ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第551話 1992年立山砂防:夏、樺平を目指す!(その4)

立山砂防軌道の運行ダイヤによると、お昼頃は列車の運行はありませんでした。

よって、この時間帯に長大トンネルを抜けて鬼ヶ城連絡所まで戻りました。そして、この先は深い渓谷となります。

 

1.妙寿スイッチバック (妙寿スイッチバック:1992年8月)

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 来る時はほとんどまわりの景色を見ていなかったのですが、妙寿スイッチバックは渓谷にへばり付くように敷設されており、改めてすごい場所です。しかし、来る時はこんな場所を歩いた記憶がなく、どうしたものかと思いましたが、よく考えると来る時はこの場所の軌道を歩かず、スイッチバックを短絡する獣道を歩いていました。その獣道ですが、急な斜面に真っすぐに敷かれており、這って登った様な・・・その先は道ではなく梯子になっていました。「行きはよいよい帰りは怖い」とはこのことです。よって、帰りは軌道を歩きました。

 

2.午後の上り続行列車 (中小屋:1992年8月)

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まだお昼休みの時間なので列車は来ません。よって、どんどん下って行くと中小屋連絡所まで来てしまいました。このまま進むともう千寿ケ原に戻ってしまいそうなので、ここらで一服です。

しばらくすると、午後の続行列車が上がって来ました。先頭に立つ機関車は、前回現場の皆さんが「箱乗り」していた「鳶山号」です。

 

3.午後の上り続行列車 (中小屋:1992年8月)

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 今回はちゃんと人車を連結していたので、皆さんおとなしく車内に乗車していました。

 

 4.上りの単機回送 (中小屋:1992年8月)

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お昼休みを過ぎて、再び列車が活発に動き始めました。木立の中を、機関車の単機回送が山を上って行きました。

 

5.わさび谷トンネル (空谷:1992年8月)

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 中小屋からはラストスパートです。空谷の素掘りトンネルを抜けて木立の中を進みます。

 

6.立山砂防軌道沿線地形図(引用:国土地理院1/25000地形図「小見」昭和52年発行)

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妙寿スイッチバック~千寿ケ原までの地形図です。この地形図も昭和52年発行で古いものです。私が訪れた時点と軌道のルートが少し異なっています。また、現在は更に地形が変化し、中小屋~桑谷間は軌道ルートがかなり変更されて、見所だった場所のほとんどがトンネル化されています。

 ※この地図の右上の部分に称名川に沿って軌道の標記が記載されていますが、そのような軌道は存在せず、どうやら誤記の様です。長崎の方で間違ってJRのトンネルに穴をあけてしまい、掘削機が走行中の電車と接触したという事故がありましたが、それも国土地理院の地図が原因だったとか。「弘法も筆の誤り」と言いますが、国土地理院の地図も鵜呑みに信じるのは危険です。

 

7.堀川工機製?モーターカー(Tm-251)の廃車体 (千寿ケ原:1992年8月)

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 この日は、午後2時過ぎには千寿ケ原に戻りました。千寿ケ原には、廃車となった堀川工機製?のモーターカーが留置されていました。

樺平まで往復24kmの道程でしたが、朝から8時間以上もぶっ続けで歩きました。しかしまだ時間も早いので、これから富山地鉄の撮影に向かいました。我ながら異常なほど元気でしたが、元気ついでに、翌日は何と「小口川第三発電所」へ、7年前のリベンジに向かいました。その様子は改めてお伝えします。

 

さて、話は変わりますが気になることがあったので、ついでにお伝えします。先日ネットで長者丸(諜邪丸/cjm)さんの「立山砂防軌道北陸重機製動力車一覧表」を拝見させて頂きました。ところが「北陸重機の納入実績表」と異なる部分があり、少々悩んでいます。

 

8.北陸重機の納入実績(抜粋)立山砂防軌道関係

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 上記がその納入実績表の抜粋です。これは昭和58年頃の資料ですが、納入先が北陸地方建設局と記載されている部分が立山砂防軌道に納入された車両です。この資料によると昭和45年に5tDL2両とMC1両が納入されています。DL2両は堀川工機のOEMと思われますが、不可解なのがMCです。昭和45年に堀川製と言われるTm-051(写真7の車両)が納入されましたが、これも堀川工機のOEMで北陸重機が納入したものなのか?誤記なのか?。そして、昭和47年の納入車両ですが、5tDL2両とMC2両が納入されています。長者丸(諜邪丸/cjm)さんの「立山砂防軌道北陸重機製動力車一覧表」によると、昭和47年は5tDL1両(5-Tld-251→Tld-052)とMC1両(Tm-251)が納入となっています。現地の車両を見た限り、長者丸(諜邪丸/cjm)さんの「立山砂防軌道北陸重機製動力車一覧表」の通りだと私も思いますが、北陸重機納入実績表の誤記なのか?

第550話 1992年立山砂防:夏、樺平を目指す!(その3)

七郎のスイッチバックで休憩していると、頻繁に列車がやって来ました。この場所は眺めが良く、はるか先まで見通せて、ズームレンズがあれば何枚でも連写でき、思わぬフィルムの浪費をしてしまいました。

 

1.七郎谷付近を下るモーターカー (七郎:1992年8月)

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 モーターカーはあっという間に七郎スイッチバックを駆け下りていきましたが、ズームで追い掛けると、まだあんなところを走っていました。この写真は、七郎スイッチバックから俯瞰撮影したものですが、この場所からは延々と撮影ができます。

 

2.七郎スイッチバックを下る混合列車 (七郎スイッチバック:1992年8月)

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 続いて、朝一の続行列車の折返しが下ってきました。写真の後方には豪快なサブ谷砂防ダムが写っています。河原には一軒家ほどの大きさがある岩が転がっています。増水時はこんな大きな岩が転がってくるとは、やはりここは危険地帯です。

 

3.七郎スイッチバックを下る混合列車 (七郎スイッチバック:1992年8月)

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 ここは標高差があり、七郎スイッチバック、グス谷スイッチバック、サブ谷スイッチバックの合計8段のスイッチバックが連続しています。写真では列車は河原の脇を走っている様に見えますが、列車の位置は河原から30mくらい高い場所です。

 

4.七郎橋を渡る混合列車 (七郎:1992年8月)

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山を下る混合列車も、七郎スイッチバックからズームレンズで追い掛けてみました。肉眼では米粒大でどこを走っているのかわらないくらいの大きさです。


5.河川敷を下る混合列車 (七郎:1992年8月)

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列車は 鬼ヶ城へ消えて行きました。さて、鬼ヶ城と言えば、あのトンネルをまた通らないと戻れません。500mもあるトンネルなので、トンネルの中で列車と合わないようにしなければなりませんが、立山砂防軌道はお昼時間は列車が走らないので、その時間帯が勝負です。まだ昼前でしたが、ここで絶景を見ながら早めの昼食(鱒のすし弁当)を食べて栄養補給です。

 

6.七郎スイッチバックを上る混合列車 (七郎スイッチバック:1992年8月)

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 スイッチバックを下りて、今度は下から七郎スイッチバックを仰ぎました。ちょうど写真の真ん中あたりに、上りの列車が小さく写っています。この写真の左上には、スイッチバックの最上段が見えますが、つい先ほどは、そこから俯瞰撮影をしていました。

ご参考までにこの近辺の地図を添付します。

 

7.立山砂防軌道沿線地形図(引用:国土地理院1/25000地形図「立山」昭和52年発行)

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 ちなみに、この地形図は昭和52年発行の古いものです。砂防軌道は非常にラフに描かれています。そして、現在は地形も変化して軌道ルートも変わっていますので、あくまでも当時の撮影場所を記した参考という程度に留めて下さい。また、大変危険な場所なので、現地は立入り禁止になっています。どうしても現地を見たい人は、立山砂防博物館が主催する現地見学会に応募して当選して下さい。(ただし、当選しても天気次第では見学会は中止となります。)

 

第549話 1992年立山砂防:夏、樺平を目指す!(その2)

樺平で一番列車の続行を撮影した後は、体力を消耗しないうちに下山することにしましたが、まだ午前9時過ぎです。来る時は一心不乱に登って来ましたが、プラプラ歩るいて撮影しながら下ることにしました。

 

1.上りモーターカー (グス谷スイッチバック:1992年8月)

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帰り道のハイライトはグス谷のスイッチバックです。 ここはジオラマの一場面の様なロケーションでしたが、午前中はΩカーブに陽が射さず撮影はスイッチバックが主体となります。ちょうどモーターカーが上って来ました。

 

2.スイッチバック最上段のモーターカー (グス谷スイッチバック:1992年8月)

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 日差しが強く、かなり絞り込まないと光が跳ねてしまいます。モーターカーはグス谷スイッチバックの最上段まで登ってきました。

このモーターカーは8人乗りですが、満員御礼状態でした。

 

3.鬼ヶ城俯瞰 (グス谷:1992年8月)

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 この写真はグス谷スイッチバックの最上段から鬼ヶ城方向を俯瞰したものです。

登って来るときは、振り向きもしなかったので、気が付きませんでしたが河原からは、かなりの高低差がありました。下を流れるのは常願寺川でその対岸には、水平方向に敷設された軌道が見えます。そして写真左側の山肌が崩落した一帯が鬼ヶ城です。

 

4.下りモーターカー (七郎スイッチバック:1992年8月)

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 今度は、すぐにモーターカーが戻ってきました。この場所はスリップ注意ではなく、落石注意です。このモーターカーは樺平のデルタ線で折り返してきたのか、方向転換しています。モーターカーは機関車と違いトランスミッションの関係でバック運転は厳しかったようです。

 

5.下りモーターカー (七郎スイッチバック:1992年8月)

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 モーターカーのリアウインドウは全開です。

モーターカーを追い掛けると、スイッチバックの先には滝がありました。水は冷たく、真夏の炎天下でしたが癒されました。

 

6.下りモーターカー (七郎スイッチバック:1992年8月)

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 モーターカーは一気に下って行きました。この場所は日差しを遮るものがなく、容赦なく直射日光を浴び続けましたが、カラッとして時々吹く風が心地よかったです。

 

第548話 1992年立山砂防:夏、樺平を目指す!

1992年の夏のある日、上野から夜行急行「能登号」に乗り、立山砂防を目指しました。

富山からは、裏技だった富山地鉄の始発の前に走る、JRから直通の臨時急行「リゾート立山号」に乗り換えて、午前6時前に立山に到着しました。

ここから一気に砂防軌道を遡上です。この日の目的地は樺平(かんぱだいら)でした。樺平はあの18段スイッチバックの麓です。それまでは桑谷までしか踏破していませんでしたが、千寿ケ原から樺平までは桑谷の更に2倍の距離があり12kmです。砂防軌道の一番列車が来るまでに目的地に到達しなければならず、よって気合を入れて駆け足です。

 

1.鬼ケ城連絡所全景 (鬼ケ城連絡所:1992年8月)

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 下界は連日30℃を超える真夏日ですが、幸いここは別天地です。夢中で前進して鬼ケ城連絡所まで来ました。ここまで約8kmです。写真の様にプレハブの詰所があり、何台かトロが留置されていましたが、まだ誰もいません。鬼ヶ城とは強烈な地名ですが、ここは山肌を鬼が引っ掻いたように崩落した崖地帯です。度重なる崖崩れのため、立山砂防の最大規模の難所で、崖を回避するため、とうとうトンネルを掘ってしまいました。これは予防保全的な対処でしたが、その後この沿線にはいたるところに危険を回避するトンネルが掘られました。

 

2.鬼ケ城トンネル北側開口 (鬼ケ城連絡所:1992年8月)

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そして、鬼ケ城連絡所のすぐ目の前に立山砂防最長の鬼ケ城 トンネルが口を開けていました。延長約500mのトンネルですが、ここを抜けないと先に進めません。ダッシュです。ちなみに現在はトンネル内の歩行は禁止です。そもそも軌道内の立入りが禁止されています。ところで、このトンネルはその後上部の崖の崩壊が進み、このままではトンネルごと崩壊してしまう恐れが出て来たので、このトンネルをバイパスする更なるトンネルが掘られました。しかし、その新しいトンネルは使用前に岩盤崩落が見つかり使用できず、現在は仕方なくこの従来のトンネルを使用している様です。

 

3.河川敷の生コンプラント (鬼ケ城トンネル南側:1992年8月)

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 鬼ケ城トンネルは意外にも勾配とカーブの連続でしたが、幸い照明設備があったので難なく通過できました。途中コウモリに遭遇しましたが・・・。

トンネルを抜けると広い河原にでました。ここには生コンのプラントがあり、砂防工事の拠点となっていました。現在はここに鬼ケ城連絡所が移転したそうですが、当時この場所には連絡所はありませんでした。写真に写る軌道は本線ではなく、河原に下りる側線です。

 

4.軌道標識 (樺平連絡所:1992年8月)

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 ひたすら歩き、とうとう樺平まで来てしまいました。

「スリップ注意」の標識は道路用ではなく、砂防軌道用の粋な標識です。実際にスリップしたらどうなってしまうのでしょうか?

この写真の左右に建つ鉄塔は、かつて18段スイッチバックがなかった頃の索道の遺構です。この索道で一気に標高差200mを短絡していましたが、荷物の積み替えよりもスイッチバックの方が、ここでは合理的な荷役手段ということです。

 

5.樺平連絡所全景 (樺平連絡所:1992年8月)

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ここは樺平連絡所です。小さな平地にはデルタ線もあります。

ずいぶん急いで来たので、始発列車の到着までまだ30分ほどありました。ここから18段スイッチバックですが、目的地に着いた途端、夜行列車の疲れが出てしまい、スイッチバックを登る気になれず、この日はここまでです。

 

6.始発列車 (樺平付近:1992年8月)

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さて、樺平を極めた記念に、ここで始発列車の撮影です。

なかなか良い場所が見当たらず、サブ谷を望む軌道脇の崖っぷちで撮影したのがこの写真です。

しかし、200㎜のズームレンズでも列車はこの大きさです。 列車が小さい!!おまけに列車の色が樹木に同化して全く目立ちません。

 

7.始発続行列車 (樺平付近:1992年8月)

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 せっかくの続行列車もこの有様です。ところがこの場所は意外にも結構有名な撮影ポイントでした。レールマガジン増刊号の「No.18 BEST・トロッコ」にもこの場所で撮った写真が掲載されていました。その写真は素晴らしい紅葉の頃で、やはり秋に来なくては意味がありません。と、言うわけで、このリベンジを3ヵ月後に果たすことになります。

 

第547話 1992年小湊:頑固な昭和堅気!!(その4)

まさか小湊鉄道で4連が撮れるとは思いませんでしたが、2本目の登場です。この折返しも4連で戻ってくるはずです。

 

1.キハ200形4連 (高滝~上総久保:1992年11月)

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 この4連こそ単行で来ると確信して、真横から撮るつもりでスタンバイしていましたが、まさかの4連です。

幸い線路から少し離れた場所だったので、なんとか収まりました。

 

2.キハ200形4連 (高滝~上総久保:1992年11月)

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  やはり20m車の4連は長いです。もうファインダーギリギリです。しかも、山影も迫って来ており、これもギリギリです。

 

3.キハ200形4連 (高滝~上総久保:1992年11月)

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  そして、約束通り折返しの五井行きも4連で戻ってきました。こんどは日没ギリギリでしたが、何とか4連に陽が当たる場所がありました。

 

4.キハ200形4連 (高滝~上総久保:1992年11月)

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欲張ってハンドドライブで連写です。キハ200形4連は淡い夕陽を浴びて去って行きました。もう4連は終わりましたが、まだ日没まで時間があるのでもう少し先へ進みます。

 

5.キハ200形2連 (上総久保~上総鶴舞:1992年11月)

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 最後は上総鶴舞まで歩きました。もう陽は山に隠れてしまいました。この日は朝からいきなり走行撮影を行ったので、五井の機関区には訪問できませんでした。よって、今回は車両の形式写真は1枚もなく、お宝であるキハ5800も撮影できませんでした。五井機関区には後日訪問することにしました。

 

6.キハ200形2連 (上総鶴舞~上総久保:1992年11月)

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あれから29年、キハ200形は現在も主力として活躍しています。エンジンは相変わらずDMH17ですが、冷房を装備して何とか面目を保っています。しかし、古い車両はもう60歳になろうかという状況です。お隣のいすみ鉄道がうらやましい限りです。

ところで、小湊鉄道の不思議は、なぜこの様なローカル私鉄が、昭和30年代に気動車を新製して車種統一を図ったのか?昭和30年代はどこの鉄道も戦前の疲弊した車両の置き換えに苦労しており、かと言って新車は高価なので、結果的に元国鉄の機械式気動車をトルコン化した車両や北海道で閉山となった炭鉱鉄道から中古車を購入することに奔走していた時期です。その当時の小湊鉄道はよほど羽振りがよかったのか?しかしながら、投資はできる時にしておくべきです。小湊鉄道は現在非常に苦しい経営環境にさらされていますが、昭和30年代の投資のおかげで60年間もやってこれたわけです。でも世の中は変わりました。さすがにもうこれ以上、DMH17のお守りは厳しく、我が道を貫くことは困難なようです。そして、とうとうJRのキハ40系が入線しました。

第546話 1992年小湊:頑固な昭和堅気!!(その3)

 第545話では、話が脱線してしまいましたので、撮影の話しに戻します。

この日は、午前中上総大久保辺りで撮影を続けましたが、午後は里見へ移動し、撮影をしながら上総鶴舞へ向かいました。

 

1.キハ200形 (里見~高滝:1992年11月)

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 午後になるとハイキング客の輸送も落ち着いて、通常通りの単行運転になりました。こうなると面白くありません。ところが・・・。

 

2.キハ200形4連 (里見~高滝:1992年11月)

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次もどうせ単行だろうと、のんびり構えていたら突然4連が現れました。

これにはビックリです。慌てて、ハンドドライブで連写開始です。 車両はどうであれ、ラッシュ時でも4連は見ることが出来ません。なかなかの編成美です。
 

3.キハ200形4連 (里見~高滝:1992年11月)

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しかし、4連とは意表を突く攻撃です。 一心不乱に連写を続けましたが、やはり4連は迫力があり、あせってしまいます。

 

4.キハ200形4連 (里見~高滝:1992年11月)

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午前中は2連と3連でハイキング客を運んでいたので、集中する帰りの客を運ぶのに4連が登場しても当然です。しかし、これでも足りないのでは?

 

5.キハ200形4連 (里見~高滝:1992年11月)

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連写の最後は、なぜか縦位置!!貴重な4連ですが、まあ、ブレてなかったので良かったです。

 

6.キハ200形4連 (高滝~上総久保:1992年11月)

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少し移動して、 ここは高滝~上総久保です。今度の列車は逆方向の上総中野行きですが、またまた4連です。やはり4連が2本出ないと帰り客はさばけない様です。

 

第545話 1992年小湊:頑固な昭和堅気!!(その2)

この日は、午前中上総大久保辺りで撮影を続けました。

天気も良く、3連も走り、絶好の撮影日和になりました。

 

1.キハ200形3連 (上総大久保~月崎:1992年11月)

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 小湊鉄道は名前がローカル的です。路線はJR内房線の五井~上総中野までで、中間には小湊という駅も地名もありませんが、元々この鉄道の計画段階では外房線の小湊までつながる予定で、鉄道名も小湊を名乗りましたが、実態は上総中野で断念。そこから先はなぜか国鉄大原線を前身とする、第3セクターいすみ鉄道外房線の大原まで走っています。

 

2.キハ200形3連 (月崎~上総大久保:1992年11月)

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 現在では、小湊鉄道いすみ鉄道も経営環境が大変厳しい状況ですが、どちらも昭和チックなコンセプトを掲げて集客に乗り出しています。ただし、いすみ鉄道は地元がバックグランドの第3セクターですが、小湊鉄道は純粋な民間鉄道です。この先どうなるか不安がいっぱいです。特に上総牛久~上総中野間は輸送需要もほとんどなく、列車の本数も激減します。この区間の存続が微妙です。

 

3.キハ200形3連 (月崎~上総大久保:1992年11月)

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 小湊鉄道の車両ですが、このキハ200形(注1)が14両も在籍しています。1961年から1977年まで延々と増備され続けました。大変興味深く感心なことは、1961年に自前で新車の導入に踏み切ったことと、1977年まで16年間もブレずに同じ車両を増備して車種統一を図ったことです。

 

4.キハ200形3連 (上総大久保~月崎:1992年11月)

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 (注1)キハ200形の車歴

・小湊キハ201,202:1961年日本車輌

・小湊キハ203,204:1963年日本車輌

・小湊キハ205,206:1964年日本車輌

・小湊キハ207~210:1970年日本車輌

・小湊キハ211,212:1975年日本車輌

・小湊キハ213,214:1977年日本車輌

 キハ200形は全て日本車輌製ですが、日車といえば、地方私鉄向け標準型気動車を手掛けていたはずです。なぜ小湊鉄道はそれを導入しなかったのかも興味深いです。国鉄に乗り入れる計画もあったそうで、国鉄キハ20系を意識したのかも知れません。結果的には国鉄キハ20系モドキになりましたが、国鉄キハ20系と全く同じにしなかったのは、新車に対する小湊鉄道のこだわりがあったのかも知れません。

 

5.キハ200形2連 (上総大久保~月崎:1992年11月)

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 しかし、キハ200形は16年間に及ぶ増備期間には、やはり若干の設計変更がありました。たいした変更ではありませんが、一番目立つのは側窓がキハ211以降ユニット化されたことです。

 

6.キハ200形2連 (上総大久保~月崎:1992年11月)

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 この車両が16年間ブレなかった理由は、設計変更すると費用がかかるからと思われますが、なによりも国鉄制式ベースの気動車であったことから、動力装置や駆動装置、細かな部品に至るまで安定供給されていたためです。

特にエンジンは天下御免のDMH17!!しかしこれが小湊鉄道を拘束する保守的な体制を作ってしまった様です。