ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

2019-03-01から1ヶ月間の記事一覧

第109話 1987年新潟交通 越後の寸景(その6)

再び新潟交通の沿線寸景です。 新潟交通は路線の大半が中ノ口川の土手に沿って敷設されたため、木場~新飯田間は良い撮影場所がほとんどありませんが、全線を歩きながら何箇所か撮影ポイントを押さえました。今回はその撮影ポイントから何点かご紹介します。…

第108話 1987年新潟交通 越後の寸景(その5)

今回は東関屋の寸景です。 新潟交通の車庫は東関屋にありましたが、車両の留置は燕や白根の側線も使用されていました。東関屋の車庫は東関屋駅に隣接しており、木造の検修庫を有している他、保線車両の基地もありました。1990年の軌道線廃止後は東関屋が終点…

第107話 1987年新潟交通 越後の寸景(その4)

1987年は10月から半年間ほど新潟に長期出張となり、越後線の小針駅の近くにあった会社の寮で暮らしました。そして休みの日は、暇つぶしに新潟交通の沿線をブラブラと足の向くまま撮り歩るいていました。結構多くの写真を撮りましたが、目的もなく撮っていた…

第106話 1987年新潟交通 越後の寸景(その3)

今回は軌道線の寸景です。 新潟交通の軌道線は白山前~東関屋間の2.6kmです。かつては途中に電停があったそうですが、軌道線がDC1500V昇圧のとなる前年の1944年に電停は全て廃止されました。ところで、終点の白山前駅は中途半端なところでした。新潟の繁華街…

第105話 1987年新潟交通 越後の寸景(その2)

1987年の5月は、就職して長岡の工場で実習をしていた頃です。ちょうど、このブログの第76~78話でご紹介した越後交通長岡線の撮影に専念していた頃でもありますが、休日は走らない越後交通だけでは物足りず、長岡から新潟交通にも出向きました。 当時いろい…

第104話 1985年,1987年新潟交通 越後の寸景

このブログの第1~3話で、1987年の晩秋に撮影した新潟交通をご紹介しましたが、その頃の新潟交通の写真が他にもあります。今回は当時撮影していた新潟交通の様子をご紹介します。 1.クハ48+モハ?形 (1985年4月:新飯田~六分) この写真は1985年3月31日…

第103話 1986年三菱石炭 ストーブ列車を見に行く(その2)

遠幌から乗った一番列車は車内を高校生が占拠していたので石炭ストーブを拝めませんでしたが、折返しの列車は私以外乗客ゼロで今度は石炭ストーブを独り占め出来ました。 1.南大夕張構内 (南大夕張:1986年3月) 三菱石炭鉱業鉄道は 清水沢から南大夕張ま…

第102話 1986年三菱石炭 ストーブ列車を見に行く

1986年3月、暇な学生のうちに冬の北海道を経験しておこうと、北海道ワイド周遊券を購入して渡道しました。例によって夜行急行列車をホテル代わりとして、札幌を拠点に釧路、網走、稚内方面を何度も往復しました。しかし、北海道はローカル私鉄がほとんどなく…

第101話 番外編(その2)

続いて模型の話題です。もう少しお付き合いください。 1.太平洋炭鉱10号機 10号機はもっともポピュラーな車両でした。そして実車が現在も北海道の三笠鉄道村で保存されています。18年前に三笠鉄道村で実車を拝むことができました。 この10号機は、結構正確…

第100話 番外編

なんだかんだ第100話まで来てしまいました。 ここで一息ついて番外編です。昨年9月に突然ブログをはじめましたが、私はもともと鉄道模型を作るために鉄道写真を撮り始めました。鉄道模型と言ってもジャンルは広いですが、私の場合は1/80ナローからスタートし…

第99話 1980年,1983年東武(熊谷) 幻のアーバン〇〇ライン!!

皆さん“アーバンパークライン”という路線をご存知でしょうか。 アメリカのニューヨークあたりにありそうな路線名ですが、直訳すると"都会の公園線"とでも言うのでしょうか?最近は路線名や駅名が激変し、いったいどこなのかさっぱりわからないことが多々あり…

第98話 1982年広島 ヒロ電ボロ電の頃(その9)

1982年3月は広島での最後の悪あがきと言うか、ようやく広電市内線と向き合うことができました。 1.元神戸市電だった1150形1151 (千田町車庫:1982年3月) 広電には多くの神戸市電が譲渡されましたが、古風な570形ばかりではなく、最新鋭の車両も含まれて…

第97話 1981年~1982年広島 ヒロ電ボロ電の頃(その8)

宮島線の古い車両がなくなってくると趣味の対象がなくなり、ますますつまらない状況になってしまい、その頃から市内線の路面電車にも目を向けるようになりました。 ところで、当時私は高校3年生でしたが父親の転勤で高校を卒業と同時に東京に引っ越すことと…

第96話 1981年広島 ヒロ電ボロ電の頃(その7)

1981年当時、私は高校生でしたが部活の関係で鉄道趣味は一番手抜きだった時期です。そのため鉄道写真は少なく、カメラの手入れも悪かったためか、カメラの調子が今一つ宜しくなかったです。当時のプリントを見ても何となくぼやけて不鮮明で、絞りも怪しい感…

第95話 1981年広島 ヒロ電ボロ電の頃(その6)

1980年代前半の広電は、いよいよ3連接車が本格増備されます。市内線直通車の変化が賑やかでした。 1.1306編成,2006+2007 (荒手車庫:1981年10月) 3000形3連接車の増備が進むと、1300形も3連接化されることになりました。1300形は2編成4両なので、3連接化…

第94話 1980年広島 ヒロ電ボロ電の頃(その5)

広電にとって軽快電車はボロ電脱却の起爆剤となったことは確かだと思います。 ところが軽快電車はいろいろ課題が多く、即増備とまで至りませんでした。しかし、宮島線車両の老朽化や市内線直通車の不足は待ったなしで、その救世主となったのは西鉄から譲渡さ…

第93話 1980年広島 ヒロ電ボロ電の頃(その4)

1980年広島電鉄では大きな革命がありました。 それは路面電車の革命とも言うべき「軽快電車」の導入です。しかし、広電は軽快電車が欲しかったわけではありません。日本鉄道技術協会が路面電車の復権を賭けて開発した3連接高性能?路面電車を広電に預けたと…

第92話 1978年~1979年広島 ヒロ電ボロ電の頃(その3)

広電は路面電車のイメージが強く、宮島線の高床車はその存在をあまり知られていません。しかし宮島線にも他社からの移籍車が存在しました。興味深いのが阪急電車の中古車が活躍していたことです。阪急と言えば能勢電以外に中古車の譲渡はほとんどありません…

第91話 1978年~1979年広島 ヒロ電ボロ電の頃(その2)

昭和50年代、私は広電の電車をまともに撮影をしたことがありませんでしたが、パラパラと断片的なプリントがあります。これらのプリントは恐らく余ったフィルムを消化するために写したものではないかと思いますが、もう少しまじめに撮影しておくべきでした。 …