1988年当時、東北新幹線は盛岡まで開通していましたが、北海道なみに遠かったのが岩手開発鉄道でした。
そして、岩手開発鉄道は旅客鉄道ではありましたが、旅客列車の運転本数はわずかに5往復で、その内終点まで行くのは3往復だけでした。もっともこの鉄道は、セメントの原料である石灰石輸送が主体で、貨物列車は24時間ひっきりなしに走っており、旅客列車はおまけにもならないくらい小規模でした。
今回は1988年8月に意を決して向かった岩手開発鉄道の旅客輸送をご紹介します。
1.キハ202 (盛:1988年8月)
岩手開発鉄道は現在も盛業中ですが、1992年に旅客営業は廃止されて石灰石輸送のみの貨物鉄道になっています。東日本大震災では甚大な被害を受けましたが、見事に再起しています。
2.キハ202 (盛:1988年8月)
当時、岩手開発鉄道の拠点である盛に行くには、JRを乗り継ぐか、高速バスの利用でしたが、鉄道は一ノ関から先が恐ろしく時間がかかり、バスも高速道路がないのでとても高速バスとはいえませんでした。結局、選択したのはJRの方で、夜行の急行十和田号で一ノ関まで行き、気仙沼線に乗り継いで、盛に着いたのは午前10時過ぎでした。
3.キハ202 (盛:1988年8月)
この日は天気が悪く、終日雨が降っていました。おまけに盆休みなのか、岩手開発鉄道の貨物列車は全く運転されておらず、ここまで来て大失敗でした。
とりあえず、昼の旅客列車に乗車して岩手石橋まで一往復です。
4.キハ202 (盛:1988年8月)
岩手開発鉄道の旅客車は2両だけでした。
その1両が写真のキハ202(注1)でした。この車両は自社発注の13m級の小型気動車です。開業時に準備した中古気動車が老朽化して、やむなく導入したものですが、乗客がほとんどいない状況でわざわざ新製したとはたいしたものです。
この気動車は新潟鐵工所製で、よほど安価に仕上げたかったのか、ご覧のようにこれ以上省くものがないほど無味な食パン車両で、褒め言葉がみつからない程の風貌が特徴でした。また、勾配区間を走るため、動軸側が偏心台車となっており、昭和初期のガソリン動車を彷彿させる設計で、これは後に由利高原鉄道のYR100形などにも適用されました。
5.キハ202標記 (盛:1988年8月)
(注1)キハ202の車歴
・岩手開発キハ202:1968年新潟鐵工所製
6.キハ202車内 (盛:1988年8月)
車内も路面電車のような簡素な造りで、運転室も鉄板で仕切っているだけです。吊り手がいっぱいぶら下がっていますが、これは無用の長物でした。