ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第90話 1976年~1977年広島 ヒロ電ボロ電の頃

灯台下暗し」とはよく言ったものです。

私の場合、かつて住んでいた広島から地方鉄道を求めてあちこちに出向きましたが、地元の広島電鉄が正に「灯台下暗し」でした。

宮島線の沿線に住んでいたにもかかわらず、昭和50年代の写真がほとんどありません。あったとしても、もう40年以上も前の色褪せたサービス版のプリントが数える程で、とても人前に出せるような画像ではありません。

当時の私は、古い気動車には興味を持っていましたが、まだ古い電車にはそれほど興味がなかったことが一番の理由ですが、宮島線の電車は毎日いやでも目にしていたことから、完全に油断していました。

しかし、色褪せた僅かなプリントを見ると、現在の広電とは全く違う、正しくボロ電時代の広電がそこにあり、なんとか当時の記録を蘇らせたくなりました。プリントをスキャンし、少々加工してギリギリ耐えられそうなものをご紹介します。

当時の広電は、まだまだ旧態然とした車両ばかりで、地元では“ヒロ電ボロ電”と呼ばれていた程です。現在の宮島線は完全にLRT化されて、車両は全て市内線直通車ですが、1970年代は宮島線内専用の高床車両が多数存在しました。

 

1.様々なタイプの車両が同居していた広電 (荒手車庫:1976年4月)

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 この写真は私が中学に入学した時に入学祝いで買ってもらったインスタントカメラの試し撮りで、広電荒手車庫に出向いた時の様子です。本当は晴天だったはずですが、画像が黄色っぽいのはフィルムがコダックだった可能性があります。プリントの退色も激しく、画像補正を試みましたが時間がいくらあってもキリがないので、かなり粒子が目立ちますが、適当なところで妥協しました。(その後画像を若干追加補正しました。)

車両は左から、市内線用初代802の廃車体、鉄道線用1033、市内直通用1305Aです。この頃、宮島線では市内線直通の輸送需要が急激に増加し始めた頃で、両運車2000形の2連固定化、西鉄福岡市内線からの連接車譲受など、徐々にLRT化が始まりました。

 

2.広電オリジナルの1050形1052、1040形1041+1042 (荒手車庫:1976年4月)

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広電には1040形(注1)と言う、モダンな流線形の2連接車がいました。 この車両はもともと木造の両運車でしたが1938年に火災に遭い、その復旧に際して半鋼製化と12m足らずの流線形両運車(1041,1042)となり、その後1957年に輸送力強化で2両連接化されました。側窓が大きく、好ましいスタイルでしたが、市内線直通用連接車の増備に伴い予備車となり、1980年に廃車されました。

この写真も試し撮りの一部ですが、1040形のまともな写真が他に見当たらず、貴重なワンカットになってしまいました。

(注1)1040形の車歴

 広電1041+1042←広電1041,1042←広電D8,C2:1922年,1923年梅鉢鉄工所製

 

3.長老の1030形1034(荒手車庫:1976年4月)

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 長らく宮島線の主力だったのが1030形(注2)です。この車両は宮島線初の半鋼製車で自社発注されたH形車両を、1951年に車体を2m延長したものです。

(注2)1030形の車歴

・広電1031←広電H17:1930年藤永田造船所or川崎車輌

・広電1032←広電H18:1930年藤永田造船所or川崎車輌

・広電1033←広電H19:1930年川崎車輌

・広電1034←広電1030←広電H16:1930年藤永田造船所or川崎車輌

・広電1035←広電1034←広電H20:1930年藤永田造船所or川崎車輌

※1030形は藤永田造船所と川崎車輌で製造されましたが、どの車両がどちらで製造されたか、手持ち資料でははっきり分かりませんでした。1033だけは文献によると川崎車輌製とのことですが、これも果たしてどうでしょうか?どなたかご教示願います。

なお、1035は1034時代の1938年に火災に遭い、復旧時に車体新製されて張り上げ屋根となりました。

ところで、この写真の背景は国道2号線(新道)を挟んで広大な埋め立て地でした。当時はまだ埋め立て途上だったので、建物が一つもありませんが現在は広島市西部の商工センターとなり、すっかり街になっています。しかし、埋め立て前はすぐそこまで瀬戸内海だったわけで、さぞ風光明媚な路線だったのではないでしょうか。現在は「荒手車庫前」と言う駅名はなく、「商工センター入口」に改名されています。そして、この駅に隣接してJR山陽本線の「新井口」という駅が出来ました。

 

4.元西鉄福岡市内線1300形の広電1300形1305編成 (荒手車庫:1977年3月)

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当時広電は廃止となった西鉄の福岡市内線から大量の連接車を譲受し、これを市内線直通車に充当してゆきますが、1976年に最初に譲受された元福岡市内線1300形(注3)2編成はトレードマークのおへそ前照灯を頭上に移設した程度でほぼそのままの2連接で使用されました。

(注3)1300形の車歴

・広電1305A+B←西鉄福岡1305A+B:1964年汽車会社製

・広電1306A+B←西鉄福岡1306A+B:1964年汽車会社製

 

5.高床車と低床車が混在した宮島線 (荒手車庫:1977年3月)

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 宮島線の高床車は市内線には出ていかないので、福井鉄道の高床車のような折畳みステップは付いていません。よって、宮島線では高床車と低床車が混在して運用されましたが、どの駅も高床車用と低床車用の高低2段のホームを備えていました。現在はすべて低床車となったので、高床車用のホームは不要となりましたがまだ残存しているようです。

 

6.唯一両運車で残った2000形2001(荒手車庫:1977年3月)

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2000形(注4)は一見路面電車風の両運車ですが、3代目の市内線直通車として1960年に登場した間接自動制御、トーションバー台車を装着した鉄道線車両並の性能を有する車両です。全部で9両在籍しましたが、最初の3両がナニワ工機製で、以降は自社工場製です。2000形のスタイルは、直通車の前任である850形を踏襲したものですが、この形態とピンク色の塗装が広電の直通車両のイメージを確立しました。

(注4)2000形の車歴

・広電2001~2003:1960年ナニワ工機

・広電2004~2007:1962年自社工場製

・広電2008,2009:1963年自社工場製

なお、2000形は輸送力強化のため、1974年に偶数車+奇数車の組合せで片運2連化(2002+2003,2004+2005,2006+2007,2008+2009)されましたが、パートナーがなく1両余ってしまった2001は長らく予備車として原型のまま残存しました。