今回は川端貨物線ではありませんが、少し西へ移動して、橋本界隈にあった貨物線の話題です。「シーナリーガイド」には「砂利とり線」として、紀ノ川口貨物駅の記事が紹介されています。紀ノ川口貨物駅は国鉄ではなく、南海電鉄の砂利採取線でした。
1.「シーナリーガイド(機芸出版社:1974年)」より引用
この砂利採取線は「シーナリーガイド」によると、橋本駅~紀伊清水駅間の紀ノ川橋梁の橋本側にあった妻信号所から分岐して紀ノ川河原の紀ノ川口貨物駅まで、0.6㎞程の電化された枝線で、紀ノ川口支線と言われたそうです。開業は古く、南海電鉄の前身である大阪高野鉄道が橋本まで開通した1915年(大正4年)です。この貨物線も川端貨物線と同様に、材木や砂利輸送が目的だったそうですが、廃止は1959年とのことなので、「シーナリーガイド」が発行された頃には、すでに廃止されていました。
・・・で、1995年に、この紀ノ川口支線跡を見に行きましたが、あまりにも変貌し過ぎていて、遺構どころか何の痕跡もありませんでした。よって、写真もありません。ところが、この付近には、もう1本南海電鉄の砂利採取線がありました。それは偶然にも歩いていて発見したもので、「シーナリーガイド」にも記載がなく、謎の砂利採取線です。以下はその謎の砂利採取線についてお伝えします。
2.紀伊清水周辺地形図(引用:国土地理院地形図1/25000「橋本」S42年発行)
※適宜拡大してご覧ください。
その砂利採取線は、南海電鉄紀伊清水駅から紀の川の河原まで延びる非電化線?で、これも南海電鉄の貨物線の様です。上図の昭和42年発行の国土地理院地形図にも路線が記載されています。地図中の赤〇番号(①~④)は、以下の写真を撮影したポイントを示します。
この貨物線跡を発見したのは、南海電車の21000形を撮影するため紀伊清水周辺をブラブラしている時でした。写真①は、南海高野線の紀伊清水駅から数百mほど学文路方面に行った場所ですが、この場所は架線柱が複線幅に広がっており不自然です。ここで列車の撮影後、時間つぶしにブラブラしていたら、あぜ道に埋もれたレールを発見しました。現在この辺りは、紀の川フルーツラインという立派な道路が高野線をオーバーパスしています。
写真② 農道化した貨物線跡
この写真の前方には高野線の電車が写っていますが、貨物線跡と思われる農道は紀の川方面にカーブして行きます。雑草ではっきり見えませんが、ここにもレールが埋もれています。
写真③ 農道化した貨物線跡
その先は、少し広い農道となりますが、レールが露骨に現れました。この先は車道を横断して、紀の川の土手に出ます。写真②,③の農道は、現在舗装された車道になっているようです。
写真④ 旧貨物線の終点と思われる地点
この写真は、農道(貨物線跡)のレールを追って辿り着いた場所ですが、かつてのヤード跡の様です。貨物線跡は写真中央の建物の間を通ってここに至ります。左側は紀の川の土手です。昔はこの土手がなかったのかも知れません。
雑駁ではありますが、これが紀伊清水に存在した南海電鉄砂利採取線跡の1995年当時の状況です。現在この付近は国道370号が整備され、それに伴い砂利採取線の痕跡を留めていた農道も舗装されて車道化されており跡形もありません。
ところで、この貨物線は、紀伊清水から延長1㎞弱でしたが、果たして非電化路線だったのか?。非電化であればどのような車両を使用して輸送を行っていたのか?。そして、いつまで使用されていたのかが気になります。恐らくは、川砂利の採取が規制された昭和30年代には廃止されたとは思いますが・・・。
しかし、この貨物線の存在は、鉄道に不可欠な砂利を自給していた時代があったと言う事実として、記録に留めておきたいと思います。そして、紀の川流域の貨物輸送についても、かつて「材木、鉱石、砂利の時代」があったことを改めて偲びたいと思います。