ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第958話 1995年阪堺:よく見ると貴重な車両達

1994年当時の阪堺電軌のド派手な広告電車の話題を、第830話~第834話でお伝えしましたが、その1年後の1995年に私は大阪へ転勤となり、堺市の住民となったので、何の因果か再び阪堺電軌に接することになりました。

 

1.モ301 (安立町:1995年12月)

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相変わらずド派手な広告電車には興覚めでした。しかし、この電車の大半が昭和初期の長老であり、よく見ると大変貴重な車両達でした。

 

2.モ124 (神ノ木帝塚山四丁目:1995年12月)

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各車の車歴については、第831話で触れましたが、旧型のモ121形は元大阪市電の1601形であり、モ161形、モ301形は阪堺のオリジナル車でした。

 

3.モ121 (神ノ木帝塚山四丁目:1995年12月)

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さて、この日はよほど暇だったのか、阪堺電車の初の沿線撮影に出かけました。ところで、阪堺電車の路線は意外と長く、大阪市内から堺市浜寺公園まで18.7kmもありました。しかも大阪市内は恵美須町天王寺駅前の2カ所に起点があり、路線は併用軌道と専用軌道が混在する不思議な路面電車です。沿線の様子も様々で、よって、どこで撮影するか悩みましたが、結論は「危なくないところ!」です。

 

4.モ173 (神ノ木帝塚山四丁目:1995年12月)

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ここで言う「危なくないところ!」とは、なかなか説明に苦慮しますが、「おっかなくない場所」のことです。もう少し端的な表現をするなら、カメラなど持ち歩けない場所がありました。

 

5.モ123 (神ノ木帝塚山四丁目:1995年12月)

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そんなわけで、まずは無難に住吉界隈です。ここは南海高野線をオーバーパスする神ノ木帝塚山四丁目間の専用軌道です。電車はボロですが、なぜか架線柱は大手並みに立派なコンクリート製です。

 

6.モ171、モ161 (住吉~神ノ木:1995年12月)

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走っている車両は路面電車ですが、はたして、この路線は路面電車なのか?

第957話 1994年越後交通(長岡):復活の夢断たれる(その2)

越後交通長岡線は、貨物専業鉄道として、西長岡~来迎寺間と西長岡~関原間の2路線が存続しましたが、西長岡~関原間は貨物量の減少から1993年3月末で廃止されました。残った西長岡~来迎寺間も半年後には廃止となります。これから厳しい冬を迎えますが、もう田植えの時期や、稔の時期の撮影は叶いません。今回は天気が良かったので救われました。

 

1.ED5101単機回送 (来迎寺~深沢:1994年10月)

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ED5101の単機回送は、来迎寺からセメント列車となって戻って来ます。この日は単機なので、タンク車の両数も多くない様なので、セメント列車は橋梁で撮影することにしましたが、この時間は逆光となります。

 

2.ED5101牽引のセメント列車 (深沢~来迎寺:1994年10月)

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再び汽笛と共に、セメント列車が戻ってきました。案の定、半逆光です。しかも、セメント列車はタキを9両もつないでおり、一瞬あせりましたが、ぎりぎりファインダーに収まりました。

 

3.ED5101牽引のセメント列車 (深沢~来迎寺:1994年10月)

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慌てて鉄橋を渡る列車を連写しましたが、列車が長すぎて、お尻が切れてしまいました。

 

4.ED5101牽引のセメント列車 (来迎寺~深沢:1994年10月)

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セメント輸送と言えば、三岐鉄道秩父鉄道が思い浮かびますが、それ以外に、この頃に民間の鉄道でこんな列車が残っていたことが奇跡的でした。そして、三岐や秩父にはない、うらぶれた雰囲気がなんとも郷愁をそそります。

 

5.ED5101牽引のセメント列車 (来迎寺~深沢:1994年10月)

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そして、鉄橋を通過して築堤を下って行きます。こちらは順光の後追い撮影となりますが、どうも貨物列車の後追い撮影は苦手です。

 

6.ED5101牽引のセメント列車 (来迎寺~深沢:1994年10月)

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何も障害物はなく、延々と連写できました。前方の山腹に聳えるのは、長岡技術科学大学の校舎です。越後交通長岡線の廃止後、一部の車両がそこに保存されました。さすが地元の国立大学だと称賛されましたが、その後朽ちてしまい、2003年に解体されたそうです。国立大学でも車両の保存は厳しいと言うことが良くわかりました。おそらく、保存後の維持管理など考えていなかったのでしょう。

 

7.来迎寺駅構内 (来迎寺:1994年10月)

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朝の貨物列車が行ってしまったので、もう夕方まで列車はありません。よって、来迎寺まで歩いて新潟へ向かい、路線短縮後の新潟交通の東関屋をのぞきに行くことにしました。来迎寺には、越後交通長岡線の旧旅客ホームと黒ワムが1両放置されていました。この駅は、かつて国鉄魚沼線の分岐駅でもありましたが、寂しい駅になってしまいました。さて、夕方の貨物列車を撮影するには、15時頃までには戻らねばなりません。以前は、高速バスを利用して効率よく燕付近で新潟交通の撮影が出来ましたが、もう新潟交通の燕~月潟間がなくなってしまったので、沿線撮影は無理。東関屋まで行くとなれば、結構時間が厳しいです。この後の展開は改めてお伝えします。

第956話 1994年越後交通(長岡):復活の夢断たれる

越後交通長岡線は、旅客輸送廃止後も一部区間を貨物鉄道として残し、廃止区間の線路撤去も見合わせて、いつの日か復活を夢見ていましたが、1994年度末で残された貨物鉄道が終焉を迎えることになり、事実上復活を断念することになりました。

 

1.西長岡構内留置車両群 (西長岡:1994年10月)

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今回は、1994年秋の北陸地方ローカル私鉄早回りの最後に訪問した越後交通の様子です。この頃はまだ、北陸新幹線も、それ以前の北越急行も開業していない頃だったので、東京から北陸へ往復する際は、上越新幹線利用の長岡経由が主流でした。よって、越後交通の訪問はその途中下車なので楽でした。

 

2.西長岡構内留置車両群 (西長岡:1994年10月)

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しかし、越後交通長岡線の貨物列車は、日曜日や祝日は走らず、平日も運休することがあり、しかも運行は朝と夕方の2往復のみだったので、撮影の効率はよくありません。この時は、仕方なく長岡で前泊して早朝から西長岡に向かいました。

 

3.ED5102 (西長岡:1994年10月)

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西長岡には、いつもの車両達が留置されていました。しかし、ED5102は使用されていないのか、かなり錆びており、もう店じまいの雰囲気を感じさせました。

 

4.西長岡構内留置車両群 (西長岡:1994年10月)

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広い構内には、相変わらず多くのタンク車がゴロゴロしていました。状態は悪くなさそうですが、もう使用するあてはなさそうです。

 

5.西長岡構内留置車両群 (西長岡:1994年10月)

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使われない黒ワムは。かつての旅客ホームに集結していました。

 

6.ED5101 (来迎寺~深沢:1994年10月)

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この日は土曜日だったので、貨物が走るはずです。西長岡をサラッとのぞいて、勝手知ったるバスで深沢へ向かいました。今回の貨物撮影は、来迎寺~深沢間の橋梁周辺です。秋晴れの穏やかな日でした。まずは期待通り、貨物出迎えのED5101が汽笛と共に単機回送でやって来ました。

 

7.ED5101 (来迎寺~深沢:1994年10月)

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ED5101は、ED5102ほどではありませんが、これもかなりくたびれている様です。立派な機関車ですが、ここが廃止となればもう引き取り先はない様でした。

号外:神明車庫跡公園保存車公開(その2)

今回も神明車庫跡公園の保存車公開の続きです。綺麗に蘇った乙2号ですが、ちょっと気になったことがあり、修復状態を観察してみました。

乙2号は、木造なので鋼材であるフレーム部分を残して修復されました。その様子は「号外:乙2竣工!!」でお伝えしましたが、気になったのは、一部の木製部材が修復前の車体から再利用されているようで、その事実を確認しなければなりません。

 

1.乙2号

一見、木造部分は完全新製されたように仕上がっていますが、部材の再利用を確認するためには、近くに寄って見ないとわかりません。しかし、公開日とは言え、乙2号のキャブには入れないのが悩ましいです。

 

2.乙2号

その他に今回の修復で気付いた点は、前照灯の電球復活、尾灯レンズを球面に交換、前妻面の幕板を一枚板に変更などです。また、バンパー上の鋼製カバーは修復前のモノを流用していますが、車両の前後で入れ替わって取付けられています。取り付け位置を間違えたのか?、まあ、どうでも良いことです。そして、ビューゲルを引っ張る紐が付きましたが、紐とトロリーレトリバー関係が何とも不可解!。

 

3.乙2号

反対側妻面のトロリーレトリバーは前照灯の右側に設置されています。こちらは紐の行方が・・・。あら捜しをしているわけではありませんが、屋根上のプーリーの位置は、トロリーレトリバー側にあるべきでは?。トロリーレトリバーの取り扱いを理解されているのか?。せっかくのトロリーレトリバーなので、この紐の処置を何とかして頂きたいのですが・・・。

 

4.乙2号修復作業中の様子

この写真は修復過程のものですが、前面窓の縦枠に旧材と思われる緑色の部材が継がれています。この時は窓枠製作の仮処置と思いましたが、その真相は果たして?

 

5.乙2号旧材再使用の様子

この写真は竣工後のものですが、前面窓の縦枠をよく見ると、縦枠の真ん中の部材が継ぎ足されていることがわかります。よって、旧材を再使用していることが判明しました。しかしながら、この写真を撮るのに、フェンスにしがみついて何枚も撮っていたので、公園に子供を連れて来ているお母さんたちに、かなり怪しい人物と思われてしまいました。

 

6.乙2号旧材再使用の様子

なぜ、この様な面倒な造作をしているのか?。材料費をケチったのか?。やはりレプリカではなく、文化財並みの保存修復だからなのでしょう。

 

7.乙2号キャブ内

乙2号は、キャブには入れないので、詳細確認できませんでしたが、プラットホームの柵の外からキャブの内装を見ると、天井や垂木、柱、妻の梁や筋交い、床、内張りは新製されているようです。前面窓の縦枠は、塗装表面の状態から旧材を再利用していると思われます。そして、ビューゲルの紐が、なぜかブレーキハンドルに・・・。

 

8.乙2号キャブ内

同じくキャブ背面妻窓の縦枠も旧材の様です。しかし、窓の縦枠の一部以外はほぼ新製されているので、縦枠以外は再使用できないほど朽ちていたと言うことなのか?いったい、どの程度の旧材を再利用したのか、詳細はキャブ内に入って見ないとわかりません。

 

9.乙2号ビューゲルの櫓

ビューゲルの櫓は、鋼製なので、これは流用です。今回の修復ではビューゲルの取付けが復活しましたが、ビューゲルと台座の間には絶縁のため厚手の板を挟んでボルト固定されているだけです。碍子もなく、あまりにもラフな取付けですが、こんなので大丈夫だったのか?

 

10.乙2号荷台

荷台部分は、あおり戸の金具以外は全て新製のようです。床板はフラットではなく、2か所出っ張りがありますが、これはモーターの点検蓋なのか?。ところで、床板は特に塗装や防腐処理はされていない様ですが、これは実物通りなのか?良く見るほどに疑問が湧いてきます。

 

11.乙2号台車

年季の入ったBRILL台車も流用ですが、ブラストでも掛けたのか、以前のような錆や苔は奇麗に剝がされています。

 

12.乙2号

乙2号も外観写真は非常に撮り辛いです。乙2号は客室がないので、公開の対象にはなっていません。よってプラットホーム側にも柵が設置されており、キャブ内や荷台には入れません。

さて、保存車両公開の様子は以上です。都内にはこの他にも都電の保存車両が存在しますが、この様な修復と展示のグレードアップは滅多にないことです。せっかく綺麗になったので、これからも大切に見守って頂きたいと思います。

号外:神明車庫跡公園保存車公開

3月8日に神明車庫跡公園の保存車両が公開されました。平日でしたが休日だと野次馬で混みそうなので、余っている有給休暇消化を兼ねて会社を休んで見に行ってきました。

 

1.保存車両公開日の様子

公開とは言っても、都電6063号の車内に入れるだけで、都電乙2号は外から見るだけですが、朝っぱらから熱心な方が数名見に来ていました。さすがに平日なので邪魔者はおらず、細部までゆっくり観察できました。ちなみに、車内の公開日は、当面毎月2回程度とのことです。次回の公開日は3月19日(日)です。

 

2.保存車両の説明板

保存車の説明板も新しくなっていましたが、記載内容が少々簡略されています。なお、この公園にとっては、乙2号はよそモノであり、6063号の方が馴染みのある車両の様です。

 

3.6063号

さて、いままでは乙2の話題が中心だったので、今回は6063号の話題です。

まずは6063号の外観ですが、頑丈な檻があるため、まともな外観が撮れません。スマホで頑張ってもこの程度です。

 

4.6063号

普通に撮るとこんな感じです。展示場の沿道側にはプラットホームがあり、車内公開のない日も、9:00~17:00まで、このプラットホームに立ち入ることが可能なので、電車の中をのぞくことができます。

 

5.6063号

沿道の反対側の公園内から撮影するとこうなります。立派な屋根付きの展示場ですが、撮影には難ありです。

 

6.6063号

公開日なので6063号のドアが開いていました。このドアは戸袋がない2段式の片引扉です。ドアの内側はステップになっています。かなり段差がありますが、昔はこれが当たり前でした。それでは、6063号の車内へ・・・

 

7.6063号車内

6063号の車内は、室内灯が外されていますが、ほぼ現役当時のままです。座席は背ズリも座ブトンもモケット張りです。都電6000形は結構あちこちに保存されていますが、例えば飛鳥山の6080号と比べて、こちらはかなりリアルです。この車内にはこの度の修復作業の過程を記録した写真や修復で交換された朽ちた部材なども展示されています。

 

8.6063号車内

出入口付近は座席がなくて広々としています。戸袋はなく、ドアの開閉機構が露骨ですが、ドア開閉のからくりが良くわかります。

 

9.6063号車内

検査票には、「昭和52年1月検査」と表記されています。これが現役最後の荒川車庫での検査記録の様です。左側の車内銘板は車両修繕時のものです。この車両は富士産業製ですが、製造銘板は付いていません。

 

10.6063号ゴング

これが、チンチン電車の名前の由来であるゴングです。かなり年季モノです。

 

11.系統案内図

この系統図は神明車庫に所属していた車両のモノです。不忍通りを主体とした2系統だったことがわかります。

つづく。

第955話 1985年尾小屋:保存車を拝見する(その3)

今回は石川県立粟津公園の「なかよし鉄道」の車両について、動態保存1年後の1985年9月の様子をお伝えします。

 

1.DC121+ホハフ8+ホハフ3、キハ1 (児童会館前:1985年9月)

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この日は運休日だったので留置車両の写真しか撮れませんでした。しかしながら、ここの車両はガッカリするほど綺麗で、なんだかレプリカのようにも見えました。

 

2.キハ1 (児童会館前:1985年9月)

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まずはキハ1です。この車両は尾小屋鉄道生え抜きである、1937年日本車輌製の元機械式ガソリンカーでした。保存時に車体の更新改造を受けて、新車に生まれ変わった様です。この車両を見た時、税金でここまで綺麗にできるのなら、「現役時代に少しでもバックアップしてあげれば良かったのに」と、思いました。しかし、予算の都合で前面がカマボコになってしまいました。そのうち原型に復元されるだろうと思っていましたが、現在もこのままなのが残念ですが、贅沢は言えません。なお、この車両は車体だけではなく、駆動装置もテコ入れされて、トルコン車になっています。動態保存とは言え、遊覧鉄道的存在なので仕方ありません。

 

3.DC121+ホハフ8+ホハフ3、キハ1 (児童会館前:1985年9月)

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唯一動態保存された機関車のDC121は、1952年協三工業製の12tディーゼル機関車です。完全新製ではなく、足回りは元尾小屋鉄道1号蒸気機関車とのことですが?、ロッド駆動にその名残が伺えます。この機関車も保存時にオーバーホールされて新車並みに蘇りましたが、相棒のDC122は元尾小屋構内で朽ち果てそうなのが気になります。

 

4.ホハフ3+ホハフ8+DC121 (児童会館前:1985年9月)

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ホハフ3、ホハフ8は元三重交通の木造軽便客車でした。尾小屋時代に車体更新を受けて味気ない半鋼製客車となりましたが、それでも軽便鉄道を物語る重要な車両です。

 

5.ホハフ3車内 (児童会館前:1985年9月)

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ホハフ3は、元々浅いシングルルーフで切妻の箱型客車でした。オリジナルはドア配置が変則的でしたが、車体更新時に前後対称のまともなスタイルとなりましたが、つまらない車両になりました。

 

6.ホハフ8車内 (児童会館前:1985年9月)

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ホハフ8は、以前はダブルルーフで元荷物室扉付きの3ドア車でした。こちらも車体更新により、まともなスタイルになりましたが、妻形状はオリジナルを踏襲した3枚窓です。ホハフ3もホハフ8も、車体更新当時の世相を反映するHゴムを採用しており、このあたりが、北陸地方のローカル私鉄に共通するブサイク車両と言えます。

さて、あれから37年が経ちましたが、尾小屋鉄道の保存車は健在です。これは奇跡的と言うか、熱心な保存活動の賜物以外の何物でもありません。しかし、「保存」とは、裕福な時代の副産物です。昨今、地方都市を襲う財政難は、保存車両にとって天災のごとく、いつ牙を剥くか分かりません。

第954話 1985年尾小屋:保存車を拝見する(その2)

元尾小屋駅構内に保存された赤門軽便鉄道保存会と小松市の保存車両を見た後に、石川県立小松児童館で動態保存された元尾小屋鉄道の車両を見に行きました。

 

1.DC121+ホハフ8+ホハフ3,キハ1 (児童会館前:1985年9月)

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そこは場所がわからず、最初は小松付近を迷走しましたが、粟津駅近くの県立粟津公園内にありました。当時は120m程の路線を保存車両が往復する程度の規模でしたが、保存車両は、DC121、キハ1、ホハフ3、ホハフ8の4両が全て走行可能な状態でした。

 

2.キハ1(標記) (児童会館前:1985年9月)

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訪問時は、運休日だったので乗車や走行撮影はできませんでしたが、事務所の方からいろいろとご説明頂いたところ、この保存鉄道は石川県立粟津公園の施設として、1年前に「なかよし鉄道」として開業したもので、施設の保守は「なつかしの尾小屋鉄道を守る会」のボランティアで成り立っているとのことでした。そして、ちょうど開業1周年とのことで、記念乗車券を頂きました。

ちなみに、「なかよし鉄道」は乗車無料なので、記念乗車券も非売品でしたが、その記念乗車券は昔の尾小屋鉄道の写真も含まれるなかなか凝ったもので、あまり公開されていないと思いますので、以下にご紹介します。

 

3.「なかよし鉄道」1周年記念乗車券

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この記念乗車券を見て、「なつかしの尾小屋鉄道を守る会」の熱意を感じました。その後、「なかよし鉄道」は路線を延長して現在は470m程になりました。検修庫も完備されて、現在では露天留置の車両はありません。以前、尾小屋に保存されているキハ3やキハ2もここで運転されたことがあり、話題になりました。

当時の元尾小屋鉄道の保存車両は下記の通りです。(現在も変わっていません。)

・5号機:1949年立山重工製:赤門軽便鉄道保存会所有

・DC121:1952年協三工業製:なかよし鉄道

・DC122:1958年協三工業製:赤門軽便鉄道保存会所有

・キハ1←キロ1:1937年日本車輌製:なかよし鉄道

・キハ2:1938年日立製作所製:赤門軽便鉄道保存会所有

・キハ3←遠州キハ1803:1951年汽車会社製:小松市所有

・ハフ1:1918年名古屋電車製作所製:小松市所有

・ホハフ3←三重交通サ321←三重ホハ12←中勢ハニ2←大日本ボコ2:1921年梅鉢鉄工所製:なかよし鉄道

・ホハフ7←三重交通サニ403←北勢ハフ11:1925年日本車輌製:赤門軽便鉄道保存会所有

・ホハフ8←三重交通サニ401←北勢ハフ9:1924年日本車輌製:小松市所有

その後、元尾小屋駅構内に展示保存されていた5号機、キハ3、ハフ1は、尾小屋町の尾小屋鉱山資料館の施設「ポッポ汽車展示館」に移設展示され、現在は「なつかしの尾小屋鉄道を守る会」の手で維持されています。