ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第497話 1990年片上:山陽路ローカル私鉄の落日(その6)

かつて山陽路には、多くの私鉄が存在していました。その大半は非電化私鉄でしたが、昭和30~40年代には廃止されてしまい、1990年まで残っていたのは広電と岡電を除くと、片上鉄道、下津井電鉄水島臨海鉄道の3社だけでした。しかし、下津井電鉄はこの翌日である1990年12月末で廃止され、この片上鉄道も余命幾ばくも無い状況でした。唯一元気だったのが水島臨海鉄道でしたが、この鉄道は水島臨海コンビナートの貨物輸送に守られて、とてもローカル線とは言い難い存在になっており、片上鉄道の廃止は、実質、山陽路ローカル私鉄の落日を意味しました。

 

1.キハ802 (備前矢田~苦木:1990年12月)

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 この日はレンタサイクルで、備前塩田の吉井川第一橋梁まで行きましたが、帰りの時間を考慮して、そこで引き返し、帰り道も撮影しながら戻りました。

 

2.キハ802 (天瀬:1990年12月)

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 天瀬駅は並行する道路から少し高い位置にあり、朝は気が付かずに通り過ぎてしまいました。帰りはちょうど列車が来る時間だったので、天瀬駅で撮影しました。この駅は一応交換駅ですが、実態は利用客はほとんどいない無人駅でした。

 

3.キハ802 (天瀬:1990年12月)

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乗降客はいませんが、列車は律儀に停車しました。 この日、午前中は「わかあゆ号」だったキハ802は、「ふるさと号」の運用に入っていました。

 

4.キハ801 (中山~和気:1990年12月)

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 帰り道は下り坂が多く、思ったより早く和気まで戻ってしまったので、この日の最後の撮影を和気~中山間で行いました。しかし、山間部なので既に陽は隠れてしまい、やって来た車両はキハ801でした。これが、片上鉄道現役の最後の写真となりました。

 

下表は1985年改正の片上鉄道の時刻表です。これは1985年12月の撮影時に和気駅で入手したものと思いますが、先日実家の書棚を整理している時に見つけました。この時刻表のお陰で、撮影した列車がどの運用だったのかが照合できました。捨てずにとっておいてよかったです。

 

5.片上鉄道時刻表 : 昭和60年3月14日改正

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この時刻表の列車番号に名称が記されている運用はヘッドマークを付けた気動車です。私は当初ヘッドマークは車両固有の名称を表すものと思っていましたが、名称は運用を示すものでした。よって、運用ごとにヘッドマークは付替えされていました。

名称の無い番号だけの運用は、もともと客車列車又は混合列車を意味していたものと思われますが、この当時は、下りの1列車と上りの4列車だけが客車列車で、他は気動車でした。

ちなみに客車列車は、夕方の上り4列車で柵原に向かい、柵原で駐泊(機関車は吉ヶ原の庫で駐泊)し、翌朝の下り1列車で片上に戻りますが、1列車は和気~片上間でコンテナと回送気動車を連結しました。この回送気動車は上り22列車の折返しです。

ところで、この時刻表の赤標記ですが、片上~和気間は運用の半数近くがバス輸送になっていました。ほとんどのバスは休日運休ですが、この区間の輸送量はこの程度だったと言うことです。

なお、この時刻表は1989年に改正され、今回の撮影時点では、客車列車は吉ヶ原止まりとなり、貨物列車がなくなった関係で、片上~和気間のコンテナ連結もなくなりました。

 

6.キハ303 (備前福田~備前塩田:1990年12月)

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 2日間にわたる撮影もあっと言う間に終わりです。片上鉄道はこの6ヵ月後の1991年7月1日付で廃止となり、結局、この時の訪問が現役時代の最後となりました。そして、この翌日はお隣の下津井電鉄の最終日でしたが、下津井には寄らず、この日は琴電へ向かいました。

第496話 1990年片上:山陽路ローカル私鉄の落日(その5)

片上鉄道撮影2日目の午後は、河本から備前塩田方向に移動しました。この区間も前日撮影したところですが、前日は夕方で陽が射していませんでした。この日は十分に陽も射しており、前日のリベンジです。

 

1.キハ802 (備前矢田~河本:1990年12月)

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午前中運用の「わかあゆ号」が行ってしまうと、次の列車まで時間が空きます。少し早めの昼食を喫茶店北斗星」で済ませて、再びサイクリングです。 

 

2.備前塩田駅 (備前塩田:1990年12月)

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さほど坂道もなく、9km程の道程を順調に備前塩田まで来ました。この駅は片上鉄道独特の駅舎を備える立派な交換駅ですが、1984年に無人化されていました。このモダンな駅舎のスタイルは、片上鉄道が柵原まで延伸された時に開業した駅に共通し、備前福田、周匝、美作飯岡、吉ヶ原、柵原も同様の造りでした。 

 

3.キハ312 (備前塩田~備前福田:1990年12月)

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 備前塩田~備前福田間には、第一吉井川橋梁がありました。ここは日中陽が当たるので良い撮影ポイントでした。午後は運用が変わり、キハ312が登場しましたが、今日もキハ702は登場しません。

 

4.キハ312 (備前塩田~備前福田:1990年12月)

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 この橋梁は全長355mもあり、結構長い橋梁ですが、幸い並行する道路橋が出来たので迂回することもなく助かりました。これらの写真は、その道路橋から撮影したものです。

 

5.キハ312 (備前塩田~備前福田:1990年12月)

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片上鉄道には、この第一吉井川橋梁の他に、第二吉井川橋梁188m、金剛川橋梁110mなど立派な橋梁がありました。これほどの鉄橋を建設してまで敷設された路線ですが、当初は鉱山鉄道として相当期待されていたことが伺えます。

 

6.キハ312 (備前福田~備前備前塩田:1990年12月)

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 川岸に小さなボートが写っています。道路橋がなかった時代の名残りでしょうか。撮影を行った道路橋はまだできたばかりの新しい橋でした。この橋が出来るまでは、下流側は備前矢田、上流側は周匝の先まで10kmも橋がなく、自動車でもなければ沿線撮影は厳しかったと思われます。

 

7.車内補充券

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話しは変わりますが、片上鉄道の車内補充券が2種ありましたのでご参考までに掲載します。左が古いタイプで1970年代のもの、右が新しいタイプで1980年代のものです。たいてい車内補充券は新しくなると小さくなる傾向があるように思いますが、片上の場合は逆に新しい方が大きくなっています。古い方は主要駅から各駅への運賃しか記載されていませんが、新しい方は全ての駅間の運賃が記載されたことから大きくなったと思われます。柵原の鉱山マークと片上の港マークの標記は変わらず、伝統的で個性的な乗車券です。

第495話 1990年片上:山陽路ローカル私鉄の落日(その4)

片上鉄道の和気から柵原方面は吉井川に沿って線路が敷設されていました。途中、吉井川を2度渡りますが、沿線には大きな街もなく、鉱山の衰退は鉱山鉄道である片上鉄道を直撃しました。とても旅客だけではやっていけません。このあたりの実情は、当時の栗原電鉄に似ていました。

 

1.キハ802 (本和気~益原:1990年12月)

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さて、 撮影2日目は、朝のうちキハ312が走りましたが、その後はキハ802オンリーとなり、少々もの足りない状況となりました。

 

2.キハ802 (天瀬~河本:1990年12月)

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 天気も良く、絶好のサイクリング日和というか撮影日和でした。線路は極端な勾配もなく、坦々と緩やかな片勾配を登って行きますが、普段の運動不足のためか、私には自転車が重く感じました。

 

3.キハ802 (天瀬~河本:1990年12月)

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片上鉄道の天瀬~河本間は吉井川の浸食による断崖にへばり付くように敷設された難所です。線路は並行する国道より一段高いところを通っていました。この断崖区間を過ぎると、 昨日撮影を行った河本付近に再び到達しました。

 

4.キハ802 (備前矢田~河本:1990年12月)

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 河本駅から備前矢田方向に進むと、列車は吉井川の土手上を走ります。この辺りは無難な撮影場所ですが、川が増水すると危なそうな場所です。写真の列車後方には道路が鉄道をオーバーパスしていますが、この交差部分には、川が増水した時に集落に川の水が流入しないように陸閘門が設置されていました。

 

5.キハ802 (河本~備前矢田:1990年12月)

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 河本を過ぎると再び人家が途切れますが、写真の右側には元国鉄の緩急車が2両写っています。そこは「北斗星」という名の喫茶店でした。中に入ってみると食事もできるとのことで、ここで昼食を済ませました。喫茶店内には片上鉄道の写真が多数展示されており、我々の様な鉄道同好者のために造られたようなお店でしたが、このお店をきりもりしていたおばちゃんがよくしゃべる人で、よほど暇だったのか、食事中機関銃のように喋りまくっていました。しかし、このお店も現在はなく、2007年頃に和気の方に移転したというニュースを確認しましたがその後はどうなったか?

 

6.キハ802 (河本~天瀬:1990年12月)

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 喫茶店のすぐ近くから、河本~天瀬間を走る列車が撮影できました。一見対岸のように見えますが、ここは川が蛇行しているので陸続きです。

 

7.キハ802 (河本~天瀬:1990年12月)

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写真6の場所を引いて撮影するとこんな感じです。河本~天瀬間は吉井川の浸食を受けて山肌が険しい様相を呈しています。この区間には崖をくり貫いた短いトンネルが2カ所ありました。

第494話 1990年片上:山陽路ローカル私鉄の落日(その3)

2日目の朝は、非常に寒い朝でした。日の出と共に霜が降り、一面真っ白になりました。撮影の合間は中山駅の待合室で寒さをしのぎました。

 

1.キハ312 (中山:1990年12月)

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 中山駅は絵になる無人駅でした。有名な中山サーキットの近くですが、この駅を利用する人はまずいません。それどころか地元の利用者も果たして何人いるのか?

 

2.キハ312 (中山:1990年12月)

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 キハ312は、中山駅に停車したものの乗降客はおらず、静かに出発して行きました。ちなみにこの列車は片上発の和気行きです。第493話で撮影した片上ブルートレインのお尻にぶら下がっていた気動車は、この車両が和気から回送となり連結されたものでした。

 

3.キハ802 (益原:1990年12月)

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 陽もすっかり上がり、晴天となりました。今度は和気から柵原方面に向けて、移動しながらの撮影です。まずは、益原駅に停車中のキハ802です。キハ800系はグループ会社の小坂鉄道から機関車とのトレードでやって来た車両でした。片上では一番若い戦後製の車両で、日車の私鉄向け標準型気動車です。デザイン的にも素晴らしい車両ですが、わざわざ片上まで来て撮影したい車両ではありませんでした。やはり片上では戦前製の国鉄型機械式気動車の成れり果てを撮影しなければ意味がありません。

 

4.キハ802 (益原:1990年12月)

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 2日目は和気駅のレンタサイクルを利用しました。この辺りまでは比較的平坦で、なんてことありませんでしたが、この先はアップ・ダウンがあり、結構難儀しました。しかし列車本数が少ないので、移動しながらの撮影には、レンタサイクルがちょうど良かったです。

 

5.河本駅 (河本:1990年12月)

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 河本駅は、山峡に密集した集落の駅でした。立派な駅舎もありましたが既に無人化されていました。片上鉄道の駅はかつては有人駅が多く存在しましたが、合理化で委託化が進みました。そして、1984年には大部分が無人化されましたが、その後も駅舎が残っていました。

 

6.キハ802 (河本~備前矢田:1990年12月)

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水面が鏡の様に列車を映していますが、ここは湖ではなく川です。 

河本から備前矢田の間は、片上鉄道の路線は吉井川に最接近します。この写真のように川の流れが穏やかな時は、水面に列車が映りましたが、吉井川は結構あばれ川で、片上鉄道もかつて甚大な被害を受けていました。

第493話 1990年片上:山陽路ローカル私鉄の落日(その2)

貨物輸送がなくなってしまった片上鉄道でしたが、機関車牽引の客車列車は残っていました。もう客車列車を残す理由もないようですが、車両のやり繰りがつかなかったのでしょうか。

 

1.DD13-552+ホハフ3001+ホハフ3002 (片上:1990年12月)

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 撮影初日の最後は、客車列車を見るため片上に出向きました。ちょうど山へ向かうブルートレインがDD13に牽引されて出庫してきました。時刻は17時頃ですが、12月の日は短く、もう日没間近で露出がかなり厳しくなってきましたが、この後ダメもとで走行撮影にチャレンジです。

 

2.DD13-552+ホハフ3001+ホハフ3002 (清水:1990年12月)

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 ブルートレインを狙い撃ったのは清水駅でした。もう日没後なので、さすがに走行撮影は諦めて、停車中の列車を息を止めて撮影です。1/60秒くらいなら何とかなります。この日はこれが最後の撮影でした。

ところで、片上鉄道の客車列車は1日1往復の運行でした。1989年11月のダイヤ改正前は夕方に山に向かう客車列車が柵原行きの最終でしたが、この時点では柵原のひとつ手前の吉ヶ原止まりになっていました。柵原行きの最終はこの1本前の列車に乗らなければなりませんが、この客車列車で柵原に行く人はいなかったのでしょう。ちなみに、この客車列車の後に、吉ヶ原行きの気動車列車が2本ありました。客車列車は吉ヶ原で駐泊し、翌朝は吉ヶ原から2番目の片上行きとなります。途中、和気で30分近く停車し、コンテナと回送気動車を連結しますが、すでにコンテナ輸送はなくなっていたので、回送気動車のみ連結して片上に戻ります。翌日はこのブルートレインの戻りを撮らねばなりません。この日は和気のビジネス旅館に投宿し、翌日は早朝からこの続きです。

 

3.DD13-552+ホハフ3002+ホハフ3001 (清水~中山:1990年12月)

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そして翌日です。二日目の朝は早起きして列車で中山へ出向きました。

この日は霜が降りるほど冷え込みました。5年前もここでブルートレインを撮影しましたが、その時も寒かったです。 しかし5年前と違い、やって来た列車は、機関車の牽引がもったいない程、短編成になっていました。

 

4.DD13-552+ホハフ3002+ホハフ3001 (清水~中山:1990年12月)

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それでも、朝っぱらから、この列車は感動的でした。こんな浮世離れした客車列車の撮影ができるのは、もう片上鉄道くらいでした。しかし、貨物がない混合列車は、もう終わりのようでした。

 

5.DD13-552+ホハフ3002・・ (清水~中山:1990年12月)

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 機関車は貨物輸送がなくなると、余剰となり廃車が発生しました。

最盛期には5両いた機関車も、最終増備車だったDD13-556が1978年に小坂鉄道に転じた以降は4両体制が続きましたが、1988年にDD13-553とDD13-555が廃車となり、この時点で残ったのはDD13-551とDD13-552の2両だけでした。この客車列車を牽引するためだけに残ったようなものです。

 

6.キハ312+ホハフ3001+ホハフ3002+DD13-552 (中山~清水:1990年12月)

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  ブルートレインには、お馴染みの回送気動車が1両ぶら下がっていました。

客車列車の後追い写真はいつも哀愁が漂っています。そして、これが片上ブルートレインの見納めとなりました。

第492話 1990年片上:山陽路ローカル私鉄の落日

1987年に片上鉄道が廃止を表明し、その後地元の存続対策協議会の働きにより、存続に向けた3年間の試行期間が決定され、1991年3月までは生き延びることとなりました。この間に片上鉄道の観光化などの具体的な動きがあったもののなかなか結論が出ず、間もなく3年が経とういう1990年の年末に片上へ出向きました。

 

1.キハ312 (備前矢田~備前福田:1990年12月)

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 この頃の片上鉄道は既に貨物輸送もなくなり、旅客鉄道専業となっていました。本来であれば、廃止を表明した1987年に廃止されていてもおかしくない状況でした。3年間の猶予はあったものの、結局この撮影の直後に観光化は断念され、1991年3月末廃止が決定されました。ところが、1991年3月になって、鉄道廃止後の代行輸送の手配が間に合わず、廃止をこの年の6月末に延期するハプニングがあり、正式な廃止は1991年7月1日でした。

 

2.キハ303 (河本~天瀬:1990年12月)

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前回の片上鉄道訪問は、1985年の年末でした。その時の様子は、第170話~第174話で報告しましたが、それからちょうど5年が経過していました。この間に鉱石輸送がなくなり、その時点で鉱山鉄道の使命は終わっていました。そして残ったコンテナ輸送も肥料輸送も1988年にはなくなり、その後は旅客輸送のみとなっていました。幸い旅客車両は変わらず安泰でしたが・・・・。 

 

3.キハ303 (河本~備前矢田:1990年12月)

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この日は、キハ303が元気に走っていました。年末なのでしめ飾りを付けていました。この日運用されていたのは、キハ301、312、802の3両でした。お目当てのキハ702はお休みでした。

 

4.キハ303 (河本~天瀬:1990年12月)

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この辺りの吉井川は、神秘的なエメラルドグリーンでした。これは鉱物系の影響なのか、なんとなくこの辺りも鉱山を感じます。

 

5.キハ303 (河本:1990年12月)

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 それにしても、一番年寄りのキハ303は一番元気なようでした。もう気動車として健在な元国鉄キハ41000形の生き残りは、このキハ303だけになってしまいました。鉄道廃止後も末永く保存されることを願うばかりでした。

 

6.キハ802 (備前塩田~備前福田:1990年12月)

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 今回の撮影は2日間かけて行いました。この時も学生時代にバイト先で知合った鉄道同好者の友人と一緒でした。初日はレンタカーで午前中から岡山電軌を訪問し、その後は西大寺や下津井の保存車巡りをしていたので、片上鉄道の撮影は午後からとなり、撮影時間はあまりありませんでした。冬は陽が短く、山間部はあっという間に日没です。

 

7.キハ802 (杖谷~備前塩田:1990年12月)

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 思えば片上鉄道との出会いは、1973年に和気駅に停車中のキハ700形を山陽本線の客車特急「しおじ号」の車中から見かけた時でした。それから18年が経過し、いよいよ山陽路ローカル私鉄の落日です。

第491話 1991近鉄(北勢):モニの生き残りを求めて(その5)

近鉄北勢線の2日目です。この日は日曜日だったので朝のラッシュはなく、休日ダイヤで閑散としていました。

当然、220系もお休みです。

 

1.ク145+サ136+モ274 (上笠田~麻生田:1991年11月)

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 これでは昨日と変わらないので、この日は場所を変えて撮影です。前日に目を付けておいたのが、列車から見えた満開のコスモスでした。この場所は、大泉東と長宮間で、何かのイベントなのか、休耕田を利用してコスモスを植えていました。

 

2.ク134+サ135+モ277 (大泉東~長宮:1991年11月)

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 天気が少々薄曇りで靄が掛かっており、コスモスもぼやけて見えますが、かなりの面積にコスモスが咲いていました。はたして電車の撮影用にコスモスを植えたとも思えませんが、これだけ多くのコスモスが咲いていれば写真を撮らないわけにはいきません。それにしても、これほど多くのコスモスを初めて見ました。

 

3.ク134+サ135+モ277 (大泉東~長宮:1991年11月)

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 北勢線の電車がメルヘンチックに見えます。 

 

4.ク202+サ101+サ201+モ275 (大泉東~長宮:1991年11月)

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 ラッシュでもないのに、意表を突いて4連のしかも200系3連接車がやって来ました。さて、この連接車ですが、3連化が進むなかで先行きが不透明でした。まさか連接車部分をばらして3連化するのもナンセンスです。220系は廃車が目に見えていましたが、この連接車も?。

 

5.ク202+サ101+サ201+モ275 (大泉東~長宮:1991年11月)

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 この日220系は撮影できませんでしたが、連接車の撮影ができたので、まずまずの収穫でした。しかし、これ以上ここに居ても同じ列車しか来ないので、この後は寄り道しながら東海道線で東京へ戻ることにしました。