ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第48話 1985年有田 和歌山の小私鉄(その3)

大手不動産会社に助けられた紀州鉄道とは対照的に、独自の道を歩んでいたのが紀州鉄道のお隣の有田鉄道でした。

有田鉄道紀州鉄道ほどではありませんが全線5.8kmの零細鉄道でした。開業は紀勢本線より古く1915年で、当初は紀勢本線との接続駅となった藤並から海岸まで3.6kmの路線が存在しました。開業時は紀勢本線もなく、有田鉄道は沿線で生産される有名な“有田みかん”を海岸まで運び、そこから船で輸送する目的でしたが、紀勢本線開通後は貨車を藤並から国鉄に直通できるようになり、並行路線となった海岸~藤並間は不要不急路線として戦時中に撤去されてしまいました。ところが開業時の名残というか強制撤去の代償で、紀勢本線の藤並~湯浅までの1駅間に有田鉄道の列車が乗り入れすることになり、この乗り入れは1950年から1992年まで実施されました。

 

1.みかん畑を行くキハ58003 (下津野~御霊:1985年12月)

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有田鉄道の沿線は、みかんの一大産地です。みかん畑は線路のすぐ脇から近隣の山の天辺まで広がり、このみかんを有田鉄道は輸送していましたが、国鉄の貨物縮小のあおりをモロに受けて、有田のみかん輸送も前年の1984年になくなってしまいました。

 

2.みかん畑を行くキハ58003 (下津野~御霊:1985年12月)

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みかん輸送がなくなった後は悲惨です。お隣の紀州鉄道よりはるかに人口希薄なこの地域で、鉄道自体の存在意味が見えません。辛うじて通学のために残った感じです。

1985年当時、列車は全線7往復、そのうち4往復が国鉄湯浅まで直通だったと記憶しますが、並行して自社のバスも走っており、その後はバスが列車代行となって列車本数が減ってゆきます。

 

3.車庫併設の金谷口構内のキハ58形 (金屋口:1985年12月)

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この頃の有田鉄道の車両は零細鉄道にしては立派すぎる国鉄キハ58形?モドキの3両がオールキャストでした。

モドキの理由は元国鉄ではなく、元富士急行キハ58だったからです。富士急行国鉄中央東線に乗り入れて新宿まで直通するため、当時非電化だった中央東線の急行アルプス号に併結するための独自の気動車を発注しましたが、結局国鉄キハ58形のコピーとなりました。しかし、中央東線が電化され、急行アルプス号も電車化されるとキハ58形モドキは不要となり、それを有田鉄道が購入しました。

有田鉄道では、キハ58形モドキの入線前は老朽化した元国鉄キハ07形(トルコン付き)が活躍していましたが、1975年に突然デッキ付き急行型気動車にグレードアップしたわけです。ところで有田鉄道が立派すぎる国鉄型車両を購入した理由には、紀勢本線乗り入れが背景にありました。国鉄に乗り入れるのに、得体の知れない車両は使えません。その点、元富士急行の車両とは言っても国鉄キハ58形そのものなので、文句を言う人はいません。

 

4.片運車キハ58002 (金屋口:1985年12月)

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キハ58形モドキは有田でもキハ58形(注1)を名乗りましたが、さすがに2エンジンは過剰であるため、入線にあたり国鉄高砂工場でエンジン1基とトイレ、洗面所の撤去を行いました。
(注1)キハ58形の車歴
・有田キハ58形(キハ58001,58002)←富士急キハ58形(キハ58001,58002):1962年日本車輌
・有田キハ58形(キハ58003)←富士急キハ58形(キハ58003):1963年日本車輌

 

5.両運車キハ58003 (金屋口:1985年12月)

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 キハ58形モドキで特徴的だったのがキハ58003でした。当時私は国鉄のキハ58形など全く興味がなく見向きもしませんでしたが、このキハ58003だけは事情が異なり、この車両がいたので有田に立ち寄ったと言っても過言ではありません。

この車両は新製時から両運車でした。国鉄ではキハ58形の両運車はなく、北海道向けに製造された同形のキハ53形の一部が、国鉄末期に両運車化したに留まります。キハ58003は富士急が自社のキハ58形用の予備車として増備したもので、片運車のキハ58001、58002のどちらの代替にも使えるように両運車としてアレンジしたものでしたが、このような変形車両が大変興味をそそります。

そして、キハ58003は輸送量の少ない有田鉄道では重宝されました。

 

6.古風な保線用モーターカー (金屋口:1985年12月)

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有田鉄道はその後も沿線の過疎化に抗戦しながら、究極の運用合理化を進めます。地域密着の鉄道として涙ぐましい努力が2002年まで続きました。