ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第1062話 1993-94年広島:広電の2000形

私たちの世代にとって広電の電車で最も馴染み深いのは2000形ではないかと思います。高度経済成長期に登場した小さなピンクの電車は、原爆被災からの復興を象徴するような明るい電車でした。そしてヒロ電ボロ電を脱却する広電の顔でした。

 

1.2004+2005 (原爆ドーム前本川町:1993年8月)

この写真は、もう30年も前に撮影したものですが、この頃の広電は3900形等の新型車が出そろった時期であり、2000形はラッシュ時の予備車的存在でした。連接車ではなく、連結車であるため、ワンマン化が図れず、2500形の様に3連化も出来ず、輸送力的にもお荷物になってたい感じですが、一応冷房車であり、まだまだ車両不足であったことから、特にラッシュ時には欠かせない存在だったようです。

 

2.2001 (荒手車庫:1994年5月)

ところで、2000形は元々両運車でした。その名残が荒手車庫に居た2001です。2000形は市内線と宮島線を直通するLRT構想により先行導入された850形(後の350形)の改良版として1960年から9両製造されました。吊掛車ですが間接自動制御でスペック上の最高速度は75km/hだそうで、宮島線内の高速運転対応車でした。

 

3.2001 (荒手車庫:1994年5月)

しかし、輸送需要の増加で2500形2連接車に製造が移行し、9両で打ち止めとなりましたが、両運車ではあまりにも輸送力が足りないため1974年から2連化され、その際にコンビが組めなかった2001があぶれてしまい、その後は予備車となり荒手車庫に居座りました。

 

3.2001 (荒手車庫:1993年11月)

その後、2000形は冷房化、前照灯の移設、行き先表示の大型化などの改造を行い原形を崩していきましたが、2001は改造の対象とならず、貴重な原形車でした。

 

4.2007+2006,3806編成 (荒手車庫:1994年4月)

さて、現役の2000形ですが、比較的足回りがしっかりしていたので宮島線での運用も任されていたようです。しかし、この電車の宮島線内の走行は豪快でした。正直なところ当時の宮島線は軽快電車でもすごく揺れました。そんな路線を走る連結車の車端部はピッチングとヨウイングがミックス状態で連結部のサン板が飛び跳ねていました。ちなみに連結部は通行禁止でしたが・・・。

 

5.2007+2006 (荒手車庫:1994年4月)

しかし、2000形は軽快電車たちの運用を補完するには欠かせぬ存在だったのか、その後もまだまだ生き延びました。

 

6.2003+2002、812 (原爆ドーム前:1994年3月)

1993年は私にとって11年ぶりとなる広電の電車との再会でしたが、角ばった軽快電車が走るなか、たまに姿を現す丸頭の2000形を見ると、なんだか癒されました。