ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第93話 1980年広島 ヒロ電ボロ電の頃(その4)

1980年広島電鉄では大きな革命がありました。

それは路面電車の革命とも言うべき「軽快電車」の導入です。しかし、広電は軽快電車が欲しかったわけではありません。日本鉄道技術協会が路面電車復権を賭けて開発した3連接高性能?路面電車を広電に預けたと言うのが実態でしょうか。結局預かった車両を広電は購入するはめになりましたが、この軽快電車、実は結構厄介ものだったようです。

 

1.小雨のなか奇妙な車体が回着!! (荒手車庫:1980年7月)

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本来私は新しい電車には全く興味がありませんが、さすがに奇妙な電車が地元にやって来たので気になりました。当時私は高校生でしたが夏休み中で余程暇だったのか、雨の降るなか、わざわざ軽快電車の搬入を見に行きました。

 

2.軽快電車の搬入開始 (荒手車庫:1980年7月)

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今では考えられませんが、 関係者でもない高校生がこんな写真を撮影できたのも佳き時代でした。しかし、こんな写真を撮っている人は他にはいませんでした。

 

 3.レッカー車2台によるオンレール作業 (荒手車庫:1980年7月)

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 ところでこの軽快電車は、最初から冷房車でとても高性能な路面電車でした。

当時の路面電車はまだまだ吊掛車が主流でした。何例かカルダン車を導入した事例はありますが、運転取り扱いやメンテナンスの都合普及せず、吊掛車に戻してしまったケースもありました。路面電車の高性能車は、なぜか異端車で終わってしまう場合が多かったです。

広電でもかつて1958年に850形851(現在350形351)という高性能車の試作車を導入したことがありますが、制御系の故障が多く、吊掛車に改造してしまった経緯があり、それから22年目にして軽快電車は2度目のチャレンジでした。

 

4.台車入れ作業 (荒手車庫:1980年7月)

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では、軽快電車はどうかと言えば、残念ながらご多聞に漏れず異端車というか厄介ものになってしまった?様です。

何が問題だったのか?詳しいことは分かりませんが、漏れ聞こえた話では、軽快電車は在来車とは全く異なる運転感覚が要求された様で、運転のしにくさが原因のようです。やはり他社と同じような問題が広島でも起こっていました。

軽快電車は間接自動制御に加え、回生ブレーキ併用のチョッパ車です。当時一般鉄道ではチョッパ車が主流となった頃ですが路面電車では実績はなく、新規開発だったと思われます。チョッパ車と言えば省エネ電車で当然回生ブレーキ付きですが、路面電車では低速の発進・停止が頻繁で、特に低速域の回生ブレーキ力不足や電空切替がブレーキの応答性に影響したのではないかと思われます。路面電車は急ブレーキが命です。ブレーキの応答性が良い直接制御車に比べると軽快電車のブレーキタイミングは明らかに違い、運転操作に神経を使います。 実際試運転中にもいろいろあった様で、車庫で寝ている日が多かったように思います。

しかし、それも新開発車両であるが故の定めです。この車両の功績は後の新系列車両に受け継がれて行きます。

 

5.オンレール完了 (荒手車庫:1980年7月)

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軽快電車の特徴は、私が説明するに及びませんが、弾性車輪を使用したインサイド軸受けの空気ばね台車とメタリック幌、そして両手連動式ワンハンドルマスコンは目新しかったです。これだけの車両を造るにはかなり費用も掛かったと思われます。ちなみに 日本鉄道技術協会では広電の他に、長崎電軌向けにも純粋な路面電車タイプの軽快電車を2両導入しました。

ところで、これらの費用はなんと“世界は一家、人類は兄弟”を提唱した笹川良一氏率いる当時の日本船舶振興会のバックアップ(要は競艇の収益金がベース)によるものだったので唖然とします。競艇と電車の接点が理解できませんが、広電の場合厄介者になってしまった軽快電車は、本来の役目である市内線直通の運用から外されて、宮島線内の限定運用に成り下がったあげく、宮島競艇の貸切無料列車専属となりました。せっかくの次世代を担う軽快電車なのにもったいない使い方ですが、よくよく考えるとこの電車は競艇の収益金で造られたようなもので、理にかなった活用なのかも知れません。

 

6.組成作業 (荒手車庫:1980年7月)

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軽快電車は、試作車ですが形式は3500形(注1)となりました。写真には川崎重工の張り紙が見えますが、一応川崎重工アルナ工機の共同製作となっています。しかし川崎重工はこの車両以降は国内の路面電車を手掛けておらず、いずれ広電に導入される新系列の路面電車は全てアルナ工機製となりました。

軽快電車の外観は時代に相応しいキュービクルなデザインでした。この写真を見るかぎり、当時としてはそれなりに斬新で、軽快なスタイルと思われましたが、このあと屋根上に集中クーラーやら平滑コンデンサ等が搭載されて完成です。しかし屋根上に機器を搭載した姿は、軽快どころか重苦しい車両になってしまいました。

 (注1)3500形の車歴:広電3501A+C+B:1980年川崎重工アルナ工機

 

7.営業初運用の記念列車がまさかのトラブル (高須~東高須:1980年12月)

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軽快電車の搬入は1980年7月29日でしたが、営業投入はその年末12月10日でした。結構調整期間が長かったように思いますが、その大半は車庫で寝ていたようです。

私は軽快電車の営業初日に記念列車を見に行きました。しかし、初っ端から災難が発生しました。記念列車がなかなか来ません。実は出庫時にパンタグラフが架線から外れたとかで、ようやくやって来た記念列車は後部車のパンタを上げていました。波乱の門出となり、その後もいろいろあったようですが、あれから39年の歳月が流れました。長崎では軽快電車(2000形)は2014年に廃車となりましたが、広電の方は休車中とか・・・。ガンバレ軽快電車!!。