ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第924話 1990-94年岡山電軌:無難な変貌

岡電は1980年から雑多車両の更新が始まり、毎年1~2両ペースで軽快電車モドキの吊掛車に置き替わって行きました。当初は雑多車両の臓物を流用し、新製した冷房付きの車体と組み合わせ、1980年代には雑多車両は一掃されました。その後は、元東武鉄道日光軌道線から譲受した3000形の置き換えが始まるのかと思いましたが、1990年代はほぼ完全新製の吊掛車が4両増備され、3000形は徐々に数は減るもののしぶとく生き延びました。

 

1.東山車庫構内3007,3005他 (東山:1990年12月)

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岡電には1980年頃に訪問しており、第711話第712話でその頃の様子をお伝えしましたが、その後は1990年の訪問までご無沙汰していました。1990年の訪問は、片上鉄道の撮影ついでに立ち寄ったものですが、その頃はまだ3000形が8両健在でした。

 

2.3007 (東山:1990年12月)

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3000形は最大で9両在籍しました。1989年に7901の増備で最初に3003が廃車となり、以降は新車の導入と入れ替わり、1995年には在籍車が4両となりますが、その後はイベント目的などでしばらく残りました。

 

3.3007車内 (東山:1990年12月)

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3000形は一見鋼製車の様に見えますが、実態は半鋼製です。ドア配置が前後2扉なので、長いロングシート、整然と並ぶ吊り手、そして板張りの床が良き時代路面電車を物語っていましたが、何よりも東武鉄道路面電車だったことが貴重な存在です。

 

4.8301 (東山:1994年7月)

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ここからは1994年です。この当時は、せっせと琴電通いをしていた頃です。岡山で乗り換えの合間に、時々東山に出向きました。もう3000形はラッシュ時の限定運用になっていたようで、まず日中は走らない車両でした。

 

5.7601 (東山:1994年7月)

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この頃の岡電には、軽快電車モドキが16両と3000形が5両在籍していました。軽快電車モドキは、7601と7900形以降がほぼ完全新製車となりましたが、相変わらずの吊掛車でした。しかし、微妙にマイナーチェンジを繰り返して、キュービクルスタイルが若干流線形ぽくなりました。

 

6.7601 (東山:1994年7月)

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そして、この頃の岡電はことごとく広告電車でした。見た感じオリジナル塗装の車両は見当たりませんでした。

 

7.8201 (岡山駅前:1994年7月)

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岡電は軌道も改修されて、岡山駅前のメインストリートはセンターポール化と分離帯の緑地化もされていました。見た目は小綺麗な軽快電車モドキで近代化が完了した様に見えましたが、無理に背伸びしない、この無難な変貌が地方の路面電車にはちょうど良いように思えました。

第923話 1995年南部縦貫:行き詰まったメルヘンの世界!!(その2)

この日は七戸に宿泊予定だったので、日没まで南部縦貫鉄道の撮影を続けることにしました。しかし、天気が怪しくなって来ました。

 

1.キハ102 (森田牧場前~七戸:1995年5月)

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この頃の南部縦貫鉄道の運行ダイヤは、1986年から変わっておらず、午前2往復、午後3往復でした。結局、このダイヤは運行休止となる1996年まで変わらず、原則2両のレールバスが半年交代で終日1運用でした。もう1両在籍したキハ103は、元国鉄キハ10形で立派な鉄道車両でしたが、大きすぎて燃費も悪く、ほとんど使用されませんでした。

 

2.キハ102 (七戸~森田牧場前:1995年5月)

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国鉄清算事業団からの宣告は、南部縦貫鉄道にとって死活問題でしたが、それ以外にもレールバスの老朽化が大問題でした。レールバスは開業時からすでに32年活躍し続けていましたが、ベースはバスであり、耐用年数をはるかに超えていました。保守部品の生産もとっくに終わっており、在庫も底を尽き、何かあったら修理あるのみでした。

 

3.キハ102 (森田牧場前~七戸:1995年5月)

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午後の2往復目の撮影は、森田牧場近くの森の中で行いましたが、いよいよ天気が悪くなり、小雨がチラホラ降り始め、露出が厳しい撮影となりました。

 

4.キハ102 (森田牧場前~七戸:1995年5月)

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それでも列車の速度が遅いので、シャッター速度を下げてなんとか撮影できました。

 

5.キハ102 (営農大学前~森田牧場前:1995年5月)

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2往復目の折返しは、営農大学構内で行いました。時期的に新緑の頃ですが、天気が悪く撮影に気合が入りません。

 

6.キハ102 (営農大学前~森田牧場前:1995年5月)

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ちょうど桜が見頃でした。天気が良ければ、もう1往復撮影するつもりでしたが、雨が本降りとなり、この日はここで撤収です。

この日は七戸で宿泊でしたが、五右衛門風呂の白鳥旅館ではなく、普通のビジネス旅館でした。翌日は津軽鉄道に向けて移動しましたが、津軽鉄道の様子は別途お伝えします。

第922話 1995年南部縦貫:行き詰まったメルヘンの世界!!

1995年のGWは、学生時代にバイトで知合ったローカル線同好の友人と久々に東北に出向きました。まずは南部縦貫鉄道です。この年、南部縦貫鉄道には非常に厳しい宣告が出されました。それは、国鉄清算事業団から借用していた野辺地~西千曳間(旧東北本線)の鉄道用地を「買い取らなければ出ていけ!!」との、お情け無用の押し売りでした。

 

1.キハ102 (七戸~森田牧場前:1995年5月)

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 この用地の価格は5100万円とのことで、毎年ほぼ同額の赤字を計上しているこの鉄道にとって、そんな費用は出せるわけがありません。とうとうメルヘンの世界も行き詰まってしまいました。

 

2.キハ102 (七戸~森田牧場前:1995年5月)

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さて、この日はリッチに新幹線で上野を出発し、七戸に辿り着いたのは午後でした。とりあえず、午後の南部縦貫鉄道の撮影です。天気は下り坂でしたが、なんとか持ちこたえました。

 

3.キハ102 (七戸~森田牧場前:1995年5月)

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最初の撮影は七戸近くで午後の戻り列車でした。この場所は土手から築堤を走る列車が望遠で何枚も連写できる場所でした。列車本数が少ないので初っ端からフィルムの浪費です。

 

4.キハ102 (七戸~森田牧場前:1995年5月)

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高圧電線がなければ良い風景なのですが、この近辺はここしか開けた場所がないので、仕方ありません。

 

5.キハ102 (七戸~森田牧場前:1995年5月)

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築堤の手前には、七戸川橋梁があり、これを渡って来ると七戸駅はもうすぐです。しかし、七戸の市街地はこの鉄橋の向こう側なので、無駄に鉄橋を造ったように思えますが、当初は七戸から先の三本木(十和田市延伸計画があったためです。そして七戸駅はあまりにも市街地から外れ過ぎており、市街地では、わざわざ鉄道を利用しなくてもバスが頻繁に走っていたので、これでは鉄道利用者は増えるわけがありません。

 

6.キハ102 (森田牧場前~七戸:1995年5月)

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列車は、七戸川を渡り大きなカーブで進路を西に向けるとまもなく七戸に到着です。今回の写真はすべて同じ場所で、同じ列車を撮影したものです。

第921話 1992年西濃:まだやっているのか?(その2)

美濃赤坂に戻り、西濃鉄道の機関区を訪問しました。この日は貨物列車の運行がない日だったので、現役の機関車は庫内に入っていました。機関区で確認できた西濃鉄道保有車両は、現役の機関車が3両と旧国鉄の緩急車が2両でした。この他にも多くのホキ9500形が在籍していたはずですが、営業でJR線のどこかに行っており、実態がわかりませんでした。

 

1.DD403 (美濃赤坂:1992年10月)

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 現役の機関車は、長らく自社発注のDD400形(注1)3両でしたが、1990年に国鉄清算事業団からDE10形を購入して、DD401が1991年に廃車されました。この写真の左端にちょっとだけ写っているのが、導入されたDE10501ですが、興味がなかったのか、まともな写真を撮っていません。

 

2.DD402 (美濃赤坂:1992年10月)

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(注1)DD400形の車歴

・西濃DD401:1964年三菱重工製:→1991年廃車

・西濃DD402:1969年三菱重工製:→2022年廃車

・西濃DD403:1972年三菱重工

 

3.DD401(廃車) (美濃赤坂:1992年10月)

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 写真は、前年に廃車となったDD401です。まだ使えそうな雰囲気ですが、この機関車はDD400形では異端車でした。DD402,403が520PS✖1機関であったのに対し、DD401は230PS✖2機関でロッド駆動の機械式でした。

 

4.ワフ21120 (美濃赤坂:1992年10月)

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 そして、西濃鉄道には自社線内専用の緩急車(注2)が存在しました。こんな小さな鉄道で律儀に緩急車を使用するとは恐れ入りますが、実はこの緩急車は昼飯線内の貨物列車推進運転時の前方監視用の制動車でした。しかし、この時点で昼飯線は休止状態だったので、廃車同様に側線に留置されていました。このような緩急車は、かつてはどこでも見ることが出来ましたが、国鉄の貨物合理化後は一挙に消え去り、貴重な存在になっていました。

 

5.ヨ13933 (美濃赤坂:1992年10月)

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 (注2)緩急車の車歴

・西濃ワフ21120←国鉄ワフ21120:1934年汽車会社製

・西濃ヨ13933←国鉄ヨ13933←国鉄ヨ3933:1934年新潟鐵工製

これらの緩急車は、1977年にワフ21016、21120が国鉄から購入されましたが、ワフ21016が1987年に事故廃車となり、同年にヨ13933が国鉄から購入されました。しかし、その頃には昼飯線はほとんど運行されておらず、果たしてヨ13933はどのくらい使用されたのか?。なお、ワフ21120は現在貨物鉄道博物館に保存されています。

 

6.旧国鉄DE10形廃車群 (美濃赤坂:1992年10月)

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 側線の奥には3台の旧国鉄のDE10形が留置されていましたが、これは部品確保用でした。手前からDE10551,132,525。西濃鉄道では国鉄清算事業団からDE10形の廃車を5両購入し、2両をDE10形(注3)として再生しましたが、そのうちのDE10502は、つい前月の竣工直後に樽見鉄道に移籍しており、この時点ではDE10501のみが在籍していました。

(注3)DE10形の車歴

・西濃DE10501←国鉄DE10148:1969年汽車会社製:→2021年廃車

・西濃DE10502←国鉄DE10545:1969年川崎重工製:→1992年樽見鉄道へ譲渡(DE113)

※上記以外に部品確保用として、DE10132,525,551を購入した。

この日は、西濃鉄道の実態をさらっと確認しただけでしたが、謎の多い鉄道のまま、その後は再訪問をしていません。しかし、清水武さんが執筆されたRM LIBRARY No.99「西濃鉄道」で詳細を知ることができました。現在の西濃鉄道は、2006年に昼飯線市橋線の猿岩~市橋が廃止、更に昨年9月に市橋線の乙女坂~猿岩が廃止となり、小さい鉄道になっていますが、石灰石輸送は健在です。そして、昨年には譲受した元秋田臨海鉄道DE101251が竣工し、北陸重機製のDD451も新製され、DD403と共に活躍しています。「まだやっているのか?」などと言ったら怒られてしまいます。

第920話 1992年西濃:まだやっているのか?

近鉄養老線の撮影で大垣に出向いた際に、JR大垣駅美濃赤坂行の列車を見掛けました。美濃赤坂東海道本線の支線である盲腸線の終点で、大垣からわずかに2駅先です。そう言えば、美濃赤坂から西濃鉄道という貨物鉄道が接続していることを思い出し、ちょっと行ってみることにしました。

 

1.西濃鉄道機関区側線 (美濃赤坂:1992年10月)

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 例によって、思い付きの訪問だったので、何の予備知識もなく、とりあえず美濃赤坂に降り立ちました。確か、この路線はかつて国鉄初の気動車キハニ5000形が実用化され、西濃鉄道に乗り入れていたという記事を読んだことがありました。しかし、それは戦前の話しであり、この頃の西濃鉄道越後交通長岡線と同様に得体の知れない存在になっていました。

 

2.西濃鉄道路線図(引用:国土地理院1/25000地形図「大垣」昭和63年発行)

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 上図をご覧頂くと、大垣付近はいろんな鉄道路線が存在しています。その中で3本に分岐するJRの路線は3本とも東海道本線で、その一番右が美濃赤坂までの盲腸線です。そして、美濃赤坂の手前から分岐する貨物線が2本ありますが、これが西濃鉄道です。この時点の西濃鉄道は2路線存在し、美濃赤坂から北上する路線が本線的存在の市橋線で、この路線に、かつて国鉄からキハニ5000形が乗り入れていました。一方、西側に分岐する路線は昼飯(ひるい)線と称し、途中の美濃大久保駅スイッチバックする変わった路線でした。昼飯線は、スイッチバックの関係で、美濃赤坂から美濃大久保へ向う貨物列車は機関車推進で運転されていました。当然先頭となる最後尾には車掌車が連結されて、監視運転されていました。

 

3.西濃鉄道機関区側線 (美濃赤坂:1992年10月)

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 西濃鉄道は、沿線で産出される石灰製品を出荷する鉄道です。全ての貨物列車が美濃赤坂からJRへ直通しますが、果たして西濃鉄道は「まだやっているのか?」正直なところ半信半疑での訪問でした。この写真は、貨車が止まっているのが西濃鉄道の機関区の側線で、左にカーブする路線が昼飯線です。レールの錆具合を見ると、昼飯線は運行されていない様です。

 

4.市橋線旧赤坂本町駅付近 (美濃赤坂~乙女坂:1992年10月)

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 そして、この写真は赤坂町内の市橋線です。おそらく、この辺りにかつては赤坂本町という旅客用の駅があった場所です。市橋線の方は、レールは錆びておらず、現役の様です。

 

5.市橋線 (美濃赤坂~乙女坂:1992年10月)

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 市橋線は、赤坂町の市街地を抜けると石灰石の採掘場に近づきます。画面の左側に聳える岩山は、全山石灰石の金生山です。この山の石灰石採掘が続く限り、西濃鉄道は存続するのでしょうか?

 

6.市橋線乙女坂駅付近 (乙女坂:1992年10月)

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 この写真は、乙女坂駅付近です。貨物線なので、どこが駅なのかはっきりしませんが、この付近は複線になっており、左側の線路には複数の石灰業者の製品積込み所があり、かつてはここで貨車が組成されていたものと思われます。しかし、この時点でここから出荷があったのかわかりませんが、見た感じ側線は使用されていない様で、貨車もありませんでした。

 

7.市橋線猿岩駅付近 (猿岩:1992年10月)

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 乙女坂駅を過ぎると、この写真は次の猿岩駅です。ここには石灰製品のプラントがいくつかあり、定期的に出荷列車が発着している様でした。線路はこの先の市橋駅まで続きますが、この日は休日で貨物列車の運行もなかった様なので、ここで美濃赤坂の機関区に戻りました。

第919話 1994年南海(貴志川):そろそろ噂が!

関空開業でCI化が進む南海電車でしたが、貴志川線もそろそろ車両交代の噂が聞こえて来ました。しかし、この路線に新車が投入されるとは考えられません。路線が昇圧されるとも考えにくく、本線から降圧改造された中古車が一挙にやって来るのか?いったいどうなることか?

 

1.モハ1202+モハ1241 (吉礼~伊太祁曽:1994年1月)

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 しかし、どうあれモハ1201形達は引退となります。まもなく、お隣の野上電鉄が廃止される頃でした。少しは貴志川線も気にしなければなりません。そんなわけで、野上訪問のついでに貴志川線に出向きました。

 

2.モハ1202+モハ1241 (吉礼~伊太祁曽:1994年1月)

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 この頃の野上電鉄はすでに店じまいムードでしたが、貴志川線はモハ1201形がガンガン走っていました。老体ではありますが、引退とはもったいない話です。もし、野上電鉄が生き延びて、橋梁の重量制限も問題なければ、貴志川線のモハ1201形が野上電鉄に再就職していたかも知れません。

 

3.モハ1218+モハ1204 (吉礼~伊太祁曽:1994年1月)

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 ところで、1994年はラピートが導入された年です。ラピートはモハ1201形と同じ電車とは思えない風貌ですが、私にはラピートの良さがわかりません。

 

4.モハ1210+モハ1217 (伊太祁曽~東山:1994年1月)

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 さて、この日は伊太祁曽から岡崎前まで歩きながらの撮影です。冬枯れた風景ですが、シックな車両にはちょうど良い光線具合でした。

 

5.モハ1218+モハ1204 (伊太祁曽~東山:1994年1月)

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  この日は穏やかな晴天でした。滞在時間があまりありませんでしたが、良い写真が撮れました。恐らく来年あたりには、大きな変化があると思われましたが、実はその後、南海電鉄の方と仕事をする機会があり、ここぞとばかりに色々と情報を頂き、貴志川線がどうなるのか詳細をキャッチできました。

 

6.モハ1218+モハ1204 (岡崎前~吉礼:1994年1月)

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 情報によれば、貴志川線は昇圧せず、本線から22000系を改修して導入するとのこと。22000系は元々南海高野線の昇圧を見込んで、複電圧車で製造されていました。その盲腸の様な機能が再び活かされることになりました。

 

7.モハ1210+モハ1217 (岡崎前~吉礼:1994年1月)

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 そして、わざわざ南海電鉄の千代田工場で改造中の22000系を見せて頂きました。すでに22000系は一部が高野線から支線用に転じていましたが、貴志川線用の車両は、貴志川線固有の改造が施されていました。

 

8.モハ1210+モハ1217 (岡崎前~吉礼:1994年1月)

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例えば、ワンマン化による先頭部ドアの移設と片引き化、前面の非貫通化などが明らかになりました。そして、もう大運転の必要もなくなるので、MT化されて当然弱め界磁制御も外されました。この車両の登場は1995年4月とのことで、モハ1201形の最後の活躍を見届けるため、その後も何度か貴志川線を訪問しました。

号外:令和5年

明けましておめでとうございます。

令和5年となりました。私事で恐縮ですが、今年はとうとう還暦を迎えます。これからの生き方を真面目に考えなければなりませんが、とりあえずブログはまだ続きますので、これからも宜しくお願い致します。

さて、ここ数年、新年の号外は都電乙2の修復にスポットを当てていましたが、その後の乙2は、順調に修復が進んでおり、間もなく完成と言ったところです。昨年は乙2の修復作業を追って、時々状況確認を行っていましたが、その様子は修復作業が完了したらまとめてご報告致します。

よって、今回は乙2のネタではありません。年の瀬に、いつものママチャリの射程圏外へ足を延ばしましたので、新年早々ちょっとマイナーなネタをお伝えします。

 

1.元川崎市電702 

まずは、ずーっと気になっていたこれです。川崎には市電が走っていました。この写真が証拠です。川崎市電の唯一の保存車である702です。何はともあれ、よくぞ残っていたものです。

しかし、川崎市電はわずか25年間の運行であり、廃止はもう54年も前の1969年なので、その存在を知る人は少なく、若い人は知らなくても当然です。

 

2.元川崎市電702

川崎市電の開業は戦時中の1944年でした。昨今のLRT路線を除けば、日本で一番若い新規開業の路面電車でしたが、単なる路面電車ではありませんでした。今では考えられませんが、一時期、塩浜まで路線があった頃、国鉄の貨物線と共用する3線軌条区間があり、国鉄の貨物列車と路面電車が日中も同じ線路を走っていたそうです。その頃の様子は、関田克孝さん、宮田道一さんがRM LIBRARY 43に、川崎市電の運行されていた25年間の貴重な記録を執筆されています。

 

3.元川崎市電702

ここは、川崎市の桜川公園の一角です。JR浜川崎から1.5㎞ほどの場所ですが、川崎駅からバスが便利です。でも、なぜここに保存されたのか?こんな所に川崎市電が保存されていることなど、恐らく川崎市民ですらほとんど知られていないのでは?。この公園近くに桜本と言うバス停がありますが、川崎市電が最初に開通したのが川崎駅前~桜本間だったので、その絡みなのかも知れません。

 

4.元川崎市電702

この電車の経歴が掲げてありましたが・・・・なにやら、お金のことばかり書かれており、この電車の仕様や特徴、保存された経緯はさっぱり不明です。・・・で、文献によれば、702は1954年東洋工機製の間接自動制御車で3両製造されました。写真の経歴にも書いてある通り、木造車の200形の鋼体化名義なので、前身であるの206の車歴を引継いでいますが、さらに遡れば、この電車は1922年日本鉄道自動車製の都電1573です。702の当初はドア配置が前中2扉で屋根上に換気ドームを載せたPCCカー風のスタイルでした。その後ドア配置を前後2扉とし、換気ドームを外したため、先輩である600形の様な平凡なスタイルとなり、現在に至ります。

 

5.元川崎市電702

ところで、この電車は手厚く保存され、以前は建物の中に展示されており、まともな写真も撮れない状況でしたが、2001年頃にどういうわけか建物が撤去されて、露天展示となりました。その後、幸い屋根が付いたので一安心ですが、最近はちょっとくたびれて来た感じです。現在まで良好な状態を維持できたのは、屋内保存の期間が長かったからなのかも知れません。これからが正念場と思いますが、川崎市電の貴重な1両をいつまでも守って頂きたいです。

 

6.元横浜市電1156

そして、今度は磯子へ・・・・。ここは磯子と上大岡の中間あたりにある起伏の激しい山中です。ここにも路面電車が保存されています。この電車は、一時期荒廃が酷く、2010年頃にあわや解体撤去となるところでしたが、ボランティアによって見事に蘇り、現在に至ります。

 

7.元横浜市電1156

この電車の正体は、横浜市港南区久良岐公園内に保存された元横浜市電1156です。昨年8月に奇麗に再整備されたばかりです。ところで、横浜市電と言えば、滝頭に立派な市電保存館があり、多数の貴重な元横浜市電が保存展示されていますが、なぜ、この電車だけがこんな山中に・・・横浜市の予算の都合で保存館に入れなかったのか?まあ、保存館の車両はどれも外し難いものばかりなので、苦渋の選択だったのかも知れません。

 

8.元横浜市電1156

さて、この電車の存在を知ったのは昨年の再整備の報道がきっかけだったわけですが、実は34年ほど前に、私はこの公園から徒歩10分ほどの場所にあった会社の寮に住んでいました。ところが、この電車の存在を全く知りませんでした。お恥ずかしい話ですが「灯台下暗し」とは、このことです。

 

9.元横浜市電1156

昔の記憶を辿って磯子駅からここまで歩きました。強烈な坂道を登り、バブルの産物だった、かつての磯子プリンスホテルの脇を通り、息も切れ切れ約30分の道程です。もう会社の寮はありませんが、コイツは残っていました。

 

10.元横浜市電1156

電車は柵の中にあるので、柵の隙間から撮ると、どうしても広角になってしまいます。でも、なかなかカッコイイ電車です。この電車は写真が撮りやすく大変結構なことですが、保存館の電車たちを鑑みると、屋根くらいは欲しいところです。

 

11.元横浜市電1156車両竣工図

以前に横浜市交のOBの方から頂いた1150形の竣工図(コピー)が手元にありましたので掲載させて頂きます。適宜、拡大してご覧ください。

1150形は1952年に、宇都宮車輌とナニワ工機で10両製造されましたが、やはり過去の車両名義を引きずっていました。竣工図と一緒に頂いた、昭和35年横浜市交作成の「車両(車体)推移表」によれば、1156の車歴は以下の通りです。

横浜市1156:1952年ナニワ工機製←横浜市820:1947年木南車輌製←横浜市362:1925年日本車輌

 

新年早々、また路面電車の保存車両ネタになってしまいました。本来、活きたローカル線の話題をお伝えしたいのですが、最近は歳のせいか行動力が伴いません。もうすぐ自由人になるので、徐々に行動範囲を広げたいと思います。今年も当ブログを宜しくお願い致します。