ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第490話 1991近鉄(北勢):モニの生き残りを求めて(その4)

夕方になり、再び上笠田方面に戻って撮影です。陽が西に傾き、晩秋の色合いが濃くなって来ました。

 

1.ク134+サ135+モ277 (上笠田~麻生田:1991年11月)

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 森の中から、列車が出て来ました。赤い車体がおもちゃの様です。

 

2.モ277+サ135+ク134 (上笠田~楚原:1991年11月)

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 西陽が車体の側面を照らし、昼間とは少し趣きが異なった感じです。

 大柄なモ277は、北勢線近代化一族の270系では一番末っ子の車両です。他の270系は1977年製ですが、モ277はずいぶん歳が離れた1990年製で、この当時はまだ新車でした。しかしながらこの電車は新車なのにチョッパでもVVVFでもありません。ちなみにカルダン車でもありません。北勢線の「恥かきっ子」とでも言いましょうか、国内最後の新製吊掛電車です。これも軽便規格のサダメで仕方ありません。

 

3.モ277+サ135+ク134 (上笠田~楚原:1991年11月)

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しかし、モ277は既存の270系より多少進化しており、270系列ではありますが、お隣の内部・八王子線の260系の設計思想で製造された車両で、構体構造の見直しにより軽量化され、座席配置もバスの様な一方向の固定クロスシートが採用されました。

 

4.モ277+サ135+ク134 (上笠田~楚原:1991年11月)

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 趣味的にはどーでもよい車両ですが、条件反射的に連写してしまいました。

この日はロケハンを兼ねていました。いずれはここで220系の4連を撮るための試し撮りです。

 

5.モ276+サ138+ク141 (上笠田~楚原:1991年11月)

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さらに楚原方面に移動して、ここは毎度の「めがね橋」です。石の鳥居と燈籠が軽便の雰囲気を盛り上げますが、この電車では効果も半減です。

 

6.ク144+サ146+モ272+ク172 (上笠田~楚原:1991年11月)

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新旧塗装混結の4連がやって来ました。この4連のモ272+ク172もその後、中間にサ140形を挟んで3連化されます。これによりほとんどの列車が3連化となりますが、これは合理化の一環でワンマン化が計画されていたからです。3両編成のワンマン化とは運転手さんにとってはずいぶん酷な感じがしましたが、翌年から実施されました。

 

7.ク144+サ146+モ272+ク172 (上笠田~楚原:1991年11月)

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 もうまもなく日没です。この列車の撮影を最後に、この日は撤収です。次の日も北勢線の撮影が続きます。

第489話 1991近鉄(北勢):モニの生き残りを求めて(その3)

この日の撮影は、当然220系が目的でした。しかし、残念なことにこの日の運用には220系は入っていませんでした。そうなると同じ車両ばかり撮っていても仕方がありませんが、せっかくなので、ロケハンを兼ねて徘徊を続けました。

 

1.モ273+サ147+ク143 (麻生田~上笠田:1991年11月)

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 上笠田から麻生田方面の北勢線は田園地帯と丘陵の際を走り、やがて丘陵の中に入って行きますが、その先には員弁川の支流を渡る山田川橋梁と築堤があり、ここも編成写真が真横から撮影できる場所です。

 

2.ク134+サ135+モ277 (上笠田~麻生田:1991年11月)

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 山田川橋梁の反対側に移動して、逆光撮影にトライしてみました。そのシルエットからは、とても華奢な鉄橋であることがわかります。車両だけではなく、橋梁も軽便規格です。

 

3.モ273+サ147+ク143 (麻生田~上笠田:1991年11月)

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 山田川の河川敷はススキの群生地帯になっていました。もう晩秋です。この時期に北勢線を訪れた理由があります。それは、この季節がなんとなく軽便にマッチしていたからです。

 

4.モ273+サ147+ク143 (麻生田~上笠田:1991年11月)

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 ひと昔前、田舎では夕方になるとどこからともなく野焼きの煙が上がりました。正直言って撮影の邪魔ですが、この程度なら情緒があって良いアクセントになります。北勢線山田川を過ぎると、再び丘陵に消えて行きます。

 

5.モ277+サ135+ク134 (麻生田~上笠田:1991年11月)

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 軽便には哀愁漂う晩秋の景色が似合います。これが220系だったら・・・。

 

6.モ277+サ135+ク134 (麻生田~上笠田:1991年11月)

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 おそらく、この辺りは今もこんな感じだと思います。現在も車両は変わっていないので同じような写真が撮れるはずです。ただし、現在は車両の色が黄色に変わり、もう近鉄ではありません。

第488話 1991近鉄(北勢):モニの生き残りを求めて(その2)

北勢線の走行撮影は、いつも上笠田周辺で行いました。他にも撮影ポイントはありますが、上笠田周辺は障害物もなく落ち着いて撮影できたからですが、現在は上笠田駅が廃止されて、楚原~麻生田間は駅がなく、駅間は3.7kmもあり、非常に不便な場所になっています。

 

1.ク141+サ138+モ276 (上笠田~麻生田:1991年11月)

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 この頃の北勢線は、3連化が進められていました。元々Mc+Tcの基本編成にT+Tcが増結されてラッシュ時などに4連を構成していましたが、これをMc+T+Tcに組み替えて3連化を図りました。

 

2.モ273+サ147+ク143 (上笠田~楚原:1991年11月)

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 ところで、この3連をよく見ると凸凹編成です。デカイMc車のモ270形は北勢線の近代化時に近鉄が新製した車両で、小さいT車とTc車は三重交通から引き継がれた軽便客車が前身です。しかしこの軽便客車は将来の電車化に備えた設計だったので、近鉄に統合された後の近代化であっさり電車(T車又はTc車)化され、こんどはモ270形と3連固定編成を組むことになりました。

 

3.ク141+サ138+モ276 (上笠田~麻生田:1991年11月)

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このT車とTc車もよく見ると車体の形態に種類があります。写真のサ138は妻形状が丸っこく、ク141は平凡な切妻です。これは種車の形態の違いによるものです。

 

4.ク141+サ138+モ276 (上笠田~麻生田:1991年11月)

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 サ130形は、3連化される前は220系の増結車として、T+Tcが2本在籍していましたが、この3連化でばらされてしまい、ついでに車体更新を受けました。元はバス窓のレトロな車両でしたが、ユニットサッシ化されてつまらない車両になりました。更新前のバス窓時代の写真は、第140話をご参照下さい。

 

5.ク141+サ138+モ276 (上笠田~麻生田:1991年11月)

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 Mc車のモ270形は輸送力強化のため、北勢線の車両限界ギリギリで製造されたので、大きく見えますが、これでも車体長は15mです。サ130形やク140形は車体長11mのまさに軽便サイズです。

 

6.ク144+サ135+モ272+ク172 (麻生田~上笠田:1991年11月)

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 旧態編成の4連がやって来ました。モ272+ク172は、まだ旧塗装でした。

その後モ272+ク172は、中間にサ140形を挟んで3連化され、新塗装になりました。

第487話 1991近鉄(北勢):モニの生き残りを求めて

1990年に下津井電鉄が廃止となり、軽便と言える鉄道は、とうとう近鉄北勢線内部・八王子線だけになってしまいました。しかし、いずれも大近鉄の路線であり、どうも軽便らしさが物足りません。それでも最後まで残ったモニの生き残りを求めて北勢に向かいました。

 

1.モ222+ク221+モ224+ク223 (北大社:1991年11月)

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この車両こそが、モニの生き残りである220系です。この頃の北勢線は、大部分の列車が3~4連化されていました。220系もMT+MTの4連で運用されました。しかし、この編成は1本しかなく、毎日走るとはかぎらず、走ってもラッシュ時だけの可能性もあり、撮影は賭けでした。

 

2.モ222+ク221+モ224+ク223 (楚原~上笠田:1991年9月)

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1991年には、2度北勢線を訪問しました。 この写真は9月にちょっとだけ北勢線に立ち寄った時のものですが、運よく220系の4連が走っていました。まだ残暑が厳しく列車の窓は全開でした。この頃は乗客も結構多かった様です。

 

3.モ222+ク221+モ224+ク223 (楚原~上笠田:1991年9月)

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 しかし天気が悪く、この日は、これだけ撮って退散しました。

 

4.旧デ45(北大社:1991年11月)

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 この写真は、2度目の11月に北大社の車庫へ出向いた時のものです。

これも220系同様に北勢鉄道の生き残りである、旧デ45です。すでに車籍はなく、車両入換用の機械扱いとなっていましたが、貴重な軽便電機の成れの果てでした。

 

5.サ137(北大社:1991年11月)

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 サ137は、モ270形と固定編成を組むことになり、車体更新されました。元は三重交通の軽便客車でHゴムの側窓でしたが、ユニットサッシ化されました。しかし、丸っこい妻面は原型を留めており、可愛い車両です。

 

6.モ273+サ147+ク143 (上笠田:1991年11月)

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 上笠田に停車中の3連です。ちっちゃな電車ですが、これを軽便と呼ぶには抵抗があります。モ270形はもはや軽便じゃありません。ところで、この上笠田駅は北勢線三岐鉄道になった時点で廃止され、現在はここに駅はありません。この付近は住んでいる人もいないのか、代わりの駅も出来ず不便な場所になってしまいました。

第486話 1987年越後交通(長岡):復活の可能性を探る(その9)

1988年4月に行った越後交通長岡線廃線跡探訪は、2日間掛けて大河津から西長岡まで歩きましたが、越後関原から西長岡までは、まだ現役の路線だったので、上除から先はまともな写真を撮らずじまいでした。なお、当時の現役区間はその前年に調査していましたので、今回は上除の次の日越から西長岡までを前年の1987年に撮影した写真で報告します。

 

地図10.引用:国土地理院地形図1/25000「長岡」

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 地図10は、越後関原から西長岡までの撮影ポイントを示します。この区間は、長岡市街に近いので住宅街を通ります。繰り返しになりますが、この区間は貨物専用鉄道として現役でした。しかし貨物列車の撮影はできないまま、この区間は1992年に休止され、1993年3月に廃止されました。

 

写真45.西中学校前側から見た日越駅跡(日越:1987年5月)

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写真45、46は、1987年5月の雨の日の撮影です。ネガスキャンではなく、退色したプリントからのスキャンで、画像が不鮮明ですがご了承願います。 

写真45は、上除駅から0.8km、大河津駅から21.4km地点の日越駅跡を西中学校前側から撮影したものです。第485話の写真44と対向する写真です。日越には上除側で分岐する側線がありました。写真のホームの右側に門型架線柱が写っていますが、その線が側線です。架線が残っていましたが、すでに使われていない様でした。

 

写真46.日越側から見た西中学校前駅跡(西中学校前:1987年5月)

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 写真46は、日越駅から1.4km、大河津駅から22.8km地点の西中学校前駅跡を日越側から撮影したものです。西中学校前駅は1969年に開設された新しい駅でしたが、旅客営業が1975年に廃止となったので、わずか6年間しか使用されませんでした。ホームも土盛りではなくコンクリート製で、旅客廃止後も朽ちることなく残っていました。この路線が貨物専用であることを知らない人は、このホームで列車を待ってしまいそうです。やはり、旅客営業の復活を目論んでいたのか?

 

写真47.西中学校前側から見た西長岡駅跡(西長岡:1987年9月)

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  写真47、48は、1987年9月に撮影したもので、第415話で報告した写真です。

写真47は、西中学校前駅から0.9km、大河津駅から23.7km地点の西長岡駅跡を西中学校前側から撮影したものです。西長岡駅の構内は広く、その北側のエリアがかつて旅客用の駅構内でした。既に旅客営業はないので、当然駅舎などもありませんが、線路やホーム、そして架線などはそのままでした。

 

写真48.西中学校前側から見た西長岡駅構内(西長岡:1987年9月)

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 写真48は、構内の南側を撮影したもので、現役の西長岡構内です。構内の大半は貨車の留置ヤードでした。当時の貨物輸送は来迎寺~才津間のセメント輸送以外は微々たるもので、定期で西長岡まで来る貨車はなかったと思われますが、この広い構内は何のために維持されていたのか不可解です。やたらとタンク車が目立ちますが、これも石油備蓄用なのか?

 

図11.引用:国土地理院地形図1/50000「長岡」昭和48年発行

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ご参考までに、地図11に昭和48年(1973年)発行の長岡市内地形図を示します。まだ長岡線が旅客鉄道として現役だった頃のもので、信濃川対岸の長岡駅からは栃尾線来迎寺駅からは国鉄魚沼線の路線が記されています。また、長岡線の西長岡からは、日産化学の専用線が延びており、西長岡からは3方向に路線が出ていたことがわかります。日産化学の専用線は1972年に廃止され、同年に西長岡~来迎寺間の旅客営業も廃止されました。

さて、9連載となりました越後交通長岡線の、寺泊から西長岡までの廃線探訪は以上で終わりです。改めて1988年当時を総括すると、1975年に廃止された大河津から越後関原間はほとんど放置状態でした。すでに廃止から13年を経過しており、これを復活するのは線路の敷直しが必要と思われ、そう簡単に復活はあり得ないと思われました。一方、当時貨物線として現役だった区間はいつでも旅客化は出来そうでした。ところが、世の中は地方の公共交通機関離れが当たり前の時代になっていました。長岡線の場合も沿線の過疎化や長岡駅に乗り入れていないハンディキャップが致命的です。現役区間の貨物輸送ですら、いつなくなるのか、なくなれば廃止は避けられない状況になっていました。

その後、細々と営業を続けていた越後交通の貨物専用線も1995年に廃止され、長岡線復活の夢は、結局夢に終わってしまいました。しかし、あれから33年が経過した現在でも廃線跡の遺構は点在しているようです。このあたりの情報は、最近廃線探訪を実施された方々のブログをご参照願います。なお、廃線探訪は危険がいっぱです。実施時期は春先が良いと思います。そして、単独行動は避けた方が無難です。

第485話 1988年越後交通(長岡):復活の可能性を探る(その8)

越後交通長岡線廃線跡は、脇野町を過ぎると完全な無人地帯でした。この辺りは冬場は危険です。新潟交通もそうでしたが、地吹雪に遭遇したら、小説の「八甲田山死の彷徨」そのものになってしまいそうです。遭難したら田植えが始まる頃まで助けは来ないでしょう。

今回は、王寺川から越後関原までの廃線跡と、その先の現役区間の上除の様子です。 

 

地図9.引用:国土地理院地形図1/25000「長岡」

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地図9は、王寺川から上除付近の撮影ポイントを示します。地図を見ると、廃線跡は越後関原付近まで見事に無人地帯を直進しています。 

 

写真40.越後日吉側から見た王寺川駅跡(王寺川:1988年4月)

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 写真40は、脇野町から2.5km、大河津駅から17.3km地点の王寺川駅跡を越後日吉側から撮影したものです。写真には建物が写っていますが、人家ではなく、こんな田圃のど真ん中になぜ駅が出来たのか理解できません。ところで、この付近から架線も残っていました。こうなると、その気になれば電車復活は戯言でもなさそうです。

 

写真41.越後関原側から見た越後日吉駅跡(越後日吉:1988年4月)

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 写真41は、王寺川から0.9km、大河津駅から18.2km地点の越後日吉駅跡を越後関原側から撮影したものです。王寺川から駅間が短いのですが、ここも周りに何もなく、なぜ駅があったのか全く理解出来ません。

 

写真42.越後日吉方向を望む廃線跡(越後関原~越後日吉:1988年4月)

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 北陸自動車道と交差する手前の廃線跡に、突然タンク車が現れました。ここは廃止区間ですがタンク車の留置場所に使用されていました。と、言うことは廃止区間なのにここまで機関車も入って来ると言うことです!!だから架線が残っていた!!。別な見方をすれば、ここは廃線跡ではなく物置場のようなものです。しかし、架線が残っていた王寺川までは機関車が走れたわけで、認可上どうなっていたのか?

 

写真43.上除側から見た越後関原駅跡(越後関原:1988年4月)

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写真43は、越後日吉から1.2km、大河津駅から19.4km地点の越後関原駅跡を上除側から撮影したものです。ここからは現役路線となります。 しかしこの当時でもここまで来る定期の貨物列車はなく、レールも錆て休止路線の様でした。ところで、大量に留置されたタンク車はいったい何なのか?石油の備蓄でもしていたのか?

越後関原まで来れば西長岡まであと一息です。この先は現役路線ですがついでに報告します。

 

写真44.越後関原側から見た上除駅跡(上除:1988年4月)

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 写真44は、越後関原から1.2km、大河津駅から20.6km地点の上除駅跡を越後関原側から撮影したものです。すでに旅客輸送はありませんが、ホームが残っていました。この区間はまだ現役の路線なので電車がやって来そうな雰囲気です。この当時は、この先に見える日越のセメントプラントまで貨物が不定期で出入りしており、機関車の機回しでこの上除までは機関車が来ていたようです。路線もセメントプラントへの側線が本線に併設されていたので、この上除~日越間は複線のようになっていました。

第484話 1988年越後交通(長岡):復活の可能性を探る(その7)

越後交通長岡線の路線は、越後平野の西端を丘陵に沿う様に敷設されました。よって、信濃川と丘陵に挟まれた狭い平地を通っており、沿線人口は希薄で、大きな街は与板町くらいでした。

与板から西長岡側は、信濃川が丘陵から離れて平地が広がるので、広大な田園地帯となり、長岡線も田園を通りますが、なぜか集落から離れて無人地帯を通っていました。やはり長岡線の敷設は歓迎されていなかったようです。

 今回は、その田園地帯の槇原から王寺川間の廃線跡です。

 

地図8.引用:国土地理院地形図1/25000「与板」、「長岡」

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地図8は、槇原から王寺川付近の撮影ポイントを示します。越後交通長岡線は槇原を過ぎると集落を避ける様に田圃のど真ん中を通っていました。 

 

写真34.脇野町側から見た越後大津駅跡(越後大津:1988年4月)

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 写真34は、槇原から1.6km、大河津駅から13.7km地点の越後大津駅跡を脇野町側から撮影したものです。レールも架線柱もしっかり残っていましたが、ホームは土台の杭だけになっていました。

 

写真35.越後大津方向を望む廃線跡(脇野町~越後大津:1988年4月)

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廃線跡に突如大きな鉄橋が現れました。写真35は、越後大津~脇野町間に残っていた黒川橋梁です。道路橋は少し離れた場所にありましたが、迂回するのが面倒だったのでこの橋を恐る恐る渡りました。まだ枕木も朽ちてはなく、線路の真ん中に板が敷いてあったので支障はありませんでした。

 

写真36.黒川橋梁(越後大津~脇野町:1988年4月)

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 写真36は、黒川橋梁を横から撮ったものです。けっこう大きな遺構です。 これだけ立派な鉄橋なので撤去するのも大変そうです。

 

写真37.脇野町駅舎跡(脇野町:1988年4月)

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 写真37は、脇野町駅跡に残っていた駅舎です。当時、廃線跡で駅舎が残っていたのはここだけでした。それほど傷みもなく、管理されている様子でした。

 

写真38.越後大津側から見た脇野町駅跡(脇野町:1988年4月)

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写真38は、越後大津から1.1km、大河津駅から14.8km地点の脇野町駅跡を王寺川側から撮影したものです。脇野町駅もl広い構内の交換駅でした。駅の東側には大きな木造の倉庫があり、恐らく米の出荷が行われていたものと思われます。 

 

写真39.脇野町方向を望む廃線跡(王寺川~脇野町:1988年4月)

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 写真39は、王寺川~脇野町のちょうど中間地点です。気の遠くなるような直線区間です。周辺には民家が全くありません。次の王寺川まで駅間2.5kmはこんな感じでした。