ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

号外2024.04.06:たまには新車を見に行こう!!

先月の桜の開花が足踏みをしている頃、平日に休暇が取れたので、朝からぶらっと出かけました。ちょうどラッシュアワーだったので、いつものように出勤感覚で京浜東北線に乗ったものの、さてどこに行こうか?

たまたま乗った電車は鶴見行でした。そう言えば、鶴見線に新車が入って、ワンマン運転が始まったという話を聞いたばかりでした。しばらく鶴見線はご無沙汰していたのですが、「たまには新車を見に行こう!!」と、いうわけで、今回は最新ネタの号外です。

 

1.鶴見駅鶴見線ホームにある路線図 (鶴見:2024年3月)

・・・で、そのまま鶴見に到着。久々の鶴見線はまだラッシュアワーの最中で、小さいホームには大勢の通勤客がいっぱいでした。

 

2.鶴見線鶴見駅時刻表(2024年3月時点、大川行を黄色でマーク)

これは鶴見線鶴見駅の時刻表です。これを見ると行先がいろいろあります。乗り間違いに要注意です。弁天橋行の列車は入庫だと思いますが、浜川崎行や武蔵白石行の区間列車が意外と多いです。

鶴見線と言えば、このブログでも何回かクモハ12形が現役だった頃の様子をお伝えしましたが、もう30年も前にクモハ12形を追い掛けて大川や海芝浦によく通ったものです。さて、時刻表を見ると、ちょうど8:07発の大川行に間に合います。大川行は、平日の朝は4往復しか走らないとてもレアな列車です。これも何かの縁です。とりあえずこれに乗りました。大川行の3両編成の電車は投入されたばかりのE131系1000番台でした。かつての鶴見線は中古車の巣窟でしたが、専用の新車が投入されるとは、時代が変わったということでしょうか。

 

3.鶴見線E131形大川行車内案内表示器 (安善:2024年3月)

大川行の電車には、こんな車内案内表示が付いていました。大川行は結構混んでいましたが、安善で半数くらい下車して、あっという間に次は終点です。クモハ12形の頃は武蔵白石にも停車していましたが、現在は安善の次が大川です。

 

4.大川駅表示 (大川:2024年3月)

沿線の風景を楽しむ間もなく、わずか13分の所要時間で大川に到着です。さて、折り返しまで少々時間があるので、駅の外から電車でも撮影しよう思ったら、ホームには下車するお客さんの長蛇の列が・・・。これは何事かと思いましたが、大川駅には出札用のSuicaのカードリーダーが1台しかなく、皆さん並んでいたわけです。平日の朝でも4往復しか走らない大川支線なので、立派な自動改札機などもったいないので仕方ありません。

 

5.大川駅とE131形 (大川:2024年3月)

しかし、そんなローカル線にも新車が投入されたとは、まさに青天の霹靂です。写真は新車のE131系1000番台です。すでに鶴見線の電車は205系ではなく、すべてこの電車の様です。クモハ12形が走っていたことなど、すでに大昔のことですが、この電車に乗って来た通勤客には、クモハ12形で通勤していた人がきっといるはずです。

 

6.大川駅表示 (大川:2024年3月)

久々に大川駅で下車しました。この日は平日なので大勢の通勤客は個々に会社へ消えて行きました。通勤客がいなくなると、この駅は誰もいなくなります。

 

7.大川駅駅舎内部 (大川:2024年3月)

ここは大川駅のコンコース?ですが電車が行ってしまうと、なんとも寂しい!!。これが都会の秘境駅である所以です。この駅には、かつては券売機がありましたが、利用客のほぼ100%はSuica利用の様なので、もう券売機はありません。代わりに乗車証明の発行機がありました。 

つづく。

第1167話 1995年水島臨海:あの苦言の波及効果(その4)

とうとう水島臨海にもNDCが投入されました。時代の流れなのか、それもやむを得ません。これでまた趣味の対象が減ってしまいます。でも、廃線で減ってしまうよりはマシですが・・・。

 

1.キハ208+キハ20形 (球場前~倉敷市:1995年8月)

さて、この日はまだ時間に余裕があったのでどうしようか悩みましたが、以前であれば、下津井や片上など、ちょっと足を延すことも可能でしたが、この時点で近隣にローカル私鉄はもうありません。一番近くて岡電ですが、広告電車に興味はありませんし、そうなると対岸の琴電ですが、水島からでは倉敷、岡山、瀬戸大橋経由で高松まで2時間はかかり、日が暮れてしまいます。

 

2.キハ205+キハ20形 (球場前~倉敷市:1995年8月)

仕方なく、いつもの場所でキハ20の撮影です。気合の入らない、どうでも良い撮影でしたが、こんな時に限って天気が良く、撮った写真は絞りもピントもドンピシャの出来でした。

 

3.キハ207+キハ20形 (球場前~倉敷市:1995年8月)

私が初めて水島臨海を訪問した1976年当時、列車は日中ほとんど走っておらず、水島機関区へ行くのをあきらめるほどの状況でしたが、それから19年が経過し、この頃の水島臨海の列車は30分ヘッドになり、次々とやって来ました。関東鉄道常総線と同じくらいの頻度ですが、こちらは単線で、しかも貨物も走ります。貨物本業の臨海鉄道のはずですが、いつの間にか旅客主体になってしまった様です。

 

4.キハ208+キハ20形 (球場前~倉敷市:1995年8月)

どの列車もキハ20形の2連です。ボロと言われましたが全車冷房車なので、真夏ですが快適そうです。そう言えば、この日も暑かったです。炎天下のなか、よく水島機関区まで歩いて往復し、しかもその後で、こんな撮影をしたものです。

 

5.キハ205+キハ20形 (球場前~倉敷市:1995年8月)

撮影を続けていたら、もう運用列車が一巡した様です。気が付けばNDCを撮っていません。ある意味、ラッキーでした。でも本当は、ここにキハ07がいた頃に、こんな撮影がしたかったです。

 

6.キハ208+キハ20形 (球場前~倉敷市:1995年8月)

結局この日もさんざんキハ20形を撮りました。もうお腹いっぱいと言ったところです。これで撤収です。

第1166話 1995年水島臨海:あの苦言の波及効果(その3)

さて、今回は気動車の話題です。いつものキハ20形ばかりと言いたいところですが、あの苦言の波及効果で、とうとう新車が入ってしまいました。

 

1.キハ206 (倉敷貨物ターミナル:1995年8月)

新車が増備されれば、このキハ20形は当然廃車となる運命ですが、当時の私は、キハ20形などどうでもよい車両だったので、この先どうなろうが全く無関心でした。

 

2.キハ211、210 (倉敷貨物ターミナル:1995年8月)

しかも、水島臨海のキハ20形は、1993年の前回訪問時にさんざん撮りましたので、もうこれ以上撮影する必要もありません。ですが、水島臨海のキハ20形もいよいよ見納めか?と、この時は思い、カメラを向けました。

 

3.DE701、キハ206 (倉敷貨物ターミナル:1995年8月)

しかし、キハ20形はその後もしぶとく残ります。やはり第3セクターとは言え、全車を新車に置き換える予算はありません。ほどほどに新車が入れば、ボロばかりとは言えなくなります。あの苦言の波及効果はそれで十分です。

 

4.MRT302+MRT301 (倉敷貨物ターミナル:1995年8月)

・・・で、新車の登場です。この年の2月に竣工したばかりのMRT300形2両です。言わずもがなのNDCでした。これが、あの苦言の波及効果の結果でした。

 

5.MRT302+MRT301 (倉敷貨物ターミナル:1995年8月)

ちなみに、1995年頃のNDCの納入実績は、JR西日本キハ120形、島原鉄道キハ2500形、茨城交通キハ3710形、三陸鉄道36-500形と言ったところです。JR西は16m級NDC、島原、茨城、三陸JR九州キハ125形タイプの18m級NDCです。ところが、水島臨海は・・・新バージョンでした。

 

6.MRT302+MRT301 (倉敷貨物ターミナル:1995年8月)

おおっ、デカイ!!。これがMRT300形です。なんと全長21.3mの超ロングボディー!!。それまで大型と言われたNDCは18mです。MRT300形をNDCと言って良いものか?しかし、NDCです。さすがに、ここまで大きいと、出力は330PSにアップ、台車もボルスタレスタイプのNP129です。このMRT300形はその後も6両まで増備され、やはりキハ20形に廃車が発生しました。

第1165話 1995年水島臨海:あの苦言の波及効果(その2)

今回も水島臨海鉄道の機関車の話題です。

 

1.DD501 (倉敷貨物ターミナル:1995年8月)

DD501もDD506も見た目は実に平凡で、まったく興味の沸かない機関車でしたが、それ以外の機関車はどうかと言えば、DD504,505あたりは、やや個性的な機関車でした。

 

2.DD505 (倉敷貨物ターミナル:1995年8月)

DD505はまだ現役でした。この機関車は廃車となったDD504と兄弟機で共に川崎車輌製の50t機です。こちらも500PSですが、機関はDMH17の2基搭載車です。前頭部のグリルや前照灯配置が同年代のDD13ぽい風貌ですが、キャブまわりは産業用機関車丸出しです。

 

3.DD505 (倉敷貨物ターミナル:1995年8月)

この頃のDD505は予備機的存在だったのか、構内の端っこに留置されていました。その後も2013年頃までは在籍していた様ですが、いつ廃車になったのか不明です。

 

4.DD504(廃車) (倉敷貨物ターミナル:1995年8月)

留置線には、1991年に廃車となったはずのDD504がいました。これは部品確保のためなのかわかりませんが、その後も残ります。このDD504はDD505より1年早い1960年に製造されましたが、エンドビームの形状がDD505と異なり、これも独特のスタイルです。

 

5.DE701 (倉敷貨物ターミナル:1995年8月)

そして、この当時の主力であったDE701です。そのまんま、国鉄DE11形のコピー機です。しかし、自社発注車です。長らくJR西岡山(岡山貨物ターミナル)まで直通する貨物運用に君臨していましたが、とうとう2021年に最新の電気式機関車にその座を追いやられてしまいました。

 

6.廃車、未入籍車両群 (倉敷貨物ターミナル:1995年8月)

さて、水島機関区の構内には、相変わらず骨董品市のごとく、廃車、未入籍車両が置かれていました。前回1993年訪問時から内容は変わっていない様ですが、若干配置が入れ替わっていました。これらの実態は第716話をご覧下さい。

第1164話 1995年水島臨海:あの苦言の波及効果

水島臨海鉄道の車両の実態については、第715話~第718話でお伝えしましたように、偉い人からボロいと苦言を呈されるほどでしたが、あの苦言の波及効果が、なんと新車導入となって数年後に現実となりました。

 

1.DD501、DD506 (倉敷貨物ターミナル:1995年8月)

まあ、新車やキハ20形のことはどうでも良いのですが、琴電の撮影ついでに、機関車を見に水島へ出向きました。車庫にはDD501とDD506が並んでいました。この2両は兄弟車ですが、DD501の方が新しい車両です。

 

2.DD506 (倉敷貨物ターミナル:1995年8月)

水島臨海の気動車国鉄の中古車ばかりでしたが、さすがに貨物が本業の臨海鉄道なので、機関車はすべて自社発注のオリジナルです。

 

3.DD506 (倉敷貨物ターミナル:1995年8月)

このDD50形シリーズは、DD503から登場しました。以前はDC501とDC502という3軸のL型機関車がいましたが、その追い番としてDD50形は503が初号機となりました。その後DD50形は増備が続き、DD507となる最終増備車が投入される頃にはDC501がいなくなっていたので、空き番を埋めるため最終増備車はDD501となりました。ちなみに、DC501は別府鉄道のDC302として水島臨海を引退後も活躍し、現在は播磨郷土資料館で別府鉄道で活躍した機関車として保存されています。

 

4.DD501 (倉敷貨物ターミナル:1995年8月)

DD501とDD506は共に日立製の産業タイプの50t機ですが、製造年が近いのでほとんど同じ仕様です。

 

5.DD501 (倉敷貨物ターミナル:1995年8月)

この機関車は、500PSのDMF31SBを1基搭載しています。機関室側面の大きなグリルが特徴です。

 

6.DD506 (倉敷貨物ターミナル:1995年8月)

この頃のDD50形は、稼働状態だったのがDD505、506、501の3両でしたが、いずれも水島臨海線内の運用でした。JR西岡山まで直通していたのはDD701のみでしたが、逆にJR機も倉敷貨物ターミナルまで乗り入れ来ました。水島臨海鉄道には、港東線(水島~東水島)、西ふ頭線(三菱自工前~西埠頭)の貨物専用線がありましたが、西ふ頭線は運行されていない様でした。

第1163話 1995年新潟交通:日車標準タイプの牙城(その3)

新潟交通との付き合いは1980年代からです。1987~88年頃は長期出張で新潟に住んでいたので、その頃は最も精力的に新潟交通の撮影をしていましたが、越後らしい風景に拘っていたので撮影は燕側に集中しており、新潟側はほとんど写真がありません。

 

1.モハ12 (東関屋~東青山:1995年9月)

この頃のモハ12は広告電車ではありませんでした。オリジナル塗装なので撮影に気合が入ります。ところで、この場所からの撮影は、この日が初めてでした。厳密に言えば、対岸から夕方に撮影をしたことはありましたが、この場所は初めてです。

 

2.モハ12 (東関屋~東青山:1995年9月)

この場所は見通しが良く、側面も狙えたので、3連を撮らなかったのは不覚でしたが、この場所以上に燕側は魅力的だったわけです。やはりこの電車は、マンションをバックにするよりも、広大な田園地帯の中で撮るのが相応しいです。

 

3.モハ18+モハ11 (東関屋~東青山:1995年9月)

2連のジャスコ電車がやって来ましたが、これは車庫にいた2連ではなく、モハ18+モハ11でした。後部のモハ11はパンタを下げてトレーラー扱いです。

 

4.モハ18+モハ11 (東関屋~東青山:1995年9月)

この写真は連写ではなく、折り返しの列車です。この列車も2連なので、ラッシュはまだ続く様です。以前の新潟交通は、モハ同士の2連は滅多に走りませんでしたが、この頃は当たり前になっていました。

 

5.モハ25+モハ21 (東関屋:1995年9月)

本線運用の列車を一通り撮ったので、再び車庫に戻りました。まだラッシュが終わっていないので、車庫に戻ってきた車両はいません。しかしながら、旧態然としたクハやモハ16が淘汰されて、つまらない路線になってしまいましたが、気が付けば日車標準タイプがいるの唯一の路線になっていました。

 

6.モワ51 (東関屋~東青山:1995年9月)

この後は、電車に乗って白根方面に向かいます。どこで撮影しようか悩みましたが、とりあえず木場へ・・・・。この後の様子は別途お伝えします。

第1162話 1995年新潟交通:日車標準タイプの牙城(その2)

東関屋の車庫を訪問した後に、信濃川の関屋分水でラッシュ時の列車を撮影しました。路線短縮後は、列車を撮影する場所がかなり限定されました。2連をしっかり撮影するとなれば、この関屋分水の橋梁がベストです。

 

1.モハ14+クハ46 (東関屋~東青山:1995年9月)

しかし、ロケーションは決して宜しくありません。大きなマンションをバックにこんな写真しか撮れません。

 

2.モハ14+クハ46 (東関屋~東青山:1995年9月)

少し引いて、撮るとこんな感じです。よく見ると貴重なクハ46を連結した2連です。クハはいつも月潟寄りに連結されるので、朝は逆行で顔が撮れません。そして、順光となる夕方はほとんど走る機会がなく、なかなか顔が拝めません。

 

3.モハ14+クハ46 (東関屋~東青山:1995年9月)

東関屋を折り返して、MT編成が白根に向かいました。逆方向はガラガラですが、まだラッシュは続く様でした。

 

4.モハ12 (東関屋~東青山:1995年9月)

車体広告がないモハ12が来ました。モハはどの電車も車体広告が入っているので、撮影意欲を減退させますが、この電車は気合が入ります。

 

5.モハ12 (東関屋~東青山:1995年9月)

先程のクハ46をこの電車に連結して欲しかったですが、毎度のごとく思うようになりません。

 

6.モハ2230+モハ2229 (東関屋~東青山:1995年9月)

小田急が来ました。かなり混んでいる様です。これだけ混んでいると、東関屋から乗り換えるバスも相当混み合いそうです。せっかくの鉄道ですが、このまま市街地まで乗って行けないことが非常に残念です。

 

7.モハ2230+モハ2229 (東関屋~東青山:1995年9月)

朝の3連がなくなった以降、この電車は新潟交通の最大輸送力となりました。唯一のカルダン車であり、小田急塗装です。元は小田急2200系ですが、写真のモハ2230は前面の貫通扉を埋めてしまったので、オリジナルではありません。かつて、この小田急電車は東関屋~白山前の路面区間を走っていましたが、もう過去の話しです。その様子は第461話をご覧下さい。