蒲原鉄道の沿線にこれほど人が住んでおらず、飲み物の自販機もないとは思いませんでした。
期待した七谷で飲み物も飲めず、なぜか無性に腹が立ったのですが、戻るに戻れず更に前進。次第に山が深くなり、熊でも出てきそうな雰囲気。なんだか「八甲田山死の彷徨」を思い出しながら、辿り着いたのが冬鳥越スキー場でしたが、ここも夏なので無人。とうとう峠を越え、ようやく人家が見えて土倉です。しかし、飲み物の自販機はなし。さすがに炎天下には逆らえず土倉でダウンしてしまい、駅のベンチで30分程うたた寝です。
1.土倉駅を出発した五泉行きのモハ41 (土倉:1984年8月)
土倉駅でうたた寝していたら、村松行きの電車が行ってしまいましたが、何とか体力も復活して午後の部スタートです。
2.加茂行きのモハ41 (土倉~高松:1984年8月)
先ほど見送ったモハ41が戻ってきました。
3.加茂行きのモハ41 (土倉~高松:1984年8月)
この日は日中、モハ41とモハ12が村松~加茂間の運用に入っていました。この2列車が途中の七谷で交換し、ほぼ1時間間隔のダイヤでした。
蒲原鉄道は五泉~加茂間が全線ですが、途中の村松がこの鉄道の中枢であり、列車の運行系統は村松~五泉間と村松~加茂間に分かれていました。列車の本数も乗客数も村松~五泉間が多く、村松~加茂間が廃止された後も、村松~五泉間は1999年まで生き延びました。
四国の高松駅と比べてはいけません。こちらの高松駅は今は亡き金割鉱泉の最寄り駅です。これでも冬場の風雪をしのげるよう、小屋があるだけでも立派に機能を果たしていました。
5.モハ12 (高松~大蒲原:1984年8月)
越後の里山を行くモハ12です。このような景観を行くローカル私鉄は頸城鉄道亡き後は蒲原鉄道くらいしかなかったと思います。撮影の合間にザリガニ釣りをしてしまいました。
この撮影を終えて、最寄りの大蒲原駅から列車に乗り、村松に向かいました。この日はロケハンを兼ねて、炎天下のなかを無謀なほど歩きましたが、結構土地勘が身に付き、次回はもっと効率よく回れると確信できました。
さすがに村松はまともな駅でした。ようやく食事も出来、帰りは五泉経由で新津から165形の急行佐渡号で爆睡して帰宅しました。