ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第65話 1979,1980年下津井 瀬戸大橋がなかった頃

私は中学生時代から古い鉄道車両を求めて山陽地区のローカル私鉄を見て回りましたが、岡山に存在した下津井電鉄にはなかなか出向けませんでした。

下津井電鉄ナローゲージということで、非常に気にはなっていましたが、出向けなかった理由は、とても不便な場所だったからです。たいていの地方鉄道は国鉄の駅か、それに近い場所を起点としているものですが、当時下津井電鉄国鉄から遠く離れた児島から下津井までの路線で、児島へは倉敷または岡山からバスに乗るしかなく、下津井に行くには一日がかりとなってしまい、他の鉄道と掛け持ちで早回りするには厳しいと思っていたからです。

今回は、重い腰を上げて下津井電鉄を初めて訪問した1979年と、2回目訪問の1980年のいずれも真夏の様子を若干ですがご紹介します。今回もインスタントカメラの古いプリントをスキャンした画像なので粒子が荒く、お見苦しいですがご了承願います。

 

1.2連のクハ24+モハ103と単行のモハ1001 (下津井:1979年8月)

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 ところで、下津井電鉄はもともと国鉄宇野線茶屋町駅から児島を経て下津井に至る路線でした。下津井から連絡船で四国の丸亀へ通じる本四連絡ルートの一翼を担う鉄道として開業しました。しかし、国鉄宇高連絡船には敵わず、四国に行くのにわざわざ下津井電鉄を利用した人がどの程度いたのか?沿線もまともな街は児島くらいしかなく、児島の人はたいてい倉敷に出かけるので、下津井電鉄には乗らず、バスかマイカー利用がほとんどだったと思います。結局、茶屋町~児島間は1972年に廃止されましたが、児島~下津井間の僅か6.5kmは道路事情が悪いという理由で残されました。

 

2.クハ24+モハ103 (下津井:1979年8月)

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 下津井電鉄軽便鉄道規格のミニ鉄道でしたが、路線短縮後は車両数も必要最小限に整理されてしまい、本当にミニ鉄道になってしまいました。

1979年時点の保有車両は、単行用の両運車であるモハ1001、2両固定編成のモハ103+クハ24、3両固定編成のモハ102+サハ2+クハ22がオールキャストでした。普段は単行か2連で運用されましたが、沿線の琴海近くにある児島競艇の開催日には3連が走りました。

 

3.単行のモハ1001と2連のクハ24+モハ103 (下津井:1979年8月)

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下津井へのアクセスですが、岡山か倉敷からバスで児島に出て、児島から下津井電鉄に乗ることになります。当時私は広島に住んでおり、毎度山陽本線の鈍行列車を使用するので、最初の訪問時は倉敷から児島までバスを利用しました。バスは料金が高く痛手ですが、このバスは結構本数も多くて意外と便利で、岡山経由より1時間以上の時間短縮となりました。

下津井電鉄児島駅は移設前の路線短縮時の場所にありました。そして、初めて乗車したナローの車両は2連のモハ103+クハ24でした。児島を出発した電車は民家の軒先を通り抜けて阿津を過ぎると一気に勾配を登ります。そして鷲羽山あたりでこの路線の存在理由が良くわかりました。この付近は現在の瀬戸大橋線ではトンネルで一瞬に通り抜けてしまいますが、かなり急峻で、まともに道路を敷ける地形ではありません。線路は山肌を削って施設されていますが、軽便規格なので何とかなった感じです。路線のピークである鷲羽山を過ぎ、東下津井を過ぎると今度は一気に下り勾配です。電車はノッチオフでどんどん下り、大きなカーブを過ぎると下津井でした。

 

4.モハ1001の標記とサボ (下津井:1979年8月)

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 モハ1001(注1)は両運車で晩年は最も稼働率が高い車両でした。元はクハ23だったものを路線短縮時の1972年に両運電動車化したものです。昔の混合列車時代の名残でバッファーとピンリンク式の連結器も併設されていましたが、保線用の貨車を牽引するためのものと思われます。

(注1)モハ1001の車歴:下津井モハ1001←下津井クハ23:1954年帝国車輌製

 

5.クハ24+モハ103 (東下津井:1980年8月)

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2度目の下津井訪問は翌年の1980年8月でした。

この時は早朝から岡山電軌を見て、その後は岡山臨港を訪問し、水島臨海から移籍したキハ7000形に乗車して、その足で宇野線茶屋町経由で下津井に向かいました。茶屋町から児島まではかつて下津井電鉄が走っていた区間ですが、同社のバスに乗りました。今なら岡山から児島までマリンライナーで22分程ですが、そのルートでは岡山から児島まで、たっぷり1時間以上かかります。 当時は本四連絡橋などまだまだ先の夢のような話で、茶屋町駅は地平で下津井電鉄の駅跡も面影を残しており、瀬戸大橋線の工事もまだ始まっていませんでした。

 

6.クハ24+モハ103(下津井~東下津井:1980年8月)

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2度目の訪問は少し沿線を歩いて走行写真を撮りました。まずは東下津井~下津井間の大カーブです。ここは下津井駅のすぐ近くで、障害物もなく何枚も連写できる場所でした。

そして前回訪問時から気になっていたのが、東下津井駅です。無人駅でしたが立派な木造の駅舎が残っており、この駅舎と電車の組合せを撮りたくて歩きました。しかし、真夏の炎天下でこの1枚を撮ってギブアップです。

 

7.クハ24+モハ103(下津井:1980年8月)

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 この日は2連のモハ103+クハ24(注2)が運用に入っていました。

この車両は当初から2両固定編成で自社発注された全金属製車両で、1974年にワンマン化された際に乗務員扉を撤去しドア配置を変更したため、側窓の並びが変則的になってしまいました。
(注2)モハ103+クハ24の車歴:下津井モハ103+クハ24:1961年ナニワ工機

 

2度目の訪問時はとにかく暑かった記憶しかありません。当時の下津井は瀬戸大橋もなく、ひなびた漁港でしたが、丸亀航路も健在でそこそこ活気もありました。しかし国鉄との連絡も絶たれ、僅か6.5kmの小鉄道が生き残るには非常に厳しい状況でした。幸い同社のバス事業が岡山ではかなり大手であったことから、社名こそ電鉄ですが、バス事業の傘下に入り生き延びていました。