ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第1200話 番外編:1977年の印象

1200回目の節目が来ました。現在、当ブログは1996年頃の各地ローカル私鉄の様子を主体にお伝えしていますが、だんだん古い車両やローカル線ネタが厳しくなってきました。ときどき号外を発してお茶濁しをしていますが、この先どのように迷走するかわかりません。しかし、まだ続きますので、今後とも宜しくお願い致します。

さて、今回の番外編は古いネガが出てきましたので、そのネガの画像から47年前、1977年の様子を顧みたいと思います。実は今回の画像はネガを紛失して、もう諦めていたものでしたが、最近実家の物置を物色している際に、偶然ネガを発見し、早々近所の写真屋でデータ化したものです。しかし、元はカラー写真なのですが変色が激しく、とてもブログにアップできる状況ではなかったので、一部を画像処理でモノクロ化し、まだまだ不十分ですが何とか耐えられる程度になったので、今回の番外編でご覧いただくことに致しました。

 

1.キハ1001+ナハフ46他 (勝田:1977年8月)

中学2年生だった1977年の夏、広島から常磐線沿線の気動車を見るため鈍行を乗り継いで茨城へ向かいました。まずは茨城交通湊線です。初めて見る湊線の車両は留萌のヘソ電こと、キハ1001が率いる3連で、中間車は元国鉄キハ41000形のハフ46です。モノクロなのでこの頃の湊線の車体色をどう表現してよいのか悩みますが、わかりやすく表現すると赤茶色に白帯でした。このキハ1001がいた北海道の留萌鉄道の車体色がそのまま湊線の車体色になったものです。なんともローカルな茨城らしいカラーでした。

 

2.ケキ102+キハ20形他 (那珂湊:1977年8月)

この時の湊線は、ちょうど海水浴輸送でお祭り騒ぎでした。あるだけの車両を動員し、なぜか気動車も機関車牽引です。ケキ102は機関室の点検扉を全開にして奮闘していました。まさに「茨交夏の陣」です。ちなみに、1987年頃の「茨交夏の陣」は、第359話~第361話、第454話をご覧ください。

ケキ102は元々茨城線配属でしたが、茨城線の廃止により湊線に移籍したものです。津軽鉄道のDD350形とは同じ新潟鐵工製の兄弟車です。

 

3.ナハフ46他 (那珂湊:1977年8月)

中途半端な写真ですが、これがハフ46(注1)です。気動車とジャンパー線でつながれているので、この3連は総括制御なのか、ハフとは言うもののキサハの様です。実際にハフ46の形式はキハ41300形でした。

(注1)ハフ46の車歴

・茨交ハフ46←茨交ケハ46←東野キハ502←国鉄キハ41008:1933年日本車輌

ハフ46は、1968年に廃止となった東野鉄道経由で導入された元国鉄キハ41008です。ハフになる前は気動車として湊線で活躍しましたが、1971年に付随車化されて1980年に廃車されました。

 

4.キハ22形他5連 (那珂湊:1977年8月)

この頃は海水浴が庶民のトレンドでした。皆さん酷寒地仕様の気動車で阿字ヶ浦を目指しました。この時、那珂湊で下車したのは私くらいです。私の目的は海水浴ではなく気動車でした。

写真は、対向列車のキハ22形モドキです。この車両たちは、いずれ白装束となり、最近までお馴染みだった道産子気動車です。この列車は何と5連でした。後ろの車両が切れていますが、この車両はケハ402(注2)のようです。

(注2)ケハ402の車歴

・茨交ケハ402:1957年新潟鐵工所

ケハ402は、いわるゆ新潟鐵工タイプの湘南型気動車でした。茨交オリジナルの3ドア車でしたが、総括制御ができなかったので、恐らくトレーラー扱いと思われます。ケハ402は1980年に廃車されました。

 

5.ケキ101他 (那珂湊:1977年8月)

那珂湊機関区はほとんどの車両が出払っており閑散としていました。庫内にはケキ101(注3)とケキ103がいましたが、庫の向こう側に、もう1両気動車の姿が・・・。

(注3)ケキ101の車歴

・茨交ケキ101:1953年新潟鐵工所

ケキ101は元々湊線配属のL型20t機でしたが、大型のケキ103入線後は予備車となり、あまり稼働しませんでした。これも1980年に廃車されました。

 

6.ケハ601 (那珂湊:1977年8月)

秘蔵っ子のケハ601です。大忙しの湊線ですが、この車両は総括運転ができなく、引き通し線もないため、仲間外れで昼寝です。しかし、この時初めて見るケハ601は真夏の太陽に照らされてギラギラ光り、とても強烈な印象でした。この車両だけはモノクロでも十分に印象が伝わります。