ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第1091話 1995年高松琴平:忘れ得ぬあの日(その3)

さて、ここから日が変わりますが、2週間後です。この日は大阪出張の途中でしたが、休日出勤が続いたため、突然代休をもらうこととなり、せっかくなので正月のリベンジで、またまた高松に来てしまいました。

 

1.1011+1012 (仏生山:1995年1月)

しかし、この日も天気が悪く、電車賃の無駄使いになってしまいましたが、とりあえず仏生山をのぞきに行きました。

 

2.870(連妻面) (仏生山:1995年1月)

長尾線所属の870が検査入場していました。870は元山形交通の車両でした。写真の顔は普段連結寄りとなる連妻面ですが、この電車(クハ)は両運車でした。前妻が宇宙人顔の2枚窓ですが、連妻は琴電で貫通化されました。この貫通化は同じく山形交通から移籍した860にも施されましたが、860は前妻も両面貫通化されています。870の貫通面は860と同じ顔ですが、なぜか張り上げ屋根にはなっておらず、写真の様に髪の毛をセンター分けしたような雨樋が付いていました。

 

3.1061 (仏生山:1995年1月)

天気も悪く、全く気合が入りませんが、西の空の切れ目から陽が射してきましたので、イチかバチか西前田へ移動です。

 

4.315+100 (水田~西前田:1995年1月)

ここはいつもの西前田です。もう夕方でしたが、陽が射しました。背景はどんよりとした暗い空が垂れ込めていますが、幸い列車には陽が当たり、不思議な光景です。

 

6.860+760 (水田~西前田:1995年1月)

続いて、860が撮れました。しかし、なかなか日射しは続きません。明日の天気に期待して、この日は適当に撤収です。

 

5.62+3000形 (水田~西前田:1995年1月)

さて、このあと私はいつもの常宿に泊まりました。翌朝は天気が気になりましたが、日の出から撮影のため、一応5時起きの予定でした。そして、翌朝は予定通り5時に起きて、まず天気予報を見るためテレビのスイッチを入れてボーッとしていましたが、突然地響きのような轟音がして強烈な揺れが続き、一気に目が覚めました。・・・これはヤバイ。とても大きな地震でした。慌ててホテルのロービーに降りて異常がないことを確認しましたが、これがあの阪神淡路大震災でした。

これは大変なことになっているかも知れません。外はまだ真っ暗でしたが、ホテルをチェックアウトして、とりあえず高松駅へ、その道中は歩道に建物の外壁やガラス、看板が落下して散乱しており、車道を歩きました。高松駅には、すでに多くの人が集まっており、待合室のテレビが放映されていましたが、少し明るくなり、NHKのヘリ中継に写った阪神電車の車庫崩壊と阪神高速の倒壊に皆絶句!。ところでこれからどうしたら良いものか?瀬戸大橋線は運転見合わせで復旧の目途が立たず、本州側の特に神戸辺りは壊滅状況でした。この様子では帰ることが出来ません。幸いJR四国の島内路線には被害がなさそうで、運転再開となった高徳線で徳島まで行けば、和歌山へフェリーで渡れそうです。もう琴電の撮影どころではありません。大阪に戻れるのか?とにかく徳島へ向かいました。結局、この選択は正解でした。和歌山もさほど震災の被害はなく、和歌山港からは南海電車臨時運行されており、とりあえず仕事仲間の元へ直行し、皆の無事を確認できました。その後、多くの犠牲者が出たことを知りました。改めまして、亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします。しかしながら、天災はいつやって来るかわかりません。もう28年も前のことですが、この日は、「忘れ得ぬ日」となりました。