ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第59話 1984年関東(常総) 大非電化私鉄の"東の雄”(その4)

引き続き、関東鉄道常総線の車両ですが、徐々にディープになってきました。ここからは更にゲテモノ特集で気合が入ります。なお、今回はまともな写真がなく、非常に画像が荒れていますがご了承下さい。

関東鉄道常総線の複線化など大量輸送の備えを昭和40年代から着々と進めていましたが、車両不足と老朽化が深刻で、全国の中古気動車を物色していたそうです。その頃はちょうど、北海道の炭鉱鉄道や各地の廃止路線からある程度の中古車を入手できましたが、それでも足りず、行き着いたのが小田急でした。

 

1.元小田急の優等車両だったキハ752 (水海道:1984年10月)

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 その昔、小田急にも気動車がいたのをご存知でしょうか?

もう60年以上も前のことですが、新宿~御殿場間の特急「あさぎり号」の前身である、特別準急の「銀嶺号」、「芙蓉号」は御殿場線が非電化だったため、小田急キハ5000形及びキハ5100形気動車で運行されていました。その後、御殿場線が電化されると初代ロマンスカー3000形SSE車の「あさぎり号」に代わり、気動車はお払い箱となりました。

そこに目をつけたのが車両不足で悩んでいた関東鉄道でした。結局、 関東鉄道は1968年に小田急から4両の気動車を全部購入しました。この4両に目をつけた関東鉄道には恐れ入りますが、それだけ気動車が入手困難だったものと思われます。

しかし、気動車とはいえ、一応優等列車仕様です。オールクロスシートのデッキ付き1ドア、トイレも有り、しかもダブルエンジンの車両を買ってどうするつもりか・・・。ところが気動車なら何でも来いの関東鉄道は、この車両を見事に通勤車に仕立て上げました。そして、その改造が凄まじい!!。いきなり外吊り片引きドアを増設して3ドア化。これが関東流ゲテモノ車の先駆けキハ751形、753形(注1)となりました。

(注1)キハ751形、753形の車歴
・関東キハ751形(キハ751,752)←小田急キハ5000形(キハ5001,5002):1955年東急車輛
・関東キハ753形(キハ753)←小田急キハ5100形(キハ5101):1956年東急車輛
・関東キハ753形(キハ754)←小田急キハ5100形(キハ5102):1959年東急車輛

 

2.元小田急コンビのキハ751+キクハ1 (水海道:1984年10月)

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キハ751形と753形の外観上の違いは、正面窓幅と側窓配置が異なる程度です。これは小田急時代キハ5000形がシートピッチを見直した際に座席と窓の位置関係にズレが生じてしまったため、増備車であるキハ5100形では窓配置を変更したからです。

小田急キハ5000形、5100形は均整の取れた精悍な外観でした。新宿あたりに顔を出しても決して引けを取らない優等車でしたが、変われば変わるものです。しかしながら、実車で模型の世界の様な改造をやってしまうのですから相当なものです。この改造を請け負ったのは日本車輌でした。長年のお付き合いなのか、断り切れなかったのか、見てくれはさておき、この改造を手堅くまとめた日車はさすがです。これなら、いざとなれば国鉄の特急車を通勤車に変身させることも可能だったのではないでしょうか。

 

3.元小田急電車のキクハ1 (水海道:1984年10月)

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1984年当時水海道には、そのまんまの小田急電車もいました。 いよいよ常総線も電化?かと思いきや、これはエンジンを持たない制御車のキクハ1形(注2)でした。

なぜ小田急電車なのか?

実はダブルエンジンで余力を持て余していたキハ751形、753形の相棒として1969年に購入された車両でした。キハ751形、753形が元小田急だった建前なのか、この車両も小田急から購入されました。この車両は元から通勤電車であったため、これ以上の通勤車化改造はされず、いわゆる関東流の洗礼を浴びませんでした。しかし、気動車の電車化は結構事例がありますが、電車の気動車化(ただし制御車)は珍しいです。

(注2)キクハ1形の車歴

・関東キクハ1←小田急クハ1655(省サハ19022の戦災復旧名義):1952年日本車輌

・関東キクハ2←小田急クハ1651Ⅱ←小田急クハ1652←東急クハ1652←小田急クハ602(省ホハニ4152改造名義?):1941年帝国車輌製

・関東キクハ3←小田急クハ1652Ⅱ←小田急クハ1651←東急クハ1651←小田急クハ601(省ホハユ3158改造名義):1941年帝国車輌製

・関東キクハ4←小田急クハ1653←東急クハ1653←小田急クハ603(省ホハニ4204改造名義):1941年東京工業製

小田急クハ1650形はその生い立ちが非常に複雑です。元は戦時統制下において鉄道省から払い下げを受けた明治時代の木造客車の台枠を流用して3両が製造されました。これが関東キクハ2~4の前身となった車両です。そして、小田急クハ1650形は戦後も増備され、先ず木造国電の戦災復旧名義で製造された2両のうち1両が関東キクハ1の前身となった車両です。明治時代の木造客車と言われても、何のことやらさっぱり分かりませんが、とにかく古く、100年以上も前の車両の名義を引き継いでいるということで、現実的ではありません。

 

4.元小田急電車のキクハ1 (水海道:1984年10月)

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キクハ1形はキハ751形、753形に合わせて4両在籍しましたが、小田急時代にこのコンビを想像していた人はいなかったと思います。 

なお、当時常総線には小田急クハ1650形を種車とするキサハ(中間不随車)も在籍していました。しかし、キハ0形の増備によって、キクハ、キサハは間もなく姿を消します。

 

5.前代未聞、4ドア車のキハ755(水海道:1984年10月)

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 常総線には1両だけ南海からやって来た車両がいました。それがキハ755(注3)です。

この車両は、南海電鉄国鉄気動車の急行「きのくに号」に併結して紀勢本線に直通するため、国鉄キハ55形をコピーして新製した車両です。南海には紀勢本線直通用の気動車が9両いましたが、常総線にやって来た車両はその中でも一番新しい1962年製ただ1両だけでした。実は事故車で南海で持て余していた車両だったそうですが、これも関東鉄道の目に留まり、めでたく商談が成立しました。

この車両も元急行用の優等列車仕様で、オールクロスシート、トイレ、デッキ付きの2ドア車でしたが、小田急キハ5000形、5100形の前例によって、今度は西武所沢で1974年に通勤車化され、ダブルエンジン車なので、元小田急グループの追番でキハ755となりました。ところでこの車両の注目は改造で4ドア化されことです。今度は体裁を考えてか、ちゃんとした戸袋式の両引きドアを2か所増設となりましたが、前代未聞、恐らく最初で最後の4ドア気動車です。もっとも、元のドアは車端で狭い片引きドアだったので、これでは通勤路線の常総線では用を成しません。

(注3)キハ755形の車歴

・関東キハ755形(キハ755)←南海キハ5501形(キハ5505):1962年帝国車輌製

 

6.でこぼこコンビのキハ704+キハ703(水海道:1984年10月)

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 キハ704(注4)は、元国鉄キハ42004でした。この車両は元国鉄キハ42000形では一番早く1952年に常総筑波鉄道常総線に転入した車両です。入線当初は再びキハ42000形(キハ42001)を名乗りましたが、この車両を語る上で同僚のキハ703(注5)を絡めなければなりません。

ちなみに、キハ703は常総筑波鉄道が自社発注したオリジナルの車両で、国鉄キハ10形の前面を非貫通2枚窓とした形態の軽快な車両でした。しかし、機械式だったので常総筑波キハ42002として常総線に登場しました。その後、常総筑波キハ42001、42002は共にトルコン化を経て、1965年に揃って関東流通勤車化の洗礼を浴び、それぞれキハ703,704となりました。ところが、その改造でややこしいことが・・・

例によって関東流の洗礼を浴び、片運化と流線形の排除が実施されましたが、その際にキハ42002の片運化で不要となった2枚窓の前面がキハ42001に移植されました。よって、この2両は同じ顔を持つキハ703,704となり、基本的に2連を組むことになりましたが、側面は種車のままなので、非常に違和感のある“でこぼこコンビ”となりました。

(注4)キハ704の車歴:関東キハ704←常総筑波キハ42001←国鉄キハ42004:1935年日本車輌

(注5)キハ703の車歴:関東キハ703←常総筑波キハ42002:1955年日本車輌

 

さて、1984年10月の報告は以上になりますが、私は古い気動車に大変興味があるため、ついつい蘊蓄が長くなってしまいました。また、つい熱が入り、大変失礼な表現も多々ありますが、気動車が好きであるがゆえのぼやきと言うことでご勘弁願います。

1984年時点、関東鉄道は各地から集結した1形式1両といった雑多な車両が多く在籍し、とても数時間で全容を確認することはできませんでした。1984年10月の訪問は序章に過ぎず、これから先、旧型車が全滅するまで関東鉄道との付き合いが続きます。