ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第544話 1992年小湊:頑固な昭和堅気!!

今回は1992年の小湊鉄道の話題です。

小湊鉄道の訪問は今回が初めてで、私にとってはこの時点で一番最後まで未訪問で残っていた非電化私鉄でした。どうして一番最後になってしまったのかは、車両が面白くなかったからです。なぜなら、小湊鉄道は中小ローカル鉄道には珍しく、車両の近代化が早く、当時主力だったキハ200形は、その30年前から既に主力であり、その後は現在に至るまで、全く変化なし。1992年当時キハ200形以外の車両は、当時辛うじてキハ5800が1両だけ在籍していましたが、実態は休車状態で走ることはありませんでした。

しかも、キハ200形は14両も在籍していますが、みな同じ顔で、国鉄キハ20系京成電車をたして割った様なつまらない顔です。

しかし、初回の東京オリンピックオイルショック、バブル景気など全く関係なかったのか、60年もの間全く変化なしで、我が道を貫いた結果、いつの間にか時代から取り残され、「頑固な昭和堅気」になってしまいました。

ところが現在ではその古臭さが逆にもてはやされる結果になっています。

 

1.キハ200形2連 (上総大久保~月崎:1992年11月)

f:id:kk-kiyo:20200606144337j:plain

 この撮影も、バイト仲間だった同好の友人と一緒で、どこで撮影するのが良いのかもわからぬまま適当に出向きました。ところがこの日は休日だったので、てっきりすいているのかと思っていたら大きな間違いでした。その頃は空前のハイキングブームで、小湊鉄道沿線は関東近辺のちょうど良い日帰りハイキングコースになっており、始発の五井からいきなり通勤ラッシュ並みの大混雑に巻き込まれてしまいました。

 

2.キハ200形2連 (月崎~上総大久保:1992年11月)

f:id:kk-kiyo:20200606144319j:plain

 ほとんどの人は、養老渓谷まで行くのでしょうが、我々はハイキングに来たわけでもなく、適当に誰も降りない上総大久保で下車しました。

 上総大久保は、ここがいったいどこなのかも良くわからず、とりあえず列車が良く見える場所に移動しましたが、撮影地としては結構無難な場所でした。

 

3.キハ200形3連 (上総大久保~月崎:1992年11月)

f:id:kk-kiyo:20200606144259j:plain

しかし、車両がみな同じなので、イマイチ気合が入りませんでしたが、やって来たのはなんと3連でした。普段は当然単行なのでしょうが、この日は乗客も多く、我々が乗ってきた列車は2連でしたが、それでもさばき切れない状況になって来たのでしょうか。 

 

4.キハ200形3連 (上総大久保~月崎:1992年11月)

f:id:kk-kiyo:20200606144449j:plain

 まさか3連が来るとは思いませんでしたが、幸い軌道から離れた場所から撮影していたので、余裕で連写です。

 

5.キハ200形3連 (月崎~上総大久保:1992年11月)

f:id:kk-kiyo:20200606144546j:plain

 小湊鉄道のキハ200形はオリジナル車両ですが、DMH17を搭載した国鉄制式気動車の仲間には代わりありません。よって、必要に応じて増結できます。

 

6.キハ200形2連 (上総大久保~月崎:1992年11月)

f:id:kk-kiyo:20200606144356j:plain

 この列車は、上総中野折返しの2連です。このあとの列車運用がお楽しみでした。

 

7.キハ200形2連 (上総大久保~月崎:1992年11月)

f:id:kk-kiyo:20200606144425j:plain

 ちなみに、1992年頃の上総大久保辺りはこんなところでした。何もないところですが、恐らく今も変わっていないはずです。

第543話 1992年京福(越前):とりあえず見に行く(その3)

京福福井支社は、電車がつまらないので足が向かなかったわけですが、電気機関車は別でした。すでに貨物輸送はなく、電気機関車は保線や除雪用または車両の入換用に残っていたもので、用途は福井鉄道北陸鉄道などと同じでした。

 

1.テキ522+テキ521 (新福井~福井口:1992年11月)

f:id:kk-kiyo:20200603214739j:plain

 ところで、車庫内に居ると思っていた機関車がおらず、居場所探しです。幸い車庫近くの本線脇の側線にお目当ての車両がいました。

ご覧の通り、冬でもないのに除雪装置が付いており、もう専属の除雪車になっていました。

 

2.テキ521 (福井口~新福井:1992年8月)

f:id:kk-kiyo:20200603214759j:plain

 テキ521形(注1)は2両在籍しました。2両共双頭式のラッセル車になっていましたが、2両共車籍を有していました。この車両は日立製作所製の凸型25t機で全長は9.7mとかなり小型です。

 

3.テキ522 (福井口~新福井:1992年8月)

f:id:kk-kiyo:20200603214828j:plain

 (注1)テキ521形の車歴

京福テキ521,522:1949年日立製作所

 

4.テキ6 (福井口:1992年8月)

f:id:kk-kiyo:20200603214847j:plain

 福井口車庫の入換機として使用されていたテキ6は、1985年訪問時は黒一色塗装でしたが、今回は白帯を巻いていました。オデコの社章も誇らしげです。「急」の標識は何を意味するのか分かりませんが、1920年生まれの72歳は、まだまだ元気そうです。

 

5.テキ6 (福井口:1992年8月)

f:id:kk-kiyo:20200603214912j:plain

 テキ6の車歴は第82話をご覧下さい。1992年時点、テキ6は車籍がありました。しかし、翌1993年には車籍を解かれて備品扱いとなりますが、1998年には車籍が復活し、イベントではありますが、本線走行も果たしました。その後も動態保存は続いているのかわかりませんが、なかなかくたばらないこの車両を私は「ゾンビ機関車」と呼んでいます。

 

6.テキ9廃車体 (福井口:1992年11月)

f:id:kk-kiyo:20200603214948j:plain

 そして、福井口車庫の廃品置き場には、テキ9の廃車体が倉庫として残存していました。この廃車体は鋼体化されていますが、前面の曲面、窓枠のR、円形の側窓など、現役のテキ6よりも原型に近く、廃車体とは言え貴重な存在でした。

さて、今回はとりあえず見に行った福井口の車庫の様子をお伝えしましたが、11月の訪問時は、沿線撮影に向かいました。その様子は別途お伝えします。

第542話 1992年京福(越前):とりあえず見に行く(その2)

今回も、とりあえず見に行った京福福井支社の続きです。

とりあえず見に行った理由は、正直なところ天気が悪かったからです。実は、この日も最初は福井鉄道を訪問したのですが、天気がイマイチだったので、一通り車両を確認した後は、走行撮影を諦めて田原町から京福越前線に乗り換えました。

 

1.モハ3005+モハ3006 (田原町:1992年8月)

f:id:kk-kiyo:20200603214417j:plain

 ここは福井鉄道京福三国芦原線のジャンクションである田原町です。写真の左側にはちょっとだけ福井鉄道の引き上げ線が写っていますが、現在ここは2路線がつながり、福井鉄道えちぜん鉄道の相互乗り入れ区間になっています。現在は2社とも直通用のLRVを保有して運行されていますが、この頃は仲が悪かったのか、どちらの駅も積極的に乗り換え案内も出さないほどの困った駅でした。

 

2.モハ3001+モハ3002 (福井口:1992年8月)

f:id:kk-kiyo:20200603214447j:plain

さて、今回は元南海電鉄の車両です。この車両は南海電鉄南海本線の元特急車だった11001形です。南海電鉄のDC1500V昇圧により、1974年に譲渡されたDC600V車でした。初期のカルダン車であり、京福電鉄福井支社ではモハ3001形(注1)と称し、クロスシートのまま2連固定の初のカルダン車となりました。 

 (注1)モハ3001形の車歴
京福モハ3001~3006←南海モハ11009~11014:1956年帝国車輌製
京福モハ3007,3008←南海モハ11001,11008:1954年帝国車輌製

 

3.モハ2101、モハ3007 (田原町:1992年8月)

f:id:kk-kiyo:20200603214216j:plain

モハ3001形はモハ3007+モハ3008のみオリジナルは前面貫通タイプでしたが、京福福井支社移籍後の車体外板更新時に非貫通の湘南タイプに改造されました。他のモハ3001形とはやや異なる、傾斜の無い前面形状となり異彩を放ってました。また、モハ3001形は1990年にワンマン化され、その際に運転台寄りの側扉を運転室側に移設しました。このため、側窓の配置が変則的になりました。

 

4.モハ251+モハ252 (福井口:1992年11月)

f:id:kk-kiyo:20200603214508j:plain

 1992年当時、辛うじて京福福井支社オリジナルとして残っていたのがモハ251形でした。この車両の車歴は、第82話をご覧下さい。1985年の訪問当時は4両のモハ251形と同型のモハ241形も4両いましたが、モハ2201形の導入によりにより一挙にモハ251、252の2両だけになってしまいました。

 

5.モハ253 (福井口:1992年8月)

f:id:kk-kiyo:20200603214525j:plain

 福井口の車庫内には1991年に廃車されたモハ253が残存していました。このモハ253は元モハ251です。1988年にモハ252とモハ253がワンマン化された際に、モハ251とモハ253の車号が入れ替り、元のモハ253がモハ251として生き残りました。

また、ワンマン化されたモハ251Ⅱとモハ252はロングシート化されました。

 

6.モハ271 (福井口:1992年11月)

f:id:kk-kiyo:20200603214548j:plain

 そして、1987年に廃車となり、もういないはずのモハ271が焦げ茶色に塗られて車庫内にいました。この車両の車歴も第82話をご覧下さい。

ところで、この車両は遡れば元小田急電鉄の創業時のモハ1形の成れの果てです。相模鉄道を介して京福福井支社にやってきましたが、その希少価値を買われて残ったわけではなさそうで、この時は倉庫代わりに使用されていた様ですが、その後解体されました。

第541話 1992年京福(越前):とりあえず見に行く

1992年は3回も北陸へ行きました。その目的の大半が立山砂防だったわけですが、当時の北陸は今の様に新幹線で簡単に行けるところではなく、なにより電車賃もかかるので、貧乏性の私は「行ったついでに」必ず他にも寄り道をしました。

ところが毎回通過していたのが京福電鉄福井支社です。あまりにも無視し続けるのも失礼と思い、「とりあえず見に行く」ことにしました。

 

1.モハ2015、モハ2111 (福井口:1992年11月)

f:id:kk-kiyo:20200603213941j:plain

京福福井支社を無視していた理由は、ここまで来て阪神や南海の使い古された電車を見てもしょうがないと思ったからです。実際、在籍車両のほとんどが阪神、南海の中古車でした。 京福福井支社を最初に訪問した1985年には、まだ元東急や元小田急の車両がいましたが、1992年当時はそれらもいなくなり、オリジナルの車両もモハ250形が3両だけになっていました。1985年訪問時様子は、第82話をご覧願います。

 

2.モハ2107+モハ2108 (福井口:1992年8月)

f:id:kk-kiyo:20200603214028j:plain

 まずは、元阪神電車です。このグループは1985年の訪問時には、元阪神5101形の車体にモハ1001形の機器を流用したモハ1101形と元阪神5231形、5251形の車体にモハ2001形や京阪電鉄から譲受した機器を流用したモハ2101形が既に主力として在籍していました。今回の訪問時も相変わらずでしたが、モハ2101形は輸送力の見直しから片運の2連を解いて両運車化されたものや、貫通化されて少し状況が変わっていました。そして、新たに阪神から元3301形を譲受し、国鉄101系の台車や機器と組み合わせ、京福福井支社初の冷房車としてモハ2201形4両が増備されていました。

 

3.モハ2113+モハ2106 (田原町:1992年8月)

f:id:kk-kiyo:20200607055748j:plain

写真のモハ2113はたしか両運車で、後方の片面が非貫通でしたが、この列車を見ると後方に片運車であるモハ2106が連結されており、何か変化があった感じです。

実は、1992年時点でモハ2101形(注1)は以下の改造を受けていました。
・元々両運だったモハ2113~モハ2116の非貫通側妻面を貫通化
・片運2連だったモハ2111+モハ2112が両運化
・モハ2113(上の写真)が冷房化
・モハ2101形全車ワンマン化

 

4.モハ2113 (福井口:1992年8月)

f:id:kk-kiyo:20200603214049j:plain

 ちょうど福井口の車庫に、先ほど2連で走っていたモハ2113が入庫していました。 

こちらの妻面はちょっと変な顔つきですが、非貫通を貫通化したものです。連妻の貫通路の開口高さに合わせたためか、前後の顔が少し違います。そして、2101形ではなぜかこの車両だけが冷房化されていました。

 

5.モハ2106 (福井口:1992年8月)

f:id:kk-kiyo:20200603214116j:plain

写真のモハ2016は先ほどまでモハ2113と2連で走っていましたが、モハ2113と離れると片運車なので営業できません。本来この車両はモハ2105とコンビを組んでいるはずですが、この日はモハ2105は検査なのか姿が見えません。しかし、連結運転できる両運車が増えたことで、この様な片運車の片割れも稼働率が上がったようです。

 

6.モハ2113 (福井口:1992年8月)

f:id:kk-kiyo:20200603214139j:plain

さて、モハ2101形の車歴は見た目からいたって単純そうですがさにあらず、第82話でも若干触れましたが、とてもややこしく、全てが同じ中古車改造でありながら、モハ2101~2107は新車名義で、モハ2108~2116は改造名義です。しかも、モハ2108~2116は機器を流用した旧モハ2001形の名義を引き継いでいました。どうしてこうなってしまうのか?やはり認可上の手間を省くためでしょうが、新車名義も改造名義も、全く実態に合っていないわけで、どうでも良い話ですがスッキリしません。
モハ2001形と言えば、元南海1201形であり、これまた非常に厄介な車歴の主です。
(注1)モハ2101形の車歴
①新車名義
京福モハ2101,2102:1982年武庫川車輌製(実態:阪神5239,5240(機器:モハ2011,2012))
京福モハ2103,2104:1982年武庫川車輌製(実態:阪神5235,5236(機器:モハ2013,2014))
京福モハ2105,2106:1983年武庫川車輌製(実態:阪神5231,5232(機器:モハ2005,2106))
京福モハ2107:1983年武庫川車輌製(実態:阪神5233(機器:モハ2015))
②改造名義
京福モハ2108←京福モハ2006←南海モハ1216:1936年日本車輌製(実態:阪神5234(機器:モハ2006):1983年武庫川車輌製)
京福モハ2109←京福モハ2004←南海モハ1238←南海モハ1562←南海モハ1238←南海モハ1564←南海モハ1238←南海クハ1238←南海クハ1913:1941年汽車会社製(実態:阪神5237(機器:モハ2004):1984武庫川車輌製)
京福モハ2110←京福モハ2010←南海モハ1228←南海モハ1052:1937年汽車会社製(実態:阪神5238(機器:モハ2010):1984武庫川車輌製)
京福モハ2111←京福モハ2009←南海モハ1221:1937年汽車会社製(実態:阪神5251(機器:モハ2009):1984武庫川車輌製)
京福モハ2112←京福モハ2008←南海モハ1220:1937年汽車会社製(実態:阪神5252(機器:モハ2008):1984武庫川車輌製)
京福モハ2113←京福モハ2007←南海モハ1219:1937年汽車会社製(実態:阪神5253(機器:モハ2007):1985年武庫川車輌製)
京福モハ2114←京福モハ2001←南海モハ1225←南海クハ1904:1937年川崎車輌製(実態:阪神5254(機器:モハ2001):1985年武庫川車輌製)
京福モハ2115←京福モハ2003←南海モハ1223←南海クハ1906:1937年川崎車輌製(実態:阪神5249(機器:モハ2003):1985年武庫川車輌製)
京福モハ2116←京福モハ2002←南海モハ1226←南海クハ1903:1937年川崎車輌製(実態:阪神5250(機器:モハ2002):1985年武庫川車輌製)
なお、モハ2108~モハ2116は、モハ2001形の改造名義であるため、書類上の竣工は1972年です。それにしても、モハ2109の車歴は遡るととんでもない変遷を辿っています。 

上記の車歴の如く、モハ2101形は、成りは阪神ジェットカーですが、実態は戦前製の南海電車というわけがわからな存在でした。まあ、どうでもよい話ですが、万が一、ふつうの人にこの電車を説明する時は、「元大阪の方で走っていた電車」という程度が無難なようです。

 

7.モハ1102 (東古市:1992年11月)

f:id:kk-kiyo:20200605184824j:plain

モハ1101形(注2)は、1981年に京福福井支社が最初に元阪神電車の車体とモハ1001形の機器を流用した新車名義の車両で、2両在籍しました。この車両は元々が両運車だったので、導入にあたり車体の改造は2ドア化だけで済みました。

(注2)モハ1101形の車歴

京福モハ1101,1102:1981年武庫川車輌製(実態:阪神5108,5109(機器:モハ1001,1002))

 

第540話 1990,92年東急(世田谷):玉電の置き土産

今回は大手の東急電鉄ネタです。

私は入社当時、東京の蒲田に勤務しておりました。京浜東北線で通勤していましたが、蒲田駅の西口には東急蒲田駅があり、当時は東急らしからぬ強烈なボロ電車を毎日の様に横目で見ていました。

 私が学生の頃に、「目蒲線物語」というとても変な歌がはやりました。この歌は、東急電鉄なのにどうして目蒲線の電車は銀色(ステンレスカー)ではなくボロいのかという素朴な疑問の歌でした。確かに東横線や新玉線に比べると目蒲線や池上線の電車は雲泥の差でした。私の広島時代の高校の同級生が東京暮らしを始めた際に、東横線目蒲線は違う会社の路線と思っていたくらいです。

しかし、そのボロ電車たちも平成になると一掃されてしまい、気が付くと、まともな記録写真は一枚もありません。またもや「灯台下暗し」をやってしまいました。そんな後悔の最中に、ハッと気づいたのが、同じく東急のボロ電車だった世田谷線です。

今回は、決してローカル線ではありませんが、都会の秘境的存在だった世田谷線の話題です。

 

1.上町車庫全景 (上町:1990年11月)

f:id:kk-kiyo:20200530133248j:plain

私は大手私鉄車両には興味がなく、もともと路面電車にもあまり興味はありませんでしたが、広電の路面電車に接した以降、多少路面電車にも興味を持つようになりました。しかし、世田谷線とはなかなか縁がなく、この1990年の訪問で初めて実態を知りました。

世田谷線の車両は更新こそされていましたが、結構古く、すべてが玉電の血統でした。よって、世田谷線は専用軌道にもかかわらず、全車が路面電車タイプです。1969年の玉電廃止後は、路線の規模が縮小されて廃車が多数発生し、一部の車両は江ノ電にも身売りされるなど車歴的にも興味深いです。

 1990年当時は、3形式の車両が在籍していました。全ての列車は2連で運用されていましたが、どの車両も元は単行運転用の両運車で、玉電時代の1967年~1969年に一部を残して片運2連化されました。

 

2.デハ154+デハ153 (松原~下高井戸:1990年11月)

f:id:kk-kiyo:20200530133311j:plain

 デハ150形(注1)は、当時世田谷線では一番新しい車両でした。とは言っても1964年製です。この電車が製造された頃はまだ玉電が健在でした。デハ150形は、側面腰板にコルゲートの入ったSUS鋼板を貼り付けているので、もしやステンレスカーかと思われますが、これは1983年の車体更新時に、従来の耐候性高張力鋼板をSUS鋼板に張り変えたもので、ベースは普通の鋼製車です。

(注1)デハ150形の車歴

・東急デハ151~154:1964年東急車輛

 

3.デハ76+デハ75 (松原~下高井戸:1990年11月)

f:id:kk-kiyo:20200530133329j:plain

 デハ70形(注2)は、世田谷線では一番古い車両で戦前製です。戦前製とは言っても、戦争直前の製造だったため、戦争に被ってしまい完成が戦後になった車両も含まれます。玉電縮小時には、歳の若い80形や200形が廃車されましたが、この70形は全車8両が生き残りました。

 

4.デハ78+デハ77 (松原~下高井戸:1990年11月)

f:id:kk-kiyo:20200530133401j:plain

 70形は新製時は正面3枚窓で屋根周りに雨樋が付いたおとなしい車両でしたが、1978年~1982年に実施された車体更新時に正面4枚窓で張り上げ屋根のスタイルとなりました。この際に前照灯がオデコ1灯から腰部2灯化されましたが、なぜかデハ77+デハ78はオデコ1灯で残りました。

 

5.デハ74+デハ73 (松原~下高井戸:1990年11月)

f:id:kk-kiyo:20200530133345j:plain

1990年当時の世田谷線には、まだ新車の導入など全く話を聞きませんでしたが、その後1994年~1997年にデハ150形を除く全車が新製台車に交換されてカルダン化されます。この中途半端な投資には驚きました。非冷房なのにいったいいつまでこのボロ電車を使うのか?ところが、その後投入された新車デハ300形に、この台車が流用となりました。

 

6.デハ74+デハ73 (宮の坂~山下:1992年10月)

f:id:kk-kiyo:20200530133448j:plain

(注2)デハ70形の車歴

・東急デハ71~73:1943年川崎車輌

・東急デハ74,75:1946年川崎車輌

・東急デハ76~78:1944年川崎車輌

 

7.デハ86+デハ85 (宮の坂~山下:1992年10月)

f:id:kk-kiyo:20200530133426j:plain

 デハ80形(注3)は、どこかで見たような車両ですが、この車両は江ノ電にもいました。

元々同型車が28両もいましたが、玉電縮小時に余剰廃車となり、10両が世田谷線に残りました。この車両は、完全新製車は6両のみで、他の22両は木造車の鋼体化名義で機器も流用されていました。このため、世田谷線に残った10両は、デハ81~86が新製車両、デハ87~90が鋼体化車両で、このうち、鋼体化車両のデハ87~90が1970年に江ノ電に譲渡されました。

(注3)デハ80形の車歴
・東急デハ81~84:1950年日立製作所
・東急デハ85,86:1950年東急車輛

世田谷線は、「玉電の置き土産」ですが、わずか5km程の路線にもかかわらず、専用軌道なので大東急の隠れ蓑として健在です。現在は車両も置き替わり、ボロ電車ではなくなってしまい、もう「玉電」ではなくなってしまった感じです。

第539話 1990年富士急:観光はバス任せ?(その2)

引き続き、1990年4月の富士急行の話題ですが、この日の目的はモハ5700形の中にいた前面2枚窓で非貫通の、モハ5707+モハ5708の走行を撮影するためでした。

 

1.モハ5707+モハ5708 (寿~三つ峠:1990年4月)

f:id:kk-kiyo:20200530132812j:plain

そして、お目当てのモハ5707+モハ5708がやって来ました。

4年前の訪問時は、残念ながらモハ5707+モハ5708の走行は撮影できませんでした。この編成だけ、前面が非貫通でいかにも異端車的風貌ですが、正真正銘、元小田急デハ2200形トップグループで、小田急初の直角カルダン車だったデハ2212+デハ2211でした。

 

2.モハ5707+モハ5708 (寿~三つ峠:1990年4月)

f:id:kk-kiyo:20200530132739j:plain

この頃の富士急はすでに営業車は全てカルダン車になっており、不本意ではありますが、とうとう初期のカルダン車を追い掛けるようになってしまいました。

 

3.モハ5707+モハ5708 (寿~三つ峠:1990年4月)

f:id:kk-kiyo:20200530132832j:plain

 この車両は、もともと直角カルダン車でしたが、富士急行に譲渡後しばらくして、WN平行カルダンの台車に交換されました。

 

4.モハ5707+モハ5708 (寿~三つ峠:1990年4月)

f:id:kk-kiyo:20200530132429j:plain

 小田急にもこんな前面2枚窓の車両がいたわけですが、よくぞ貫通化されずに残っていたものです。しかも廃車後も富士急行で生き延びたとは、結構強運な車両です。

 

5.モハ5700形2連 (寿~三つ峠:1990年4月)

f:id:kk-kiyo:20200530132931j:plain

 この車両は車号が確認できませんでしたが、側窓がドア間3個なので、元小田急デハ2300形ロマンスカーです。こうなってしまうとロマンスカーの片鱗も伺えませんが、現在の小田急ロマンスカーの先祖的存在です。

 

6.モハ5700形4連 (寿~三つ峠:1990年4月)

f:id:kk-kiyo:20200530132953j:plain

 この日は休日だったので4連が登場しました。この列車も車号が読み取れませんでしたが、手前の2両は元小田急特急車のデハ2300形で、後ろの2両は元小田急2200形増備車です。

 

7.モハ5700形2連 (寿~三つ峠:1990年4月)

f:id:kk-kiyo:20200530133019j:plain

 さて、このモハ5700形もかなりくたびれて見えました。よって後継車ですが、当時は適当な車両が小田急にはありませんでした。可能性としては東急7000系、西武401系、801系、京王5000系などが考えられましたが、結局一番近場の京王5000系が4年後に大量導入され、こんどは京王富士急行線になってしまいます。

 

第538話 1990年富士急:観光はバス任せ?

1990年4月、久々に富士急行を訪問しました。1986年以来、4年ぶりの訪問となります。この4年間は特に車両の変化もなく、相変わらずモハ5700形が主力で小田急富士急行線のごときでした。しかし、4年前と比べて車両はかなりくたびれている様で、富士山や河口湖、そして富士急ハイランドへの観光輸送はどうなってしまったのか?もはや「観光はバス任せ」と言った感じでした。

実際、私もプライベートで河口湖に行った際は、新宿から高速バスを利用しました。高速バスの方が、早い、安い、快適と3拍子揃っており、どう考えてもバスが有利でした。

 

1.モハ3102+モハ3101 (田野倉:1990年4月)

f:id:kk-kiyo:20210306054152j:plain

 そんなわけで、ローカル輸送に落ちぶれてしまった様でしたが、辛うじて往年のロマンスカーモハ3100形は健在でした。しかし、この車両も34歳となり、日本初の狭軌用WNカルダン車も油が切れて来たようです。しかも非冷房では夏場はネックです。

 

2.モハ3102+モハ3101 (寿~三つ峠:1990年4月)

f:id:kk-kiyo:20200530132851j:plain

 この日は、モハ3100形が運用されていました。そろそろ観光シーズンでしたが、この車両では高速バスに軍配が上がってしまいます。この頃はJRからの乗り入れ車も休日は臨時の快速や急行が乗り入れてきましたが、165系115系なので、新宿から直通するとは言え、乗りたい列車ではありませんでした。鉄道利用はバスの指定が取れなかった人の救済みたいな感じです。

 

3モハ5002+モハ5001 (寿~三つ峠:1990年4月)

f:id:kk-kiyo:20200530132529j:plain

 富士急行唯一の冷房車モハ5000形も走っていました。この車両も結局増備されないままもう15歳でした。(ちなみに現在は46歳です。)鉄道車両の15歳は、まだまだ若い方ですが、JR115系が少し出世した様な車両なので、これを観光列車とは言えません。そう言えば、この電車は「お買い物電車」と言う名目でした。

 

4.モハ3603+モハ3602 (河口湖:1990年4月)

f:id:kk-kiyo:20200530184040j:plain

 河口湖の留置線には、吊掛車のモハ3600形が2両留置されていました。これも4年前からこのままの様子ですが、社線内の貨物牽引用に残っていたそうです。しかし、実態は貨物輸送など全くなく、4年前から寝たきり老人です。

 

5.ト104+ワフ1 (河口湖:1990年4月)

f:id:kk-kiyo:20200530132316j:plain

 これも河口湖の留置線にいた車両ですが、古めかしい木製の無蓋貨車と鋼製の有蓋貨車(注1)です。ト101は開業時からいる古い車両で、元は10両仲間がいましたが、1両だけ残っていました。ワフ1は1979年に南海電鉄から譲受した元南海鉄道の木造有蓋車が前身です。いずれも貨物輸送なきあとは失業状態です。

 

6.ワフ1 (河口湖:1990年4月)

f:id:kk-kiyo:20200530132346j:plain

 貨物輸送もないのに、なぜか有蓋貨車がもう1両いました。この車両はワフ1と同型車です。塗装が錆びてボロボロですが、この有蓋貨車はよく見ると結構不思議な車両です。緩急車を兼ねているので、車端に窓付きの車掌室が付いていますが、反対側の車端はオープンデッキとなっており、貨物室を通行できるようにデッキにドアが付いています。

(注1)ト101形、ワフ1形の車歴

・富士急ト104←富士山麓ト104:1929年新潟鐵工所

・富士急ワフ1←南海電鉄ワブ513←南海鉄道 :1930年田中車輌製

・富士急ワフ2←南海電鉄ワブ517←南海鉄道 :1930年梅鉢鉄工所製