ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第953話 1985年尾小屋:保存車を拝見する

尾小屋鉄道の廃止は1977年3月19日でした。当時私は中学1年生でしたが、すでに古い気動車を追い掛けて放浪を始めた頃でした。しかし、現役の尾小屋鉄道に接することができませんでした。私にとっての尾小屋鉄道は、国内最後の非電化軽便鉄道であったことから、憧れの存在だったわけですが、やはり、当時私が住んでいた広島から北陸は、中学生の私にとっては敷居が高かったです。ところで、尾小屋鉄道の廃止から8年後の1985年に、バイトで知合った同好の友人と初めて北陸地方のローカル私鉄を早回りした際に、尾小屋鉄道の保存車両を見に行くことになりました。ちなみに同好の友人は小学校時代に尾小屋鉄道のキハ3に乗車したそうで、当時の話しをいろいろと聞きましたが羨ましい限りです。

 

1.DC122(保存車) (尾小屋駅跡:1985年9月)

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さて、最初に向かったのは尾小屋駅跡でした。そこには廃止直後から赤門軽便鉄道保存会と小松市によって、複数の車両が保存されていました。その頃はまだ、本格的な動態保存には至っていませんでしたが、それでも現物を目の当たりにして、貴重な軽便車両が有志によって大切に保存されていることに感動しました。

 

2.元尾小屋駅舎 (尾小屋駅跡:1985年9月)

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そして、元尾小屋駅の構内には駅舎も保存されていました。廃止から8年経ち、風雪の影響で痛みが目立ちましたが、この駅舎は保存のために設置位置を移動したとのことで、これも保存の熱意の賜物です。

 

3.5号機+キハ3+ハフ1(保存車群) (尾小屋駅跡:1985年9月)

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保存車両は、ご覧の通り、屋根付きの展示スペースに、5号機、キハ3、ハフ1が整備されて展示されていました。この他に、かつての機関庫内にはキハ2とホハフ7が、そして露天にはDC122がブルーシートに覆われていました。しかし、DC122はブルーシートが破れて車体が露出しており、かなり朽ちている様子です。展示車両は周りを雑草で覆われており、近寄り難かったですが、何だか荒らされていている様でした。キハ2とホハフ7は鍵の掛かった庫内なので見ることが出来ませんでした。なお、現在は5号機、キハ3、ハフ1が近くに開設された尾小屋鉱山資料館の「ポッポ汽車展示館」に移設展示されています。

 

4.廃線跡 (観音下駅跡:1985年9月)

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当時の元尾小屋駅の周りは、辛うじて集落になっており、まだ駅前旅館もありました。鉄道代替のバスも確認できましたが、現在はバスも廃止されたそうで、どうなっているのか?。帰りは、廃線跡を少し辿ってみました。ここは、観音下(かながそ)駅跡です。まっすぐ伸びる道は軌道跡です。右側には石積のホーム跡が残っていました。

 

5.廃線跡 (観音下~倉谷口:1985年9月)

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軌道跡を少し進むと、山の中に入って行きます。この先にはかつてトンネルや木橋がありましたが、この日は天気も悪く、これ以上に探索は諦めました。

 

6.当時の尾小屋鉄道乗車券類

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いきなり、尾小屋鉄道の乗車券です。中学1年の冬休みに、尾小屋鉄道が廃止になるという情報を入手しましたが、現物を見ることができない悔しさから、廃止の情報を確かめるために、尾小屋鉄道の新小松駅長さんに手紙を書いて確認しました。その返信には、ここに掲載した切符が送られてきました。大変有難いことでした。そのご厚意をこの場でご紹介させて頂き、いまさらですが御礼申し上げます。

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貴重なお宝ですが、保管状態が悪かったので、切符が黄ばんでしまいました。日付の入った切符は使用済みです。日付の入っていない切符は未使用ですが、尾小屋駅発行や旧駅名などから、古い切符の様です。なお、一番下の石川県立小松児童会館発行の切符は別件です。これは尾小屋鉄道を動態保存した「なかよし鉄道」の乗車券(実際は乗車無料)です。この切符は、「なかよし鉄道」を訪問した際に頂いたものです。次回は当時の「なかよし鉄道」の様子に続きます。

第952話 1994年富山地鉄:路面電車体質改善の頃(その2)

さて、今回は富山地方鉄道軌道線に28年ぶりに導入されたデ8000形の話題です。新しい車両なのでどうでも良い話ですが、この日は天気が悪く、地鉄本線の撮影を諦めて軌道線車両を見に行った時の様子です。

 

1.デ8002他 (富山駅前:1994年5月)

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それまで、富山地鉄の軌道線はデ7000形しか在籍しておらず、車両も全く面白くなく、軌道線自体も非常に地味な路線でした。デ7000形は古くもなく、なぜこの時期に新車を導入したのかわかりません。しかし、デ8000形の登場で、富山の街が少し華やかになったような気がしました。

 

2.デ8002 (富山駅前:1994年5月)

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デ8000形は日本車輌製のVVVF車です。日本車輌製の路面電車は、かつて日本中に走っていましたが、この頃の日本車輌は新幹線の製造が忙しかったのか、路面電車など全く相手にしていなかった様で、名鉄揖斐線のモ770形連接車を除けば、直近の国内向けでは1982年製の熊本市交8200形の2両だけでした。

 

3.デ8002車内 (富山駅前:1994年5月)

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ところで、熊本市交8200形は日本車輌が手掛けた国内初のVVVF路面電車でした。その頃は日本車輌路面電車復権に精力的だったようですが、あれから11年ものブランクがあり、この富山地鉄デ8000形は日本車輌が再び奮起したとは思えず、お得意様である地鉄さんなので重い腰を上げたような感じがしました。

 

4.デ8003 (南富山車庫:1994年5月)

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車庫では、珍しくデ8003が口を開けていました。開閉式のバンパーには連結器が仕込まれていました。

 

5.デ8005 (南富山車庫:1994年5月)

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そして、どこかで見た様なこのデザインは・・・都電8500形?を少し丸くした様な・・・。

 

6.デ8005 (南富山車庫:1994年5月)

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まあ、同じ様な車両になっても仕方ありませんが、こちらはステップ付きなので、折り戸です。

 

7.デ8005 (南富山車庫:1994年5月)

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デ8000形は1993年に、5両まとめて製造されましたが、その後の増備はありませんでした。やはり新車はお金が掛かるからなのでしょうか。

 

第951話 1994年富山地鉄:路面電車体質改善の頃

富山地方鉄道では、1991年~1993年に元京阪電鉄3000系の車体と営団3000系の台車を組合わせたモハ10030形を導入し、鉄道線の旧型車を一掃して体質改善を図りました。一方、軌道線の方はそれほど古い車両ではなく、まだまだ車両の置き換えなどないと思っていたら、なんとVVVFの新車が導入されました。はたして景気が良かったのか?

 

1.デ7013、デ8002 (富山駅前:1994年5月)

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これまで、軌道線は路線の縮小に伴って、余剰となった古い車両から順番に廃車となりました。しかし、古いと言っても軌道線の車両は全てデ7000形と称する全金製の車両なので古くはありません。

 

2.デ7021 (南富山駅前:1994年5月)

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もともと、デ7000形は古い小型車の置き換え用に1957年から1965年にかけて、日本車輌で22両製造されたものです。この頃の路面電車で昭和30年代製は、まだまだ新しい部類でした。しかし、デ7000形は見るからに簡素な造りで、車体が老朽化していたのかも知れません。

 

3.デ7016 (南富山駅前:1994年5月)

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かつて軌道線には、笹津線や射水線の列車が乗り入れており、デ7000形はそれらを補完するような存在でしたが、笹津線も射水線もなくなり、軌道線自体も路線縮小となって、1983年~1984年にデ7001~7006(7004は欠番)が廃車され、1993年にデ8000形の導入で非冷房だったデ7007~7011が廃車となり、1994年時点ではデ7013~7022が健在でした。

 

4.デ7012 (南富山駅前:1994年5月)

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デ7012は、この時点で製造が一番古いグループでした。ところで、富山地鉄のデ7000形は、加越能鉄道万葉線のデ7000形の兄貴分の車両なので、ドア配置こそ違いますが、車体の造りや前面デザインはいっしょです。

 

5.デ7020 (南富山駅前:1994年5月)

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デ7020は、1965年製の最新グループですが、初期車から基本仕様は変わっていません。なお、このグループは屋根に電照式の広告を設置しています。

 

6.デ3533+デ3534 (南富山駅前:1994年5月)

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そして、今回も健在だった除雪車のデ3533,3534です。除雪車と言っても、排雪装置は付いておらず、専ら融雪剤の散布車です。冬期以外はここで長い昼寝です。

 

7.デ3533 (南富山駅前:1994年5月)

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この車両は戦後製の4輪単車ですが、この様な小型車が1951年に5両も製造されました。デ7000形の増備で廃車となり、この2両が除雪車に抜擢されましたが、この様な小型車が1970年頃まで在籍していたとは驚きです。

号外2023.03.02:乙2竣工!!(その2)

号外が二話になってしまいましたが、今回も都電乙2修復経過の続きです。

 

1.昨年の修復中の様子

昨年末には、車体がほぼ完成しました。前面窓にガラスが入ったようですが、窓枠の塗装の都合か、まだマスキングが施されています。

 

2.昨年の修復中の様子

そして、その頃の6063号もほぼ完成していました。行き先表示は「須田町」となっており、20番の系統板も掲げられました。これとは別の日には、行き先が「通三丁目」となったり、系統板が土佐電モドキの「ごめん」となったり、結構いじられていました。

 

3.公園の標識

そして、今年の2月になると公園もほぼ出来上がり、あとは開園を迎えるばかりとなりました。公園の入口にはこんな標識まで立てられました。

 

4.開園前日の様子

ここからは、公園のリニューアルオープン前日の様子です。お隣の図書館から俯瞰すると、公園はこんな感じに仕上がっていました。

 

5.開園前日の様子

乙2と6063号を真横から見るとこんな感じです。2両とも再び檻の中です。もう柵がない写真は撮れません。

 

6.開園前日の様子

開園前日なので、まだ公園には入れませんでした。よって、沿道から乙2を撮ってみました。国旗が掲げられて、開園のお祝いムードですが、乙2は相変わらず撮り辛い檻の中です。開園後は、この檻の中に午前9時~午後5時まで入れるそうですが、それでも沿道側のプラットホーム上からの観覧のみで、当面6063号の車内のみ月に2回ほど開放日があるそうです。

文京区のHPによると、3月の車内開放日は8日(水)と19日(日)とのことです。

 

7.開園前日の様子

そして、この日の翌日である令和5年2月19日に「神明都電車庫跡公園」がリニューアルオープンしました。

2年間追い続けた修復はようやくおわりました。しかし、私は開園当日は所用のため、見に行けませんでした。開園後もまだ行っていません。いずれ、車内が見学できる日に出向きたいと思っています。そして、今後も末永く保存されることを願うばかりです。

号外2023.02.28:乙2竣工!!

2年前の正月に、都内の公園で保存されていたボロボロの都電乙2と6063の修復についてお知らせしましたが、ようやく修復が完成し、乙2と6063が蘇りました。しかし、2年間の歳月は短かったようで長く、世の中の情勢は変わり、当然私自身も年を取りました。変らないのはコロナの感染がいまだに終息していないことくらいでしょうか。でも、乙2と6063の修復完成は待望の明るい話題です。今回はこの乙2と6063の竣工をお祝いして、私の視線で修復の経過をお伝えいたします。

 

1.13年前の乙2

まずこの写真は、2010年のまだ乙2が綺麗だった頃の様子です。しかし、すでにビューゲルは外されていました。その後、乙2とは疎遠になってしまい、久々に再会したのが11年後の、2021年正月にアップしたあのブログ(号外:令和3年)でした。

 

2.2年前の「車庫跡公園」の様子

これは、2年前の正月の「車庫跡公園」の様子です。久々に再会した乙2は崩壊寸前のボロボロの状況でしたが、この時点で公園のリニューアルと併せて、乙2と6063も修復されることが決まっていました。それをブログでもお伝えしましたが、その後の修復作業がなかなか始まらず、コロナ感染対策最優先で、修復は頓挫したのかと諦めていた11月から公園の工事が開始されました。

 

3.2年前のボロボロの乙2

そして、公園の設備解体と同時に、檻で囲まれていた乙2と6063は、檻の撤去でご覧の通り開放されました。これは令和3年の年末でした。この時の様子は、昨年正月にアップしたブログ(号外:令和4年)をご覧ください。

 

4.昨年の修復当初の様子

公園設備の解体が終わり、公園が更地になった5月に様子を伺いに行きました。この時、乙2と6063は展示場所から少し移動しており、乙2は台車が持ち出されていました。しかし、この時点ではまだ2両とも修復作業は行われていない様子でした。この様子は、昨年5月にアップしたブログ(号外:これでいいのか10連休!!)をご覧ください。

ここまでは、すでにブログで経過報告していましたが、ここからは、未報告の状況をお伝えします。なお、本件はすでに同好の方々からネット上で進捗報告がされており、内容的に被ってしまいますがご容赦願います。

 

5.昨年の修復中の様子

この写真は隣接する都営アパートの2階にある図書館から撮影したもですが、車両の修復が本格化した昨年8月上旬の様子です。2両とも台車が整備されて、元の場所に戻されましたが、展示場となる部分の基礎が新しく打ち直されており、レールも敷き直されていました。そして、注目の乙2ですが、車体の修復が始まっています。乙2は木造車体なので、鋼製アングルを残して木造部分は撤去されており、骸骨状態です。やはり、木材の腐食が激しかったからでしょうか。6063の方は、外板をお色直し中の様です。

 

6.昨年の修復中の様子

乙2の白色のフレームが鋼製部分の様です。木製部分は全部外すと修復が難しい様で、強度メンバーとなる部分は、順番に新材へ組み替えている様です。

 

7.昨年の修復中の様子

そして、昨年9月下旬には、キャブ周りの羽目板が入っています。ようやくそれらしくなってきました。こういう木造車の修復は大工さんの手作りなのでしょうか?

 

8.昨年の修復中の様子

近くに寄って見ると、こんな状況です。

ところで、前面窓の縦枠に注目です。なにやら緑色の角材が継がれていますが・・・・これ、もしかして木片を旧車体からの流用したのか?。なんだかテレビで見たことがある重要文化財の修復を思い出しましたが、真相は?。おそらく、まともな図面がなさそうで、現物合わせで修復されている様です。

 

9.昨年の修復中の様子

昨年12月中旬には、もうここまで出来ていました。ところが、展示場を囲む柵も着々と進んでおり、すでにまともな写真が撮れない状況になっていました。これは悩ましい。

 

10.昨年の修復中の様子

ビューゲルも復活しています。絶縁とは言え、まな板の上に載っているだけ!!

つづく。

第950話 1993年鹿島:空気を運ぶ大増発(その3)

ここは、何もない四箇村近くですが、ガラガラの列車は不安になるくらい頻繁にやって来ました。KR500形は従来車に比べて飛躍的に燃費が向上しましたが、この増便はどう考えても、おかしい。そして、もったいない。

 

1.KR502 (四箇村~常陸小川:1993年5月)

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列車を増やせば乗客も増えるという考え方もあるようですが、そうならなかったのが新潟交通でした。ちょうどこの年の7月末で、新潟交通の燕~月潟間が廃止されましたが、もともと輸送需要がない地域で列車を増発しても意味がありません。常陸小川もそんな感じがしました。

 

2.KR502 (四箇村~常陸小川:1993年5月)

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こんなに長閑な場所です。人通りよりも列車本数の方が多かったです。列車は1時間に1本あれば十分です。

 

3.キハ601 (四箇村~常陸小川:1993年5月)

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鉾田行きのキハ601がやって来ました。こちらは乗客が多少乗っていました。おそらく玉造町や鉾田に向かう人だと思います。どうせなら、少しでも乗客の多い列車に新車を充当した方がサービスになると思うのですが・・・・。

 

4.キハ601 (四箇村~常陸小川:1993年5月)

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しかし、KR500形は4両となり、もう鉾田までのロングラン運用にも入っていました。この先、KR500形の更なる増備があれば、こんどはキハ600形やキハ430形が危ういです。やはり趣味的には、いつまでも旧型車には頑張ってもらいたい。少なくともこの頃は不安だらけでした。

 

5.KR502 (四箇村~常陸小川:1993年5月)

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結果的には、これ以上KR500形は増えませんでしたが、このもったいない区間運用は続きました。

 

6.KR502 (四箇村~常陸小川:1993年5月)

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この頃の鹿島鉄道は、儲け頭の貨物輸送があったので、この様な無駄な列車運用も見過ごされていたのではないかと思います。なんともバブリーな時代でした。

第949話 1993年鹿島:空気を運ぶ大増発(その2)

この頃の鹿島鉄道の列車運用は、KR500形の稼働率がかなり高く、特に玉里や常陸小川折返しの区間運用には、ほとんどKR500形が充当されていました。

 

1.キハ601 (四箇村~常陸小川:1993年5月)

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一方、従来の気動車ですが、鉾田行きのロングラン運用に充当されており、日中はキハ600形、キハ430形も、相変わらず走っていました。よって、この区間ではほぼ1列車おきにキハ600形かキハ430形もやって来ました。

 

2.キハ601 (四箇村~常陸小川:1993年5月)

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しかしながら、せっかくのキハ600形もこの白装束にはがっかりです。こんな老体までKR500形に調子を合わせる必要があるのか?この白装束塗装は天気が良いとかなり絞り込まないと、こんな感じで真っ白になってしまいます。

 

3.キハ601 (四箇村~常陸小川:1993年5月)

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キハ600形は、どうも周りの景色と調和しません。天気も良く、田圃の状況も春らしいのですが、困ったものです。

 

4.キハ601 (常陸小川~四箇村:1993年5月)

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しかしながら、キハ600形は相変わらず元気でした。元気過ぎて使用頻度も高く、その後冷房化されます。まさか路線廃止となる2007年までこの車両が生き延びるとは思いませんでした。

 

5.KR502 (四箇村~常陸小川:1993年5月)

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再びKR502の登場です。なんだか頻繁に列車がやって来ます。この区間は日中ほぼ30分間隔の運行なので、上下列車は15分ほどの間隔で現れます。

 

6.KR502 (四箇村~常陸小川:1993年5月)

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しかし、どの列車もガラガラです。列車本数の増加はおおいに結構なことですが、空気を運んでいる様です。こんなガラガラな列車を走らせていて、本当に大丈夫なのか傍で見ている方が心配になるくらいでした。

 

7.鹿島鉄道時刻表 下り抜粋(1989年6月16日改正)

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8.鹿島鉄道時刻表 下り抜粋(1993年3月18日改正)

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この当時の列車運行ですが、この撮影の2ヵ月前にダイヤが改正されました。改正前後の時刻表(抜粋)を示します。改正前の時刻表は、石岡南台の開業に合わせて石岡~玉里間の区間列車を大増発した時のものです。この時にKR500形が導入されましたが、当初は石岡~玉里間の区間列車にKR500形がほぼ専属で充当されました。ところで、2カ月前のダイヤ改正では、常陸小川行の区間列車が大増発されて、常陸小川は大変便利になりました。しかし、常陸小川に何が出来たわけでもなく、いったい何が起こったのか?、増発された理由が不明でした。実際、輸送需要があったのは石岡~石岡南台までの僅か1駅間だけでした。区間列車は折り返し設備のある玉里まで運転されていましたが、玉里まで利用する人はほとんどいないはずです。にもかかわらず常陸小川まで増便したのはどういう理由なのかさっぱりわかりません。