1次車):1982年アルナ工機製(吊掛車)

・広電705~407(2次車):1983年アルナ工機製(吊掛車)

・広電711~414(3次車):1985年アルナ工機製(カルダン車)

 

6.3701 (本川町~原爆ドーム前:1993年7月)

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1980年代初旬の宮島線直通車は、西鉄福岡市内線から来た2連接車を3連接化して増加する乗客を捌いていましたが、それでも間に合わない状況になって来ました。しかし、そのために試作導入された3500形軽快電車は何かと課題が多く、増備は足踏み状態が続いていましたが、もう我慢できない状況となり、広電は軽快電車モドキ3700形3連接車を1984年~1987年にかけて5編成導入しました。

3700形(注2)も700形同様に両手連動式ワンハンドルマスコンを採用しましたが、抵抗制御のカルダン車となり、一見軽快電車のようにも見えますが、「モドキ」です。まあ、当時はこれで十分だったと思います。3000形に比べても窮屈感がなく、居住性はかなり改善されており、シェブロンゴムの軸ばねを採用した台車は、線路がイマイチだった宮島線においてもまずまずの乗り心地でした。そして、なによりも抵抗制御のカルダン車は賢明な選択だったと思います。

 

7.3704編成(天満町~小網町:1993年7月)

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 (注1)3700形の車歴
・広電3701編成(A+C+B):1984アルナ工機製(1次車)

・広電3702編成(A+C+B):1985年アルナ工機製(2次車)

・広電3703編成(A+C+B):1986年アルナ工機製(3次車)

・広電3704,3705編成(A+C+B):1987年アルナ工機製(4次車)

ところで、3700形の最終増備となった4次車ですが、この車両の製造時期に並行して広電初となるVVVF車となった3800形1次車が製造されていました。竣工も1987年でいっしょです。なぜ、抵抗制御車とVVVF車が同時期に導入されたのか不可解です。

もしかして、3800形1次車はもともと3700形で計画されていたものを急遽VVVF車に変更したのかも?もちろん、新車の設計期間を考えると、前もって水面下で検討は進められていたものと思われますが、得体の知れないVVVF車を突然採用するとは、かなりの大英断だったのではないかと思います。

第380話 1989年小坂:みちのくの気動車を求めて(その5)

ナロー時代の保存車を見た後は、小坂駅構内の散策です。

小坂は鉱山のお膝元なので、ここもかなり広い構内でした。

 

1.キハ2106 (小坂:1989年5月)

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 乗って来たキハ2106は給油のため入庫です。

この時点、まともに稼働していた気動車は、ワンマン化されたキハ2105~2107の3両だけのようでした。

 

2.キハ2103 (小坂:1989年5月)

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 キハ2103が構内のど真ん中に露天留置されていました。この車両はワンマン化されていない予備車で、あまり使用されていない感じです。結局キハ2103は1993年に廃車となります。

 

3.キハ2106+キハ2107 (小坂:1989年5月)

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 キハ2106が庫内からキハ2107を引っ張り出しました。もしや2連?かと、期待しましたが・・・。

 

4.キハ2107 (小坂:1989年5月)

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 結局、2連ではなく、キハ2107のみが次の列車に充当されました。列車は替わりましたが、見た目は全く同じです。キハ2107はキハ2100形の最終増備車で1967製の小坂では一番新しい車両です。

 

5.キハ2107 (小坂:1989年5月)

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 ここも、いつまで続くのか心配は尽きません。せっかく立派な気動車保有しているのだからいつまでも頑張ってもらいたいのですが、輸送需要の減少は歯止めが掛からず、1994年には旅客営業をやめて、岩手開発鉄道のように貨物専業の鉄道になってしまいます。旅客営業廃止後は、キハ2105とキハ2107が弘南鉄道黒石線に転じますが、キハ2106とキハ2108は廃車されました。

 

6.小坂機関区全景 (小坂:1989年5月)

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 しかし、その貨物も鉱石輸送ではなく、小坂精錬所で産出される濃硫酸輸送のみとなってしまいます。

 

7.ワフ28001+ワフ28002他 (小坂:1989年5月)

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小坂鉄道が旅客輸送を行っていた頃の訪問は、これが最後となりました。

思えば、まともな沿線写真を撮らずじまいでした。その後、はるか13年後の2002年に家内と東北の温泉旅行を行った時に車で小坂に立ち寄りました。その時はまだ辛うじて濃硫酸輸送は存続していましたが、これも2009年に全廃され小坂鉄道は100年の歴史に幕を閉じました。

さて、みちのくの気動車で忘れちゃいけないのが南部縦貫鉄道です。小坂鉄道の次は七戸に向かいました。南部縦貫鉄道では、天気も回復して心機一転すばらしい光景を撮影できましたが、その様子は別途報告します。

 

第379話 1989年小坂:みちのくの気動車を求めて(その4)

この日は早朝から雨の津軽鉄道を訪問しましたが、引き続いて小坂鉄道です。

五所川原を9:28の列車に乗り、弘前から特急いなほ号に乗り換え、大館に到着したのは11:08でした。

大館からは12:00発の小坂鉄道で小坂に向かいました。

 

1.小坂鉄道大館駅 (大館:1989年5月)

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 小坂鉄道の訪問は、1986年3月以来です。その時の様子は第67話をご覧ください。

前回は、大館の乗り換え時間がありませんでしたが、今回は1時間ほどあったので、大館駅近辺を散策しました。小坂鉄道の大館駅は往年の名残でかなり広い構内を有していましたが、この頃は鉱石列車も減り、閑散としていました。

 

2.キハ2106 (大館:1989年5月)

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 長いホームには小坂行の気動車が1両だけ止まっていました。 車両は言わずもがなのキハ2100形で、前回訪問時から車両陣容は変化していませんが、1988年に5両のうち3両がワンマン化されました。

 

3.キハ2106 (大館:1989年5月)

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この車両は、日車標準形の私鉄向け気動車です。白帯がなければ関東鉄道のキハ800形と見分けがつきませんが、外観上の違いは、前面窓上の通気孔と貫通路腰部の柵がなく、幌枠が付いており、台車がコイルばねである程度でしょうか。白帯が車体を引き締め、昭和30年代製としては、なかなか良いデザインです。

 

4.キハ2106 (大館:1989年5月)

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 乗客も減少して、普段は単行運転のみの2列車運用なので、3両あれば十分ですが、ワンマン化されなかった2両は予備車として残存しました。かつては、輸送需要が減り、余剰となった気動車を同系列の片上鉄道に2両転籍した経緯もありましたが、今度は片上鉄道も廃止になりそうで、車両を受け入れる状況ではありませんでした。

 

5.キハ2106 (小坂:1989年5月)

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 この日は天気も悪く、最初から走行撮影は諦めており、とりあえず12時の列車で小坂に向かいました。

 

6.保存車11号機+ハ1 (小坂町郷土館:1989年5月)

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 今回の小坂訪問の目的は、気動車の現状把握と小坂郷土館に保存されていたナロー時代の車両を改めて観察するためでした。

前回の訪問時は郷土館は閉館しており積雪もあったので、まともに保存車両を見ることができませんでしたが、この時は郷土館も開館しており、保存車の車内まで見学できました。

 

7.保存車ハ11+1号機 (小坂町郷土館:1989年5月)

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 お目当てはこのハ11です。半室貴賓車となっており、貴賓室も復元されており必見です。

本当にこんな車体色だったのか?疑問はありますが、貴賓室内の復元はたいしたものです。これらの保存車両は、場所を小坂駅跡に移転して現在も保存されています。

 

8.保存車ハ11の車内 (小坂町郷土館:2002年8月)

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この写真は、2002年にプライベートで東北を旅行した際に、小坂に立ち寄り撮影したものです。車内が狭く、広角レンズで撮影したので画面が少し歪んでいます。この車内は保存車ハ11の貴賓室側を撮ったものです。仕切りの向こうは3等室です。半室合造の狭い車内ですが、座席には模様が入った高級そうな生地が使われており、袖部にも生地が張られています。そして、折り畳み式のテーブル、窓のカーテン、仕切り面の鏡などなど、製造当時はかなり奮発した凝った造りだったのでしょう。床の赤いジュータンは本当にあったのかわかりませんが、となりの3等室にはありませんでした。
 

第378話 1989年津軽:みちのくの気動車を求めて(その3)

今回は津軽鉄道の沿線撮影の話題です。

しかし、雨の日の撮影ほどせつないものはありません。学生の頃は暇だったので、天気の良い日を選んで撮影に出向きましたが、社会人になると休みがもらえるだけでも有難い話で、天気などどうこう気にしている場合ではなく、雨の日は運が悪かったと諦めるしかありません。

よって、雨でしたが気合をいれて沿線を歩きました。

 

1.キハ24022 (津軽飯詰~毘沙門:1989年5月)

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 結局撮影場所は、前年と同じ毘沙門周辺となりました。雨なので陽の向きは気にせず撮影できましたが、暗くて地味な塗装はくすんでしまいました。

今回の写真はスキャナーの画像補正でめいっぱい明るくしてみましたが、根本的に露出不足でぼやけています。

 

2.DC351+オハ463+オハ331 (毘沙門~津軽飯詰:1989年5月)

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 客車列車も撮りましたが、この時雨が一段と強くなりました。背後に見えるはずの岩木山も全く見えません。

この客車列車は無理に客車でなくても良いと思いますが、一応津軽鉄道の看板列車として夏場も走りました。

 

3.キハ24022 (毘沙門~津軽飯詰:1989年5月)

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 この写真は、一瞬岩木山がかすかに見えた時に撮ったものですが、見えるでしょうか?

やはり天気が良くないと、撮影の意味もありません。

 

4.キハ24026+キハ24025 (毘沙門~津軽飯詰:1989年5月)

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 花見客輸送は空振りのようですが、2連が運行されていました。

写真は元国鉄キハ11形のコンビです。この2両の在籍期間は短く、翌年にはJRからキハ22形が2両譲受されて廃車となりました。

 

5.キハ24023+キハ24021 (毘沙門~津軽飯詰:1989年5月)

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 オリジナルのキハ24000形2連もやって来ました。

写真には、雨の中保線員の方が巡視点検している様子が写っています。今日は雨ですが、これが冬だったら大変です。なにしろこの辺りは、地吹雪の本場です。

 

6.キハ24025+キハ24026 (津軽飯詰~毘沙門:1989年5月)

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 まだ午前9時前ですが、天気は回復せず、一通り列車も撮影したので、この日はこれから小坂に向かいました。

 

第377話 1989年津軽:みちのくの気動車を求めて(その2)

雨のなか芦野公園に出向きました。桜は咲いていましたがこの天気なので花見客は少なく、露店や見世物小屋も開店休業状態でした。

 

1.保存車オハ311 (芦野公園:1989年5月)

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 芦野公園は雨のためかなり暗く、今回は桜トンネルの撮影を諦めて芦野公園に保存されていたオハ311を撮影しただけです。

この車両は先代のストーブ列車用に、国鉄から譲受した3両のオハ31のうちの1両で、元オハ3126です。1983年まで使用されてこの芦野公園に保存されました。

 

2.保存車オハ311説明板 (芦野公園:1989年5月)

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オハ311の由来を見ると、津軽鉄道のストーブ列車に対する愛着が伝わってきます。 

オハ311はしばらくこの場所で保存が続きましたが、元国鉄の貴重なダブルルーフ客車であることから、現在は復元整備されて鉄道博物館で保存されています。この芦野公園から搬出の際には、車体を半分に切断して輸送しました。ここで朽ち果てるものと思って写真を撮りましたが、これはこれで良い記録となりました。

 

3.ナハフ1201+ナハフ1203 (五所川原:1989年5月)

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 さて今回は、気動車ネタのはずですが、津軽の客車は無視できないので少々状況報告します。客車列車の予備として残っていたナハフ1200形ですが、もうほとんど使用されていない様子でした。お隣の弘南鉄道大鰐線では同型車のクハ1260形が、まだまだレギュラーとして活躍していたのに、こちらはフリーター状態です。

 

4.ナハフ1202 (五所川原:1989年5月)

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 ナハフ1200形は3両在籍していましたが、やはり余剰ぎみで、ナハフ1201が1995年に廃車となります。残る2両は予備車としてしぶとく残り、時々イベント運転に使用されましたが、その後は保留車となり、うやむやなまま現在に至ります

 

5.オハ462 (五所川原:1989年5月)

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 オハ462も予備車の様でしたが、この派手な塗装は何の目的なのか?

この日、仲間のオハ331とオハ463は営業に出ていましたが、その2両は従来からのおとなしい塗装でした。

 

6.キ101 (五所川原:1989年5月)

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 雪のシーズンを終えて、キ101は休眠に入りました。

津軽鉄道の車両は変化もなく、逆にこの先どうなるのか不安なくらいでした。弘南鉄道黒石線や下北交通大畑線などはNDCの投入を諦めて、JRから廃車になったキハ22形を購入し、ワンマン化して使用していましたが、津軽鉄道もなかなか新車というわけにはならない様でした。

さて、この日は天気が最悪でしたが、ここまで来たので、これより本線に出て走行撮影開始です。

 

第376話 1989年津軽:みちのくの気動車を求めて

1989年のGWも前年に続き、東北地方のローカル私鉄早回りを行いました。時代は平成となり、古い車両もどんどん減ってきましたが、この頃は会社の休暇を利用してよく東北方面に出向きました。

今回は、みちのくの気動車を求めて1989年GWの津軽鉄道と小坂鉄道の話題です。

 

1.DC351の牽く客車列車 (五所川原:1989年5月)

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 津軽を目指したのは、やはり桜が目的でしたが、この年はあいにくの雨になってしまいました。はるばる来たのでパスをするわけにもいかず、撮影は雨天決行です。

 

2.キハ24022、キハ24024 (五所川原:1989年5月)

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 この日も早朝から五所川原機関区で気動車撮影です。天気がイマイチでしたが津軽鉄道の花見輸送はスタンバイOKでした。前年同様、キハ24000形のツーショットです。

 

3.キハ24022 (五所川原:1989年5月)

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 津軽鉄道の車両陣容は変更なく、前年と同様でした。しかし、このタイプの気動車もそろそろ取り替え時期です。地方私鉄にとって新車の導入はなかなか厳しく、恐らく中古車になるだろうと思いますが、適当な車両はJRのキハ22形あたりでしょうか。でも製造年代的にはさほど差がなく、代り映えしません。

 

4.キハ24024 (五所川原:1989年5月)

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 キハ24000は、国鉄のキハ21形と並行生産されたモドキ車両です。一応寒冷地仕様ですが、デッキ無しで冬季はやや難ありです。同期の国鉄キハ21形はすでに1983年には全廃されており、やはり取り替え時期です。

 

5.キハ24021+キハ24023 (五所川原:1989年5月)

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 列車は花見客を意識して2連で仕立てられました。しかし、この日の天気は終日雨です。

 

6.キハ24021の車内 (五所川原:1989年5月)

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 キハ24000形の車内も国鉄キハ21形そのもので、床は板張りです。(バス窓ではありませんが・・・)しかし、座席のモケットは国鉄色の紺色ではなく、えんじ色なので温かみがありました。クロスシートの背ズリ背面に空き缶がぶら下がっていますが、これは灰皿です。この頃はまだ喫煙車が当たり前でした。車内にはやたらとゴミ箱が目立ちますが、車内で飲食する人でもいたのでしょうか。中吊り広告は地方色豊かな手描きです。