ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第649話 1993-94年広島:市内線の旧型オリジナル車両(その4)

今回は広電オリジナルの市内線旧型車両では最年少の350形の話題です。

 この車両については第387話でもお伝えしていますが、元は850形という宮島線直通車として、1958年にナニワ工機で3両製造された間接非自動制御の車両でした。

 

1.351 (原爆ドーム前本川町:1993年8月)

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 広電の定常的な宮直通運転は、通勤時間帯にこの車両が登場した1958年からはじまりました。これが広電の本格的なLRT化の始まりとなったわけですが、その後直通車の需要が増しますが、この車両の増備はなく、新たに2000形、更に連接車の2500形へと発展します。

 

2.351 (宇品:1993年11月)

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 宮島線の直通運転は、1967年には廿日市~広島駅前間で15分ヘッドの運行となり、850形はピンク色の直通車塗装に塗り替えられて運用されましたが、その後も2000形、2500形の増備が続き、やがて850形は市内線に追いやられてしまい、1976年には350形に改番されて市内線車両に落ち着きました。

 

3.352 (宇品:1994年2月)

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 しかし、この車両も550形同様に元宮島線直通車であったプライドから、直通車の認可を継続し、パンタグラフを搭載しています。制御も直通車当時のまま、少数派の間接非自動制御でしたが、他の車両に交じって運用されていました。

 

4.353 (宇品:1994年2月)

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350形は3両共同じ場所で捉えることができました。さすがに三つ子だけあって、車番がなければ見極めが全くつかないほど同じ車両です。唯一の見極めは車体の広告です。

 

5.352 (胡町:1993年8月)

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  この当時350形は3両共元気で、しかも全車オリジナル塗装だったので、車両数が少ない割に撮影機会は結構ありました。

 

6.353 (宇品:1993年8月)

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 350形以降は市内線用の新製車両はしばらくありませんでした。この次に現れた市内線用の新車は、2代目700形で1982年まで24年間も間が空きます。その間は広電も路面電車の低迷期となり、臥薪嘗胆が続きましたが、他路線の中古車で運用を賄うことになりました。

 

7.352 (段原大畑町~比治山下:1994年5月)

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その後の350形は幸い全車健在の様です。気が付けば戦後復興期の広電スタイルを継承する唯一の形式となりました。

さて、広電市内線の旧型オリジナル車両の話題はとりあえず以上です。今後も市内線譲受車、宮島線直通車など、当時の状況を追ってお伝えします。

第648話 1993-94年広島:市内線の旧型オリジナル車両(その3)

広電は路面電車博物館と言われるほど、各地の中古路面電車を多数保有していました。この頃は自社発注のオリジナル車両よりも転入車の方が多く、各地の中古車は話題性もあったことから、逆にオリジナル車両が目立たぬ存在でした。特に、500形、550形、350形は戦後の広電スタイルを継承する似たような車両ですが、両数も少なく非常に地味でした。

 

1.505 (皆実町六丁目御幸橋:1994年2月)

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 500形は旧800形に続く新製車でしたが、このシリーズからドア配置が前中2扉の12m車となり、その後の広電オリジナルの原型となりました。1953年にまとめて5両がナニワ工機で製造されました。

 

2.505 (宇品:1994年2月)

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500形は一見全鋼製に見えますが、この車両までが半鋼製です。側窓はHゴム支持の2段窓となりましたが、その後Hゴムはこの写真のように押さえ金に変更され、少し高級ぽくなりました。この押さえ金は宮島線の1050形にも見られましたが、他のHゴム車両には展開されませんでした。

 

3.505 (宇品~向宇品口:1993年8月)

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  この当時500形は全車5両が健在でしたが、505のみオリジナル塗装で、その他は奇抜な車体広告車でした。よって、今回は505の写真のみですが、この車両は市内線の全ての系統に運用されたので、505がどこを走っているのか捕まえるのは結構大変でした。その後の500形は502が2001年に廃車され、残りも2003年に廃車となり現存しません。

 

4.553 (横川一丁目~別院前:1993年12月)

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 ここからは550形の話題です。

550形は500形に続く新製車です。外観、性能とも500形とほとんど変わりませんが、このシリーズから全鋼製となりました。

 

5.553 (宇品:1994年2月)

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 しかし、550形は第387話でお伝えした通り大変残念な車両でした。高性能車の先駆けとして試作された551はまさに黎明期の軽快電車でした。しかしながら、不発に終わり気が付けば500形の増備車レベルになってしまいました。

 

6.553 (江波:1994年7月)

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 それでも550形には500形とは違うプライドがありました。それはこの車両が宮島線直通用としての認可車両だからです。この当時もう実現の可能性は皆無でしたが、宮島線直通を夢見てパンタグラフが誇らしげでした。

 

7.553 (江波:1994年7月)

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この当時、550形は4両在籍していました。(552は1977年に焼損廃車)しかし、なぜか553しか見かけませんでした。幸い553はオリジナル塗装でしたが、他の3両はどうなのか安否不明でした。

現在、550形は現存しません。553,554は2006年に廃車解体され、551は保管されましたが2013年に解体となり、LRVの試験目的?でMHIに譲渡された555も今年解体されたとのことです。他社からの移籍車が1形式1両は残されている現在、広電オリジナルの500形、550形がどちらか1両も残らなかったのが残念です。

 

第647話 1993-94年広島:市内線の旧型オリジナル車両(その2)

さて、もう少し650形が続きます。650形の運用は他の車両と共通運用でした。よって、毎日4両のどれかが、どこかの系統で走っていたので、撮影の空振りを食らうことはまずありませんでした。主に1系統と3系統で走る機会が多く、これらの系統の沿線で待っていれば必ず撮影できました。

 

1.652 (福島町~西観音町:1993年8月)

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 ここは平和大通りの西詰です。ここでは、3系統の650形が撮影できました。平和大通りは、原爆の復興で戦後に整備されたもので、沿道と緑地帯を含む幅100mの道路です。広電の軌道は以前もう少し北側の天満町の軌道筋を直進して、専用軌道で太田川を渡っていましたが、平和大通りの建設にあわせて移設されました。

 

2.653 (宇品~向宇品口:1993年8月)

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650形は12m級の中型車に分類されます。外観は元大阪市電の750形に似ていますが、750形に比べてやや小ぶりです。特に750形のうち761~764は元大阪市電1651形(1651~1654)で、1940年に散水車の足回りを流用して製造された電車ですが、ちょうど時期的にも650形と同じ木南車輌製であることから雰囲気が似ています。

 

3.652 (皆実町六丁目御幸橋:1993年12月)

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ここは、1系統と3系統が走る区間です。よって、650形の撮影機会が増えます。ただし、自動車の通行量も多く撮影のタイミングがなかなか難しいです。この写真は偶然自動車が信号待ちだったのでタイミング良くスッキリした写真になりました。

 

4.651 (本川町~十日市町:1994年3月)

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   650形は車体広告車がなく、在籍する4両すべてがオリジナルの塗装でした。これはその後も継承されました。やはり特別な車両だからでしょうか。

 

5.652 (海岸通~向宇品口:1994年6月)

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現在650形は、651~653の3両が健在ですが、やはり高齢のため、運行頻度が減少しています。徐々にイベント車的な存在になりつつありますが、いつまでも残っていて欲しい存在です。

 

6.旧801Ⅱ保管車 (荒手車庫:1994年2月)

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突然話題は変わりますが、ここは広電の遺体安置場とも言える荒手車庫の片隅です。

 写真は車体番号もありませんが旧800形です。この車両はすでに車籍はなく、荒手車庫で保管されていたものですが、広電の戦後初の新車で1951年にナニワ工機で10両製造されたうちの1両です。旧800形は1970年代に廃車となりましたが、千田町車庫の火災で車両不足となったため、803のみが廃車を免れて急遽801Ⅱに改番されて1976年に復活しました。私が広島に住んでいた当時、801Ⅱはまだ現役車両でしたが、残念ながら現役時代の写真が1枚もありません。当時は広電というか路面電車に興味がなかったからです。

 

7.旧801Ⅱ保管車 (荒手車庫:1993年11月)

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801Ⅱは元々前後2扉車でしたが、復活の際に運転席左側の扉を埋めて前中2扉となりワンマン化されました。しかし活躍期間がは短く1983年に廃車となり、もう10年も荒手車庫で倉庫代わりになっていました。ところで、後から設置された中扉の戸先(右)側には小窓が設けられています。これはツーマン運転時の車掌用の窓ですが、元京都市電の1900形にも同様な小窓が設置されました。

第646話 1993-94年広島:市内線の旧型オリジナル車両

また広電シリーズの到来です。

以前お伝えしましたが、この頃私は仕事の関係で広島に入り浸りだったので、暇があると広電の車両を撮っていました。その撮影枚数は膨大でデータ化するのも嫌になってしまうほどです。今回はその中から当時の市内線車両のうち、広電オリジナルの旧型車両をピックアップして、当時の広島市内の寸景をお伝えします。なお今回は、車体塗装もオリジナルの塗装車両のみを集めてみました。

 

1.651 (原爆ドーム前本川町:1993年8月)

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まずは広電オリジナルで一番年長(イベント車の156は除く)の650形です。

この電車は言わずと知れた被爆車両です。当時は4両が健在でした。戦前製の古い車両ですが、原爆の証人として徹底改修を受け、冷房化されて一般運用に充当されていました。

 

2.652 (原爆ドーム前本川町:1993年8月)

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 ここは相生橋です。まだ通勤時間前なので車も少なく閑散としています。左側は平和公園で、目の前に原爆ドームがありますが、なぜかこの電車と原爆ドームを一緒に撮る気が起こりませんでした。

 

3.653 (原爆ドーム前本川町:1993年8月)

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 日中この辺りは自動車が多く、まともな撮影が出来ませんが、早朝だとこんな感じでスッキリした写真が撮れました。早朝といっても7時頃です。この時間を狙ったのは、広島に住んでいた頃の教訓からですが、広島の朝は意外と遅く、7時頃から大混雑の東京とはちょっと違います。

 

4.653 (八丁堀:1993年8月)

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 紙屋町から八丁堀にかけては、広島の繁華街です。そろそろラッシュ時間帯になってきたので、自動車の数が増えてきましたが、結構バスが目立ちます。

実は広島は路面電車以上にバスの街です。広島の街は狭くてすり鉢状です。爆発的に増えた人口はすり鉢の外側にあふれてしまい、山林地帯を切り開いてベッドタウン化されましたが、地形的にバスが幅を利かせています。アストラムラインが開通した当初は、その沿線のバス路線に規制がかかり、アストラムラインの駅を基点とするバス路線が構成されましたが、その後規制緩和となり、バスは市内まで直通し、追い打ちを掛ける様に広島高速道4号線のバス通行開放によりバスが生き返りました。反面、アストラムラインは打撃を受けたわけですが、もう少しバスと軌道系交通機関との協調を考えるべきではないかと思います。

 

5.651 (宇品:1993年11月)

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 路面電車の形式写真を落ち着いて撮れるのは宇品電停の降車専用ホームでした。現在は宇品港ターミナルの改修に伴い、電停の位置が移動したため、この場所でこの様な写真は撮れません。

 

6.654 (宇品:1994年2月)

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ここは午前中が順光となり撮影には最適です。この場所に居ると、いろんな電車が次々やって来ます。この日は654がやって来ました。

 

7.652 (段原大畑町~比治山下:1994年5月)

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さて、650形に話を戻しますが、この車両は元々3扉の高床車でした。1953年に低床化され、その後運転席左側の扉を閉鎖して、扉配置が前中2扉となりましたが、閉鎖された扉はそのままの状態でその部分にも腰掛が設置されていました。

第645話 1990年関東(常総):元機械式気動車亡き後

あれだけ惜しげなく通った水海道でしたが、元国鉄キハ35系が乱入し、百戦錬磨の元機械式気動車都落ちしてきた優等車両の成れの果てが一掃されてしまうと、もうどうでも良くなってしまいました。しかし、まだ完全に見切りを付けることはできませんでした。それは、常総筑波鉄道の生き残りである浮世離れした車両達が残っていたからです。

今回は、雑多車両が処分されてからちょうど1年経った1990年8月の水海道の様子です。

 

1.キハ803 (水海道:1990年8月)

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 水海道には新塗装のキハ803がいました。この新塗装はこの車両に似合っているのかどうなのかわかりませんが、この浮世離れした車両が残っているだけでも救われた気持ちでした。

 

2.キハ303 (水海道:1990年8月)

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 これはどうでもいい車両ですが、異常繁殖しており、この時点でキハ300形、キハ350形合わせて21両の大所帯になっていました。しかし、これからまだまだ増殖します。

 

3.キハ316+キハ310形+キハ310形+キハ300形 (水海道:1990年8月)

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 側線にはキハ310形とキハ300形の混結4連がいました。通常見ない4連の組合せですが、全て総括制御可能なので普通に走れます。ラッシュ用の待機なのでしょうか?

 

4.キハ3517+キハ901+キハ350形+キハ350形 (水海道:1990年8月)

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 さらにもう1本、凸凹4連がいました。2両目のキハ901は私鉄版キハ35の片割れですが、本物のキハ35と連結すると、その違いがよくわかります。キハ901の車高だけ低いですが、これは留置中に元圧が低下して、LVが動作していないようです。こんな編成が目の前で実現するとは複雑な心境でした。

 

5.キハ3510+キハ350形 (水海道:1990年8月)

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 この頃は、キハ300形よりもキハ350形の方が圧倒的に両数が多かったです。やはり取手~水海道間の輸送用に片運車の2連が優先されたようです。その後の増車では、両運のキハ300形が増えます。これにより、浮世離れした関東鉄道オリジナル車両が淘汰されて行きます。

 

6.キハ311+キハ312 (稲戸井~新取手:1990年8月)

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 車庫で同じような車両ばかり眺めていても仕方ないので、少しだけ本線撮影を行いました。しかし、本線に出ても同じ車両しか来ません。ラッシュ時でもないのでキハ800形を増結した3連も現れません。

 

7.キハ3511+キハ350形 (新取手~稲戸井:1990年8月)

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 この車両ばかりです。色は違いますが、このちょっと前の相模線の様な光景です。しかし何か違和感が?やはり複線だからでしょうか。

第644話 1992年福井:前近代的LRTの頃(その3)

1992年11月の福井鉄道訪問は、天気が良かったのですが、少しだけの訪問となりました。

なぜなら京福越前本線を先に訪問したためです。いつもは、福井鉄道優先でしたが、たまには京福越前本線もしっかり見ておこうと思い、夕方になってしまいました。

 

1.モハ161-1+モハ161-2 (西武生:1992年11月)

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 西武生では、いつも寝ていたモハ160形がなんとパンタを上げていました。前面の行き先表示には試運転と表示されています。もしや走るのかと期待しましたが、この日は乗務員教習とのことで走りませんでしたが、走る日もあるとか。走行撮影はできませんでしたが、生きているモハ160形を初めて見ることができました。

 

2.モハ81+クハ81 (西武生:1992年11月)

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 さて、モハ80形は見た目はさておき、元を辿れば南海電鉄創成期の卵型電車で、当時の福井鉄道では車歴が一番古い車両でしたが、なんとカルダン化され、冷房化もされて完全に生まれ変わっていました。相変わらず地味な変化を続けていました。

 

3.モハ300形2連 (家久~上鯖江:1992年11月)

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 この日はまだ日没まで少々時間があったので、本線撮影に出向きました。

最初は急行のモハ300形が現れました。時期的に武生の菊人形祭りの真っただ中だったので、お祭りのヘッドマークを付けていましたが、正直ない方が良いです。

 

4.モハ203-1+モハ203-2 (家久~上鯖江:1992年11月)

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 モハ200形もやって来ました。この列車は急行でした。モハ200形は急行の座をモハ300形に譲ったはずですが、たまに急行の運用に入っていたようです。

この電車も小さなヘッドマークが付いていましたが、このくらい離れて撮影すると、何が付いているのかわかりません。モハ200形はかつては急行用のヘッドマークを掲げていましたが、その頃の印象が強く、なにも付いていないよりは、小さなヘッドマークでも付いていた方が様になります。

 

5.モハ203-2+モハ203-1 (上鯖江~家久:1992年11月)

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 陽が傾き露出が厳しくなってきましたが、この辺りは60km/h以上で飛ばして来るので、シャッター速度を下げるわけにはいきません。フィルムがASA400だったのでF2.8:1/250秒でギリギリです。

 

6.モハ200形2連 (家久~上鯖江:1992年11月)

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 次の列車はもうシャッター速度を下げるしかなく、ブレないよう無難に遠目に撮影です。わずかな時間でしたが結局吊掛車は現れず、この日はこれで撤収です。

いずれ福井鉄道の吊掛車の走行撮影をしっかり行わなくてはなりませんが、その機会は2年後の1994年になりました。

第643話 1992年福井:前近代的LRTの頃(その2)

福井鉄道は旧型車の砦となっていましたが、実態は鉄道線の車両が軌道区間に乗り入れるいわゆるLRTでした。しかし現在のLRTとは全くと言っていいほど異なり、純然たる鉄道車両の面々で、平成になってからも前近代的な形態が続いていました。要は、LRTに適した新車を購入するには投資が大きすぎることや、適当な中古車もないと言ったところが本音です。しかし、世の中はもうそんな時代ではなくなっており、バリアフリー社会から取り残されてしまいました。

 

1.モハ141-1+モハ141-2 (西武生:1992年11月)

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 さて、今回もモハ140形の続きです。

モハ140形のモハ141編成とモハ142編成は、モハ143編成とは異なり、妻窓がHゴム支持の3枚窓で、同じ様なおとなしい顔をしていました。

 

2.モハ141-1+モハ141-2 (田原町:1992年8月)

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 モハ141-1とモハ142-1は、共に元長野電鉄モハ300形です。長野電鉄長野市街地地下化によって、1978年に追い出されてきた車両ですが、福鉄にて片運化されて元名鉄モ900形と固定編成化されました。

 

3.モハ141-2+モハ141-1 (田原町:1992年8月)

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  モハ141-2~143-2は元名鉄モ900形ですが、モハ141-2とモハ142-2は妻窓がHゴム支持の3枚窓です。元名鉄モ900形は3両が福井に来ましたが、北陸鉄道にも4両譲渡されてモハ3740形として使用されました。北陸鉄道へ行った4両は、ほぼ原型で使用されましたが、福井に来た3両は片運化されて、前妻は非貫通となり、ワンマン化のため先頭寄りのドア配置も変更されて、原型は留めていません。

 

4.モハ141-1+モハ141-2 (田原町:1992年8月)

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この列車は、モハ141-1+モハ141-2です。この車両の車歴は第79話をご覧下さい。

 モハ141形は導入当初から転換クロスシートでした。車内設備はロマンスカーのモハ200形を凌ぐほどですが、なにぶん半鋼製車なので見劣りは否めません。

 

5.モハ142-1+モハ142-2 (田原町:1992年8月)

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 この車両はモハ142-1(注1)です。モハ141-1とは瓜二つですが、モハ142-1の方は前面の行き先表示と青帯の位置が若干低いです。

(注1)モハ142-1の車歴

・福井モハ142-1←長野モハ302←長野モハ152:1941年汽車会社製

 

6.モハ142-2+モハ142-1 (神明:1992年8月)

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 この車両はモハ142-2(注2)です。モハ141-2とはほとんど区別がつきません。

(注2)モハ142-2の車歴

・福井モハ142-2←名鉄モ901←名鉄ク2337←名鉄モ917←知多デ917:1929年日本車輌