ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第49話 1985年野上 和歌山の小私鉄(その4)

年が明けました。いよいよ平成も終わりに近づいていますが、当方は相変わらず昭和の晩年を回想中です。

さて、和歌山の海南には古くから野上電鉄が走っていました。

開業は1916年でここも紀勢本線より早い開業です。しかし沿線は途中から貴志川の渓谷に沿った山間部でそれほど人口も多くはなく、特別な輸送需要やこれと言った貨物もなく、どうしてここに鉄道が存在するのか不思議な路線でした。

 

1.日中の主力車デ10形 デ11 (下佐々:1985年12月)

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 野上電鉄の生い立ちは、大正時代に起こった軽便鉄道ブームによるものです。当時の軽便鉄道法による補助金で「おらが村にも軽便を・・」と、地元の有志が集って会社を立ち上げたもので、開業時は野上軽便鉄道と称していました。しかし、認可申請の段階で動力を電車に変更するなど、結局地方鉄道なみの電気鉄道となり、社名もすぐに野上電鉄に変更されました。開業時は業績もよく、更なる延伸も具体化して用地買収や建設工事も一部開始されましたが、戦争に突入して中断。戦後は落ち着いた頃にはモーターリゼーションによる乗客離れで業績は悪化の一途をたどり、とても延伸などできない状況に陥ってしまい、延伸計画未成線のまま終わってしまいました。

昭和40年代以降は、会社の経営状況も思わしくなく、幾度となく廃止の危機にさらされましたが、沿線の地形が幸いして道路事情が悪く、代替輸送手段に問題があったことから、最悪の事態を乗り越えてきました。

 

2.終点登山口駅に停車中のデ12 (登山口:1985年12月)

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 終点の登山口はどこへの登山口なのか意味不明な駅名ですが、当初は生石口と称し、生石高原方面への玄関駅を意味しているようです。この駅は当初中間駅として計画され、この先の神野市場まで4.7kmほど延伸されるはずだったので、その名残で線路は駅の先に少し伸びており、車両の留置線として使用されていました。神野市場への延伸は未成線のまま1964年に廃止され、登山口が正式な終点となり、神野市場方面へは自社バスにて運行されていました。

 

3.デ12 (下佐々~登山口:1985年12月)

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この日、天気が良かったので登山口から下佐々までブラブラ歩きながら撮影しました。日中は2列車運用でしたが、デハ10形ばかりでお目当ての阪神小型車はなかなか出番がありません。デハ10形は総括制御車でしたが専ら単行運転用で連結運転を見たこがありません。ラッシュ時は従来車が連結運転に充当されていました。

 

4.富山からやって来たデ12 (日方:1985年12月)

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 野上電鉄は、1971年に廃止を表明しましたが、その後オイルショックによる乗客の微増と地元の廃止反対、そして国の欠損補助により奮起しました。その際に導入されたのが元富山地方鉄道のデ5000形4両です。この4両は1976年に譲受後自社工場にてステップ撤去等の改造を行って1976年~1977年に順次竣工しましたが、その途上で1両は火災焼失してしまい、結局3両が2代目デ10形(注1)となりました。
(注1)2代目デ10形の車歴
・野上デ11Ⅱ,12Ⅱ,13Ⅱ←富山地鉄デ5031,5035,5037:1951年愛知富士産業製

 

5.元阪神小型車のクハ104、クハ102、モハ31 (日方:1985年12月)

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野上電鉄といえば元阪神小型車の天国でした。

1985年当時、本家の阪神電鉄ではジェットカーも廃車譲渡され始めた頃ですが、野上谷ではいまだ阪神小型車時代の電車が活躍していました。阪神時代は100km/hほどの速度で走っていた車両も野上ではのんびり余生を送っていました。阪神電車標準軌なので台車は南海電車のお古に交換されていましたが、車体はまぎれもなく阪神電車です。しかし、デ10形が導入されると日中は車庫で昼寝が多くなりました。

 

6.明かり窓付きのクハ101 (日方:1985年12月)

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野上電鉄にはラッシュ時増結用のクハ100形(注2)が3両在籍しました。これらは元阪神1111形、1121形の車体流用ですが、1111形だったクハ101Ⅱは車体側面の幕板部に明かり窓がついたモダンな車両でした。阪神時代はいずれも両運電動車でしたが、野上では電装解除して運転台は登山口寄りのみの片運車となりました。しかし、輸送需要が減少し、ラッシュ時の3連がなくなり、デ10形の増備で車両に余剰が生じたため、クハ100形は真っ先に運用離脱の槍玉に上がってしまいました。

(注2)2代目クハ100形の車歴

・野上クハ101Ⅱ,102Ⅱ,104←阪神1118(モハ),1128(モハ),1122(モハ):1934年日本車輌

(クハ101Ⅱ,102Ⅱは初代クハ101,102と入れ替わりで入線しましたが、初代の名義は引継ぎませんでした。)