ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第918話 1993年蒲原:安田民俗資料館に行ってみた。

この日は、会社の同僚の車で新潟近辺の鉄道を巡りました。その時に蒲原鉄道村松車庫にも立ち寄りましたが、保存車両を見に行くことになりました。この頃は、加茂~村松間が廃止となった際に廃車となったモハ11,12,51が保存車として現存していましたが、モハ12は村松車庫に、モハ11は村松城址公園に、モハ51は安田民俗資料館というところに保存されていました。すでにモハ11,12は保存車を確認していましたが、モハ51だけは、安田民俗資料館がどこにあるのかわからず未確認でした。

 

1.ED1 (村松:1993年4月)

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 この日は天気が不安定で、土砂降りの雨が降りましたが、幸い村松に着いた時には晴れて、ED1の綺麗な写真が撮れました。

 

2.ED1 (村松:1993年4月)

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 この機関車は、一応車庫内の車両の入換機として残されていたものですが、大事に整備されている様で、状態は非常に良かったです。

 

3.モハ71,モハ12(保存車) (村松:1993年4月)

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 留置線には、保存中のモハ12(右の車両)がいました。この車両は自社で保存するのか、廃車後もずっとここで留置状態でしたが、もう8年も経ち、やはり痛みが目立っていました。

 

4.モハ51 (安田民俗資料館:1993年4月)

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 そして、安田民俗資料館にモハ51を見に行くことにしました。場所が不明でしたので、村松駅で教えて頂き、あとは同僚の土地勘任せで建設中の磐越道安田インターに向かいました。

 

5.安田民俗資料館のパンフレット

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安田民俗資料館は、建設中の磐越道沿いにありました。結構立派な資料館なので、てっきり地元の公共施設と思っていましたが、私設とのことでビックリしました。建造物の移設や蒲原鉄道の本社屋や電車まで、館長の神田さんが一人で収集されたそうで更にビックリです。

 

6.モハ51 (安田民俗資料館:1993年4月)

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 モハ51も綺麗な状態でした。この時点では、他のモハ11やモハ12よりも状態は良かったです。

 

9.モハ51車内 (安田民俗資料館:1993年4月)

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 見覚えのある車内です。村松~加茂間のさよなら運転でモハ12+モハ51+モハ11の3連に乗りましたが、この車両の床板の隙間から線路が見えた記憶があります。

 

8.モハ51説明板 (安田民俗資料館:1993年4月)

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 さて、この時は状態の良いモハ51を確認できたので、安心して帰りましたが、その後安田民俗資料館は、2001年頃に閉館となり、施設はそのまま放置されているとのことです。ネットではずいぶん朽ちてしまったモハ51のレポートを見ることができますが、もう資料館の復活はなさそうで、このままモハ51も朽ち果ててしまうと思われ残念です。

 

第917話 1993年日立:ダラダラ増えるニセ新車!(その2)

日立電鉄の車両置き換えは、1991年~1997年まで7年間かかりました。この間の増備状況は、1991年に6両、1992年に6両、1993年に5両、1994年に4両、1995年~1997年に各1両。合計24両導入したことになり、結構な設備投資でした。

 

1.モハ15 (川中子~大橋:1993年5月)

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1993年にはモハ3022,3023,3024、モハ2007,クハ2016が増備されましたが、この年廃車となったのは、モハ1003,1006、モハ12、モハ13、クハ109+クモハ110でした。これで、雑多なモハ1000形は完全に淘汰されましたが、日中のワンマン運転用の両運車は、まだしぶとく残ります。 

 

2.モハ15 (大橋~川中子:1993年5月)

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 1993年5月時点で残存していた旧型車は、下記の通りです。

① 日立電鉄オリジナル:モハ9形(9,10)、モハ11形(11,12)

② 元相模電気式気動車:モハ13形(13,14,15,16)

③ 元静岡自社製:クハ109+クモハ110、クモハ351+クモハ352

 

3.モハ15 (大橋~川中子:1993年5月)

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  しかし、日中走らない車両を先に置き換えるとは、どういうことなのか?ラッシュ時のサービスを優先したのかもしれませんが、日中昼寝をする車両が多いのは、以前と変わらず、せっかく車種統一を進めているのに、素人目にも合理的ではありません。

 

4.モハ11 (川中子~常陸岡田:1993年5月)

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 この年にモハ3000形が3両増備されました。そのあおりで、モハ12が廃車となります。残ったモハ11は翌年に廃車となり、モハ11形は消滅します。

 

5.モハ11 (大橋~川中子:1993年5月)

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 モハ11形は、営団地下鉄向けに製造中の車両を横取りしたと言われる車両でしたが、戦時設計であり製造時期的にも粗悪な車両だったそうですが、よく持ちこたえたと思います。それも日立電鉄流のテコ入れがあったからだと思います。

 

6.モハ11 (大橋~川中子:1993年5月)

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 この時点では、モハ3000形がいつ納車されて、どの旧型車が廃車になるのかまだわかりませんでした。その後、モハ3022,3023が7月末に竣工し、同時にモハ13、クハ109+クモハ110が廃車となり、モハ3024が11月に竣工し、同時にモハ12が廃車となりました。

 

7.モハ12 (大橋~川中子:1993年5月)

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 モハ12は、さすがに横取りされた車両だけあって、細い貫通路跡に営団1200形の面影が伺える車両でした。現物がなくなると、もう『横取り騒動』は遠い昔の伝説になってしまいました。そして、路線もなくなった現在では、話題に上がることもなく歴史の彼方へ葬られてしまった感じです。

第916話 1993年日立:ダラダラ増えるニセ新車!

日立電鉄には、1991年から元営団地下鉄銀座線2000系を種車とするニセ新車の2000系、3000系が導入されて、車両の体質改善が始まりました。しかし、3年経ってもまだ、ニセ新車の増殖はダラダラと続いていました。

 

1.モハ12 (川中子~常陸岡田:1993年5月)

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 利用者にとっては、早く新車に置き換えて欲しいところですが、私にとっては、いつまでも旧型車が活躍していたので、このダラダラが非常に有難かったです。

 

2.モハ15 (川中子~常陸岡田:1993年5月)

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 しかし、この時点で2連の旧型車はほぼ置き換えが済んでおり、残る両運車達の動向が気になりました。

 

3.モハ12 (川中子~常陸岡田:1993年5月)

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 モハ12は、噂によると戦後の混乱期に親会社の計らいで、営団地下鉄向けに製造されていたはずの車両を横取りしてもらい導入された車両と言われていましたが、いよいよこの車両も、本物の営団地下鉄車両に置き替わります。

 

4.モハ3021 (川中子~常陸岡田:1993年5月)

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 すでに、前年に両運車モハ3000形が1両導入されており、今後はこの車両の増備が避けられません。

 

5.モハ3021 (川中子~常陸岡田:1993年5月)

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 モハ3000形は元営団2000系の前頭部を切り継いで両運化した車両です。この当時は、そうでもしないと、ローカル線向けの手頃な両運の中古車などなく、手間のかかる分、お金もかかっているはずですが、改造車の購入となりました。

 

6.モハ3021 (川中子~常陸岡田:1993年5月)

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 しかし、日立電鉄流の改造流儀なら、わざわざ前頭部を切り継がなくても、妻面に運転席を設けることなど、いとも簡単と思いますが、もう自前の腕を磨く時代ではなく、餅は餅屋に頼む時代になっていました。

 

7.モハ11 (常陸岡田~川中子:1993年5月)

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 この日はモハ11も運用されていました。モハ11はモハ12の兄弟車で、この車両も営団地下鉄向けだったはずの横取り車両でした。

第915話 1994年加越能:先行きが微妙な頃(その4)

万葉線は、中伏木から専用軌道に入ります。沿線は相変わらず工場地帯ですが、港湾地帯の雰囲気も漂って来ます。

 

1.デ7072 (中伏木~六渡寺:1994年10月)

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 再び「猫電車」の登場ですが、せっかくの良い雰囲気が台無しです。仕方なく次の電車を待ちます。

 

2.デ7053 (中伏木~六渡寺:1994年10月)

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 今度はまともな電車でした。しかし、このロケーションに路面電車は不思議な感覚です。現在はここをLRVが走り、不思議と言うよりも違和感ありそうな感じです。

 

3.デ7061 (中伏木~六渡寺:1994年10月)

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 六渡寺の電停で休憩していると、コーラ電車がやって来ました。この駅の横にはJR貨物新湊線の貨物ヤードが広がっていました。元々この電停は新湊という名称でしたが、この時点では六渡寺になっていました。交換施設のある無人の電停ですが、ここは廃止された富山地鉄射水線の終点でした。射水線の前身である越中鉄道が南富山から新伏木港(現六渡寺)まで建設し、開業は1933年でした。その後ここから米島口まで延伸されて富山と高岡が結ばれましたが、ここから高岡駅前までは1959年に加越能鉄道に譲渡され、更に富山新港の建設で、射水線が分断されたため、1966年にここから越ノ潟までが加越能鉄道となりました。かつての名残りで、現在も高岡駅前~六渡寺間は軌道法区間、六渡寺~越ノ潟間は普通鉄道法区間です。

 

4.デ7052 (庄川口~六渡寺:1994年10月)

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 六渡寺の先には庄川を渡る立派な鉄橋があります。この鉄橋も越中鉄道の建設によるものですが、1976年に水害に遭い、かつての射水区間があわや廃止かと心配されましたが、なんとか翌年に復旧して現在に至ります。

 

5.デ7073 (庄川口~六渡寺:1994年10月)

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鉄橋は立派ですが、電車は吹けば飛ぶような路面電車です。しかし、この鉄橋がなければ、現在の万葉線はなかったかも知れません。 

 

6.デ7074 (庄川口~六渡寺:1994年10月)

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 万葉線は、この鉄橋のお陰で、新湊市と高岡を結ぶ貴重な交通手段として、現在も存続しています。しかし、やはり民間の鉄道としては限界だったようで、経営は第3セクター化されました。社名も万葉線となり、補助金のお陰で車両もLRV化が進みましたが、先行きはどうなんでしょうか?

 その後、万葉線とはすっかり縁が切れてしまいましたが、LRVが導入されてから高岡を訪れる機会がありました。その頃、鉄道総研のバッテリー路面電車の走行試験が万葉線で実施されていました。

 

7.鉄道総研のバッテリー走行試験車LH02 (高岡駅前~片原町:2014年8月)

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 この写真は、20年後のその試運転の様子です。万葉線では延伸計画があり、非電化で延伸してバッテリー車の導入を検討していた様ですが、その後の話しをさっぱり聞きません。どうなってしまったのか?まあ、非電化となれば、建設費や保守費の削減にはなりますが、バッテリー車は逆に高価となるのは当然です。しかも充電設備も必要ですし、小さな路面電車は車内をバッテリーに占領されて輸送力の少ない車両になりそうです。ならば、キャパシタなどを併用して一部区間を非電化で走行するような発想はありと思います。しかし、なかなか採算が合わないのかも知れませんし、地方の鉄道には高嶺の花なのかも知れません。まだ課題は多そうです。

第914話 1994年加越能:先行きが微妙な頃(その3)

さて、1992年の訪問時には沿線撮影もしませんでしたが、米島口から先にも行かずに帰ってしまったので、今回は未踏地帯をブラブラ歩いて撮影しました。

 

1.デ7052 (新吉久~吉久:1994年10月)

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 米島口から先は専用軌道と併用軌道が混在する、歴史的にも複雑な路線です。この辺りは単線の併用軌道です。周りは工場地帯の様ですが、非常に閑散としており、果たして万葉線の利用客がいるのか不安になりました。

 

2.デ7073 (吉久~中伏木:1994年10月)

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 車の姿も見えない道路を電車がのんびりやって来ました。ここは裏通りなのか?なんとも不思議な光景です。

 

3.デ7072 (新吉久~吉久:1994年10月)

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 困った「猫電車」がやって来ました。これは広告電車なのか?まあ、少しでも盛り上げないと、この頃の万葉線は、先行きが微妙な頃でした。

 

4.デ7061 (吉久~中伏木:1994年10月)

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 そして、次の電車は世界的に有名なコーラ電車でした。やはり広告が重要な収入源の様ですが、阪堺電軌や広電の様に羽目を外した広告電車は、先程の猫電車とこのコーラ電車くらいでした。しかし、この沿線で広告の効果は如何ほどのものか?

 

5.デ7074 (新吉久~吉久:1994年10月)

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 よく出会うデ7074が来ました。珍しく車が併走していました。路面電車の撮影では、併走する車と被らないように注意しなければなりませんが、電車に比べて寿命の短い車は、撮影の年代背景を物語る良い指標となるので、この様な併走撮影も良い記録になります。

 

6.デ7073 (新吉久:1994年10月)

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 ここは、交換設備のある電停なので、道路も拡幅しています。電車がいなければこのトラックは恐らく真っすぐ進んだのでしょうが、この電停で一気に電車を追い越して行きました。

 

7.デ7074 (六渡寺~中伏木:1994年10月)

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 少し進むと、専用軌道に入ります。この付近はJR貨物新湊線と併走する区間です。しかし、この頃の新湊線はまともに営業していたのかわかりませんが、ヤードには雑草が生えて廃線のムードが漂っていました。

 

第913話 1994年加越能:先行きが微妙な頃(その2)

万葉線の車両は、デ7000形導入前は、富山地鉄のデ5010形を譲受したり借用したり、富山地鉄との車両のやり取りがありましたが、結局、自前のデ7000形が増備され、富山新港が建設されて射水線が分断されるとると、万葉線に残ったデ5010形は6両となり、その内のデ5022が廃車後に除雪車として残りました。

 

1.旧デ5022 (米島口:1994年10月)

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 さて、今回も除雪車となった旧デ5022をしっかり撮影しました。この時は、快晴だったので、良い形式写真が撮れました。

 

2.旧デ5022 (米島口:1994年10月)

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 旧デ5022には、車両の両端にスノープローが装着されており、完全に除雪車となっていましたが、越ノ潟寄りには大きいスノープローが付いていました。こちらは、鉄道線の除雪がメインなので大きいスノープローなのだと思います。

 

3.旧デ5022 (米島口:1994年10月)

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 側面は何ら改造を受けておらず、ほぼ原型ですが、もう旅客車ではないので、かなりくたびれていました。

 

4.旧デ5022 (米島口:1994年10月)

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 高岡寄りは、小さいスノープローが付いていました。こちらは軌道線の除雪がメインとなりますが、軌道線はグレーダ付きのトラックを使用した除雪がほとんどだったようです。

 

5.旧デ5022 (米島口:1994年10月)

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 旧デ5022の締めは、綺麗な形式写真です。

 

6.旧デ5026 (米島口:1994年10月)

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 そして、もう1台忘れてはならない旧デ5026のダルマです。こちらは、そのうち朽ち果てそうでした。

 

7.新しい除雪車6000 (米島口:2014年8月)

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 この写真はオマケですが、2012年に導入された新しい除雪車です。見るからに華奢な車両の様ですが、導入当初は脱線したり、故障で肝心な時に使用できなかったり、不安を抱えた車両でしたが、その後はどうしているのか?この撮影は2014年でしたが、不安を払拭できなかったのか、実はまだ旧デ5022がいました。

第912話 1994年加越能:先行きが微妙な頃

1994年秋の北陸地方ローカル私鉄早回りの際に、高岡で途中下車し、2度目となる加越能鉄道高岡軌道線万葉線)を訪問しました。前回は2年前の1992年でしたが、その時は除雪車として残っていた旧デ5022を見るのが目的だったので、米島口の車庫で少し撮影しただけで終点にも行かずに戻ってしまいました。それほど万葉線には興味がなかったわけですが、万葉線の本当の魅力は米島口の先にありました。

 

1.デ7074 (高岡駅前~片原町:1994年10月)

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 今回も挨拶程度に高岡駅前で少々撮影です。デ7074が来ましたが、この電車は前回訪問時にもここで撮った車両です。車体広告も2年前と同じ石材店です。

 

2.デ7074 (高岡駅前~片原町:1994年10月)

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 まあ、この頃はどの電車が来てもほとんど同じなので、1枚撮影すれば十分ですが信号待ちで2枚撮ってしまいました。この電車で米島口へ向かいます。

 

3.デ7073 (米島口:1994年10月)

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 ここは米島口です。万葉線高岡駅からしばらく単線軌道ですが、途中の広小路から米島口まで複線です。かつて米島口から先は、伏木港まで路面軌道が伸びていましたが、1971年に廃止となりました。

 

4.デ7052 (米島口~能町口:1994年10月)

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 しかしこの先、右側に伸びる単線軌道は健在です。この単線軌道はかつて富山地鉄射水線につながっており、富山市内まで直通電車も走っていました。今回は初めてこの先に向かいました。

 

5.米島口車庫全景 (米島口:1994年10月)

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 まずは、米島口の車庫訪問です。相変わらず、一番端っこに除雪装置を付けた旧デ5022がいます。

 

6.デ7071他 (米島口:1994年10月)

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 正直、他の車両には全く興味はありませんが、とりあえず撮影です。万葉線は1948年に高岡駅前~伏木港間を富山地鉄とし開業しましたが、1959年に加越能鉄道に譲渡されて高岡軌道線となり、当初は富山地鉄デ5010形8両を譲受して、富山地鉄のデ5010形と共に運用されていましたが、デ7000形はその後の1961年から順次投入されました。

 

7.デ7071他 (米島口:1994年10月)

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デ7000形は富山地鉄デ7000形を前後2扉化した車両で、基本的に富山地鉄デ7000形と同形の車両ですが、都電8000形にも似た様な機能本位のデザインで、最終増備のデ7070形から側窓の割り付けが変更されて外観がスッキリしましたが、これと言った特徴もない非常に地味な車両でした。