ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第844話 1993年有田:ひょっこりレールバス!!(その2)

とうとう有田鉄道にも、中古車ではありますがレールバスが導入されました。この時点では、レールバスは1両確認できましたが、このあと何両増備されるのか、いつから運用されるのかは不明でした。しかし、そうなると既存車の動向が気になります。

 

1.キハ58003、キハ58001他 (金屋口:1993年7月)

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 当時、有田鉄道保有車は旅客用としてキハ58形が3両と未入籍で部品確保用の元JRキハ58136が1両いましたが、実態は両運車のキハ58003ばかり使用されていた様で、片運車の2連は、キハ58003が検査入場か故障した時くらいしか使用されませんでした。

 

2.キハ58003、キハ58001他 (金屋口:1993年7月)

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 2連のキハ58001+キハ58002はいるだけで経費の無駄使いですが、これも鉄道業として最少両数を確保するためには仕方ない状況でした。そんな時、中古で超小型のレールバスは、願ってもない救世主でした。

 

3.キハ58001 (金屋口:1993年7月)

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 このキハ58001などは、もし両運車だったらまだ使い道がありましたが、ここまで輸送需要がなくなると、もうどうにもなりませんでした。

 

4.DD353 (金屋口:1993年7月)

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 さて、話題を機関車の方に・・・・このDD353(注1)はレールバスが来るまでは庫の中でしっかり保管されていましたが、もう無用の長物扱いです。有田鉄道は本来ミカン輸送と言う貨物主体の鉄道でした。この機関車も、ミカン輸送のために八幡製鉄所から1979年に引き取られた凸型35t機ですが、国鉄の貨物合理化の煽りでほとんど活躍することなく無職になってしまい、1984年に廃車となりましたが、大事に保管されていました。しかし、更なる引き取り手がありません。残念ながらこのまま解体です。

 

5.DB20廃車 (金屋口:1993年7月)

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 このかわいい機関車も。長らくミカン輸送に従事していましたが1984年に廃車となり、もう9年がたちました。すでにプレートも剥がされて、得体の知れない存在と化していましたが、ニチユ製L型15t機のDB20(注2)です。

 

6.DB20廃車 (金屋口:1993年7月)

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 ところで、このDB20は有田鉄道の発注車でした。本来はダム建設の資材輸送用に総括運転ができるよう2両の導入が計画されましたが、資材輸送の話しが頓挫してしまい、とりあえず1両購入されました。もう1両はキャンセルされたものの、間に合わなかったようで、富山県伏木海陸運送に納入されたそうです。鉄道車両は結構納期がかかるので、生産ラインの確保や調達品の先行手配など、そのタイミングと判断が極めて重要ですが、キャンセルが出ると厄介です。機関車などは転売も可能ですが、意匠を凝らした旅客車などはそうも行かず、悩ましいばかりです。

 

7.保線用モーターカー (金屋口:1993年7月)

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 (注1)DD353の車歴

・有田DD353←八幡製鉄D353:1964年日本車輌

(注2)DB20の車歴

・有田DB20:1965年日本輸送機

第843話 1993年有田:ひょっこりレールバス!!

有田鉄道は、1992年12月にJR紀勢本線湯浅への乗り入れを廃止し、全長5.6kmの路線を往復するだけの零細ローカル線になってしまいました。もう廃止のカウントダウンが始まったのかと思いましたが、どっこい、これからがしぶとかったです。そんな有田鉄道を久々に訪問しました。

 

1.キハ58003 (藤並:1993年7月)

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 湯浅への乗り入れがなくなったので、もう不経済な国鉄型車両で運行する必要もなくなりましたが、悲しいことに、有田鉄道には、このクラスの車両しかありませんでした。

 

2.キハ58003 (藤並:1993年7月)

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 しかし、有田鉄道は先見の眼差しがあったのか、このキハ58形は1台エンジン化されていたので、それが唯一の慰めです。

 

3.キハ58003 (金屋口:1993年7月)

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 しかし、この頃にどの程度の利用客がいたのか、デッキ付きの20m車の運行は、やはりもったいないの極みでした。

 

4.キハ58003 (金屋口:1993年7月)

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 しかも、走りながら朽ちています。ドア横の誇らしかった「有田鉄道」のサボが悲しげです。

 

5.キハ58003 (金屋口:1993年7月)

 

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 悲しい気分でキハ58003の写真を撮っていましたが、後方のガレージには、何かいる様な・・・。

 

6.金屋口構内 (金屋口:1993年7月)

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たしか、このガレージには使用されなくなったDLが保管されていましたが、そのDLは、更に後方の旧貨物ホームに追い出されているのが見えます。

 ガレージに近寄ってみると、確かに何かいます。まさかバス?良く見るとどこかで見た様な塗装です。

 

7.ハイモ180-101 (金屋口:1993年7月)

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 もっと近寄ると、ひょっこりレールバス!!でした。

何と樽見鉄道のハイモです。塗装は紛れもなく樽見鉄道そのもの。しかし、すでに行き先表示は金屋口となっており、前面のエンブレムは有田鉄道の社章が・・・。

いつの間に入線していたのか?この日、偶然にもレールバスの存在を初めて知りました。しかし、まだ営業投入はされていませんでした。やはり、有田鉄道もいつまでもキハ58と言うわけではなかったと言うことですが、この車両の導入を見る限り、廃止どころか、まだまだやる気満々です。

第842話 1993年関東(龍ヶ崎):常総線に倣え!!(その2)

結局、龍ヶ崎線の車両は、塗装の変更だけで、他は何も変わっていませんでした。龍ヶ崎線は、1981年にキハ532が導入されてから、もう12年間も車両の変化がありません。鎖国状態と言うか、やはりガラパゴス的存在でした。

 

1.キハ531 (入地~竜ケ崎:1993年10月)

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 黒煙を吐いてキハ531がやって来ました。この路線は平坦なので、出発時に加速したら惰行で次の駅まで走れそうな感じがしますが、空吹かしなのでしょうか?

 

2.キハ531 (入地~竜ケ崎:1993年10月)

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ところで、この写真を見ると、塗装のせいか、いかにも新しい車両のように見えますが、この車両も足回りはとんでもない老体です。溯れば西の気動車大国であった江若鉄道の発注車である1931年製のキニ6です。これも機械式気動車の成れの果てです。

 

3.キハ531 (入地~竜ケ崎:1993年10月)

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  この車両は江若が廃止になった1970年に龍ヶ崎線にやって来ました。当初は江若時代のスタイルでしたが、1977年に関東流の洗礼を浴びて大栄車輌にてこのスタイルになりました。時期的には同じく大栄車輌で車体を新製した常総線のキハ311、312に続くものでしたが、キハ531は龍ヶ崎線仕様のため、両運車でステップ付きの片引き扉となりました。

 

4.キハ531 (入地~竜ケ崎:1993年10月)

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 キハ531は車体こそ古くありませんが、台車を見ると、素性がバレてしまいます。戦前製気動車を代表する、いわゆる菱枠台車のTR29です。そして、この車両は屋根に生えたキノコの様な、背の高いグロベンが特徴的でした。

 

5.キハ531 (入地~竜ケ崎:1993年10月)

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 この日、感じたことは、龍ヶ崎線には絶対にキハ35系は来ないだろうと言うことです。そして、その後もこの体制はまだしばらく続き、キハ35系の入線はなかったものの、1997年には新車の2000形が導入され、キハ521+キハ522が廃車されました。

第841話 1993年関東(龍ヶ崎):常総線に倣え!!

関東鉄道常総線が元国鉄キハ35系に占拠されてしまい途方に暮れていた頃、ふと、龍ヶ崎線を思い出しました。なんとなく、かつての関東鉄道に接したくなり、竜ケ崎を目指しました。

 

1.キハ532 (竜ケ崎:1993年10月)

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 しかし、と言うか、やはり龍ヶ崎線も「常総線に倣え!!」で、新塗装になっていました。このキハ532はキハ310形をベースとしたデザインなので、新塗装はなんら違和感もなく、感動もありません。

 

2.キハ521+キハ522 (竜ケ崎:1993年10月)

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 そして、本当は長老のキハ521+キハ522も新塗装です。すでに錆が浮いていましたが、おそらく、慌てて新塗装を上塗りしただけだったのでしょうか?ところで、関東鉄道では、このクラスの元機械式気動車の成れの果て車両も、常総線からは淘汰されてしまい、龍ヶ崎線に残るのみとなってしまいましたが、この錆具合を見ていると、その去就が気になりました。ちなみにこの車両は元々国鉄キハ42000系でした。江若鉄道時代に総括制御化されて3両固定編成のまま関東鉄道に流れ着きましたが、1975年に関東流通勤車化改造の洗礼を浴びて車体更新されてしまい、流線形の面影は全くありませんが、よく見ると台車は菱枠型です。

 

3.キハ531 (入地~竜ケ崎:1993年10月)

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 そして、もう1両の元機械式気動車の成れの果て車両であるキハ531は元気に走っていました。こちらは出場したてなのかピカピカの新塗装でした。この車両も江若鉄道から来た車両ですが、元は国鉄車ではなく戦前製の江若の発注車でした。足回りはかなりくたびれていますが、重宝な両運車であるため、これからまだまだ活躍します。廃車になったのは2001年でした。

 

4.キハ531 (入地~竜ケ崎:1993年10月)

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 天気が良いので、早速佐貫に向けて沿線撮影開始です。日中の龍ヶ崎線は、1両だけのピストン運行です。この日はキハ531の独り舞台でした。

 

5.キハ531 (入地~竜ケ崎:1993年10月)

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 龍ヶ崎線の沿線は、米の収穫も終わり、大変のんびりしていましたが、この新塗装はやたらと目立ちます。

 

6.キハ531 (入地~竜ケ崎:1993年10月)

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 そして、銀色のキノコの様なグローブ型ベンチレーターもよく目立ちますが、この車両には7個もグロベンが付いていました。

 

第840話 1992年伊予:川造を追い掛ける(その3)

第839話では、話しが横道に逸れてしまいましたが、川造に話しを戻します。

 この頃、現役の川造が存在していたのは、伊予鉄の他に弘南鉄道大鰐線津軽鉄道くらいでした。その中でも伊予鉄の川造は、一番状態が良く、なによりも唯一の電動車でした。

 

1.モハ112+クハ412+モハ111 (梅津寺港山:1992年12月)

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 今回も高浜線ですが、梅津寺で川造を捉えました。今回は陽の向きが変わって、モハ112の顔です。この編成は、MTMの3連ですが、モハ112+クハ412は片運車の2連で、モハ111は両運車です。かつては、元京急と元小田急車から成る混成のモハ120形と混結して3連が4本と、4連用の増結車が2両存在しましたが、平成になった途端に700系の導入でバタバタと廃車されて、この時点で辛うじて1本だけ残っていました。

 

2.モハ112+クハ412+モハ111 (梅津寺港山:1992年12月)

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 以前にも触れましたが、この車両が生き残れた理由は、伊予鉄に移籍する際に外板の更新を行っていたためと思われます。構体の更新ではなかったので、川造のイメージはそのまま踏襲されたことが、なによりも幸いでしたが、1994年3月に廃車となりました。

 

3.モハ825+サハ855+モハ815 (梅津寺港山:1992年12月)

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 800系は1984年~1985年にかけて移籍以来、冷房化された以外は特に変化もなく3連で運用されていましたが、やはり運用の見直しでこの翌年から2連化が始まります。その改造は、中間車のサハ850系に運転台を設けてクハ化するもので、これにより、モハ810系はモハ720形と同じように、片運車で1M化されました。

 

4.モハ825+サハ855+モハ815 (梅津寺港山:1992年12月)

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 そして、クハ化されたクハ850形は京王5000形モドキの貫通前面となりました。現在伊予鉄には現車は存在しませんが、現車ははるか東の銚子電鉄で現存しています。

 

5.モハ816+サハ856+モハ826 (西衣山~衣山:1992年12月)

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 気が付けば、伊予鉄の800系も過去の車両になってしまいました。現在は、京王3000系が移籍された様ですが、相変わらずの京王伊予線です。

 

6.モハ111+クハ412+モハ112 (西衣山~衣山:1992年12月)

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 さて、1992年の伊予鉄は以上です。その後も、どういうわけか松山に出向く機会がなく、この時が川造の見納めとなってしまいました。あれから既に30年が経ち松山の街も電車もかなり変わったと思います。

第839話 1992年伊予:川造を追い掛ける(その2)

四国は関西圏ですが、以前から琴電伊予鉄もなぜか関東方面の大手私鉄から中古車を買い集めていました。そして1990年代になると琴電京急伊予鉄は京王の色合いが益々濃くなっていました。

 

1.モハ717+クハ767 (牛窪団地前~牛窪:1992年12月)

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 夕方になるとオレンジ色が一段と映えます。やはり元京王5000系には伊予鉄カラーが似合います。後に塗装が変更されて、クリーム色地に窓下にオレンジ色と黄色の細い2色ラインとなりますが、私はこの塗装の方が好みです。

 

2.モハ710形+クハ760形 (岡田~古泉:1992年12月)

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 この日は、ついでに郡中線にも行ってみました。撮影場所を決めていなかったので適当に岡田で下車しました。こちらは2連の700系が走っていました。

 

3.モハ714+クハ764 (岡田~古泉:1992年12月)

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 郡中線の終点である郡中港駅はJR予讃線伊予市駅すぐ近くです。よって、郡中線予讃線はモロに競合路線となります。かつては予讃線は非電化で松山以西は相当なローカル線でしたが、この頃は伊予北条伊予市間がすでに電化されており、都市型ダイヤが運用されていたので郡中線には脅威でした。

 

4.モハ710形+クハ760形 (岡田~古泉:1992年12月)

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 郡中線は、他の路線と直通はしておらず、松山市郡中港間の線内折返しで運用されていました。この路線は南予鉄道として明治29年に開通した路線です。明治33年には伊予鉄道に合併されますが、横河原線や廃止された森松線共々非電化でした。しかし、郡中線は戦後の燃料事情が悪いなか、1950年に電化されましたが、横河原線は1967年まで非電化で残りました。

 

5.モハ712+クハ762 (岡田~古泉:1992年12月)

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 この日の郡中線は700系ばかりでした。この頃、郡中線には川造が運用されていたのか不明ですが、川造は3連化されていたので、恐らく郡中線に運用されることはほとんどなかったのではないかと思います。

 

6.モハ720形+モハ710形+クハ760形 (西衣山~衣山:1992年12月)

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 ここからは高浜線です。高浜線伊予鉄道では一番古い路線で、開業は明治21年でした。当初は非電化のナローゲージで、国内では一番古い軽便鉄道とのことです。いわゆる「坊っちゃん列車」でしたが、国鉄予讃線開通に対抗して、改軌、電化、複線化を図り、伊予鉄では一番気合の入っていた路線です。

 

7.モハ810形+サハ850形+モハ820形 (西衣山~衣山:1992年12月)

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 現在高浜線横河原線と直通運転されていますが、これは、1981年から始まったもので、それ以前は、松山市駅を基点に、高浜線横河原線郡中線がそれぞれ3方向に個別に運行されていました。しかし、横河原線は1967年まで全列車がDL牽引の客車で運行されていたとは、高浜線横河原線のギャップを感じます。その横河原線で活躍していた客車の1両が、第589話でお伝えした古町車庫の2軸客車です。

第838話 1992年伊予:川造を追い掛ける。

第588話~第590話では、1992年年末の伊予鉄道古町車庫の様子をお伝えしましたが、車庫訪問後の沿線撮影をお伝えすることをすっかり忘れていました。ちょっと間が空いてしまいましたが、今回はその続きをお伝えします。

 

1.モハ51 (大手町:1992年12月)

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 ここは松山市内の大手町です。前方はJR松山駅で、ちょうど伊予鉄の市内線と鉄道線が平面交差する場所です。こういう光景も今となってはこの場所くらいではないでしょうか。

 

2.モハ112+クハ411+モハ411 (古町:1992年12月)

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 さて、今回お伝えしたかったのは、この川造(カワゾウ)です。元西武電車ですが、伊予鉄では一番古い現役の電車でした。わずかに1編成3両だけが生き残っていました。しかし、年齢の割には良く働いているようで、それだけ調子が良かったということでしょうか。

 

3.クハ767+モハ717 (古町:1992年12月)

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 ここは古町ですが、700系は高浜線の営業列車です。高浜線の列車は横河原線との直通運転ですが、架線電圧は高浜線はDC600V、横河原線はDC750Vでなぜか異なっています。ちなみに郡中線はDC750Vです。電圧の境界は松山市駅ですが、市内線はDC600Vなので、先程の平面クロスや古町車庫の市内線と鉄道線の共用は問題ありません。しかし、鉄道線車両は異なる電圧区間を直通しますが、いわゆる複電圧車ではなく、DC750V仕様となっており、DC600V区間は性能を下げて運行されています。同じ路線で架線電圧が異なるとは、どういう理由なのか?おそらく古町車庫が市内線車両も同居していることに理由があるようですが、元々高浜線横河原線は別会社であり、高浜線は1931年には電化されましたが、横河原線伊予鉄合併後も1967年まで非電化で、全列車がDLで客車を牽引する超旧態然とした路線でした。横河原線の電化前から郡中線はDC750Vなので、すでに車両はDC750VとDC600V区間をまたがって運用されていたことから、横河原線の電化は郡中線の規格に合わせた様です。

 

4.モハ112+クハ411+モハ411 (古町:1992年12月)

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 古町のホームで電車を待っていたら、高浜行の川造がやって来ました。この日、川造は、横河原・高浜線の運用に入っていました。早速追い掛けることにしました。

 

5.モハ111+クハ411+モハ412 (牛渕団地前牛渕:1992年12月)

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 横河原線に先回りして、川造を捉えました。この3連は、モハ112+クハ411にモハ111を連結した、オール川造編成です。少し前までは仲間がいましたが、この時点ではこの1本だけになっていました。

 

6.モハ718+クハ768 (牛渕団地前牛渕:1992年12月)

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 700系は基本は2連です。当初は大半がMc車を連結して3連で運用されましたが、この頃は運用の見直しで、日中は2連が多かったように思います。

 

7.モハ721+モハ711+クハ761 (牛渕団地前牛渕:1992年12月)

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 3連はモハ720形(Mc)+モハ710形(Mc)+クハ760形(Tc)で運用されていました。720形は高浜・郡中寄りに連結される片運車ですが、この車両は主制御装置、補助電源、コンプレッサーを装備する1M電車で、単独で走行が可能です。時々連結を開放されたモハ720形が単独で本線を回送することがあったそうでが、片運車の単独走行はなんとも異様です。