路面電車の博物館と言えば、先ずは広電ですが、かつて岡電は広電とは対照的にマイナーな路面電車博物館でした。マイナーとは失礼な表現ですが、広電の場合、大阪、神戸、京都、福岡などの大都市で走っていたメジャーな路面電車を多く保有していましたが、岡電の場合、東武日光、呉、大分、秋田などの、今となってはそんな場所に路面電車などあったのかと思うようなところを走っていたマイナーな路面電車ばかりを保有していました。
1.東山車庫留置線3802他 (東山:1980年7月)
現在の岡電はほとんどの車両が、軽快電車モドキに車体更新されて原形を留めておらず、LRVまで導入されており、かつてのマイナーな路面電車博物館など、すっかり忘れ去られています。今回は、岡山臨港や下津井電鉄がまだ健在だった頃に、ついでに立ち寄った岡電の様子をお伝えします。ちなみに、インスタントカメラで撮った写真をコピー機でスキャンした画像なので、不鮮明ですがご了承下さい。
2.3802 (東山:1979年12月)
先ずは3800形(注1)です。この車両はマイナーな車両達の中にあって、例外的にメジャーな元名古屋市電でした。あの広電にも走っていない名古屋市電であることが岡電の誇りだったかどうかは不明ですが、この車両だけはメジャーでした。
(注1)3800形の車歴
・岡電3800形3801,3802←名古屋市1561,1562:1954年日本車輌製
3800形は名古屋市電1550形を廃止となった1974年に2両譲受したものです。岡電では一番大きな車両で、唯一3扉車(後部扉は締め切り)でした。なぜかこの車両だけは、岡電の特徴である石津式パンタグラフを付けておらず、オリジナルのビューゲルでした。3801は1986年、3802は1985年に廃車となりましたが、この2両の主要機器は新車には転用されませんでした。
3.1002 (東山:1980年7月)
この車両は一見都電の6000形の様ですが、元秋田市電 1000形(注2)です。岡山と秋田の接点がよくわかりませんが、岡電さんはよくぞ秋田の電車に目を付けたと感心します。そして、この1000形は何と岡電初のボギー車となりました。岡電は岡山市内の小規模な路面電車で、車両も1000形が導入される1966年までは小型の4輪単車ばかりでした。
(注2)1000形の車歴
・岡電1000形1001,1002←秋田201,202:1959年日本車輌製
1000形は2両共1981年に廃車されて、その主要機器は軽快電車モドキの7100形2両に流用されました。
4.2501 (東山:1979年12月)
2500形は元呉市電の700形です。呉市電?と言う方も多いのではないでしょうか。
呉と言えば私たちの世代には、「戦艦大和」と「仁義なき戦い」の怖い街のイメージしかありませんが、1967年まで市電が走っていました。岡電は同じ瀬戸内の呉市電から800形2両、700形2両と600形1両を譲受し、それぞれ2000形、2500形、2600形(注3)として竣工しました。ついでですが、写真の2501の後ろの車両は元大分交通別大線500形だった3500形(注4)です。まともな写真がありませんが、この車両は別大線が廃止された1972年に2両を譲受しました。
(注3)2000形,2500形,2600形の車歴
・岡電2000形2001,2002←呉市801,802:1956年帝国車輌製
・岡電2500形2501,2502←呉市702,703:1952年富士重工製
(注4)3500形の車歴
・岡電3500形3501←大分505:1958年東洋工機製
・岡電3500形3502←大分507:1959年東洋工機製
2000形は前面2枚窓で3000形の様な顔をした前中2扉の車両でしたが、軽快電車モドキの初号機となった7000形に主要機器を転用して1980年に廃車となりました。2500形も2502が7301に主要機器を譲り1983年に廃車され、2501は7701に主要機器を譲り1987年に廃車されました。
3500形は前面3枚窓で前中2扉の車両でした。2両共1982年に廃車となり、主要機器がそれぞれ7200形に転用されました。
5.2601 (東山:1979年12月)
2601は1形式1両の存在でした。この車両は車体が元呉市電608ですが、臓物は元呉市電701の主要機器を流用して竣工しました。側扉が折り戸で風変わりな車両でしたが、1983年に廃車となり、主要機器は7302に転用されました。
6.3009,3002 (東山:1979年12月)
そして、当時の岡電で最大勢力だったのが、3000形です。
3000形は元東武日光軌道線100形で路線廃止後1968-69年に10両が大挙して岡電に移籍しました。その後3001が1973年に事故廃車されましたが、1980年時点で残りの9両は健在でした。9両もいたので当然主力車でしたが、この車両がまさか日光からやって来た車両だと知っている人は関係者以外にはいなかったのではないかと思います。